ヴワル地雷図書館
小悪魔が姿見の前でにやにやと笑っている光景があまりにも気色悪かったから、パチュリーは喘息ついでに読み古した魔導書を彼女の後頭部に叩き付けた。
かぽん、と銭湯で桶が転がるような景気のいい音がした。
「なにするんですかー!」
と、相変わらずの媚びた口調で憤るものの、彼女の正体が百戦錬磨の淫魔と知れば何を媚び売ってんだとハリセンコントを仕掛けたくなること請け合いである。
ぷんぷんとステレオタイプな怒りを撒き散らしながら、小悪魔は柄に髑髏の意匠が施してある櫛で紅い髪の毛を漉く。束の間の逢瀬と言った具合かしら、と揶揄すると、小悪魔はパチュリーの方を向いてむふふふふと不気味そうに笑う。
パチュリーは久しぶりにアグニシャインを撃った。
避けられた。
櫛で。
その身代わりとなって本棚に激突する火球であったが、防火処理を施しているため特に問題なく鎮火する。しかし小悪魔の怒りはどうにも冷めやらない。また怒っているようにも見えないところが彼女の彼女たる所以である。
「やめてくださいよ燃えちゃいますからー」
「あっさり避けるのね。小悪魔のくせに」
「恋の力ですよ、こいのちからー」
ふふふ、と薄紅色に染められた下唇に指を掛ける。
「……今度は誰と?」
呆れ混じりに問うた言葉は、小悪魔の微苦笑に溶けて消えた。
「私の場合、女性でも男性でも構わないんですけどね。今回は男性の方ですよ。とはいえ、私が吸い取るのは精気ですから、必ずしも交わることが必要ではないのですがー」
それではー、と部屋を辞する。彼女の後ろ姿はまさに恋する乙女のそれであり、精気を吸いに行くと知らなければその一挙手一投足にさえ見惚れてしまうだろう。あけっぴろげな性格が効を奏しているのか、あるいは災いしているのか、パチュリーにも小悪魔にも分からないが。
私書室に一人取り残されたパチュリーは、往々にして暇なので魔導書の写しを再開することにした。長寿であるとはいえ不死身ではないため、わずかでも多くの書を残す必要がある。
必要な知識は概ね頭の中に叩き込まれているが、書に記すと覚えも早く、複製があればいつか誰かに盗まれたとしても最悪の事態だけは免れる。準備をしておくに越したことはない。
「でもねえ……」
羽ペンを掴む。
けれども、盗みに来る輩は一人しかおらず、あまりに盗人猛々しいものだから彼女が盗人であると忘れてしまうこともしばしばあるのだった。
浅いため息を吐こうとした刹那、古めかしいだけの椅子がぐらぐらと揺れる。見れば本棚もベッドも等しく震動しており、地震という当たり障りのない答えを除けば導き出せる答えはひとつしかなかった。
「……来たか」
パチュリーは持ったばかりの羽ペンをインクに戻し、咳を払い、呼吸を整えてから私書室を後にした。
霧雨魔理沙はただ箒の上に君臨しており、今は退屈そうに図書館の主を待っている。
本棚に激突したのは速やかに主を召還するため、と言うのなら格好も付いたのだけれど、真実はただの操縦ミスである。
ヴワル魔法図書館は、空間が拡張されている紅魔館の一角を担っているが故に、空間が不条理に捻じ曲げられて外観よりも広がっている。だが空間の管理者が自分の与り知らぬところでボケをかます天然タイプの能力者であるため、ヴワルの地は現在いきなり本棚が生えてきたり魔導書が千単位で振ってきたりと、誠に忙しく喧しい空間に仕上がっている。
「くそう……そろそろ標識とか必要なんじゃないのかここ……」
内出血したらしい額を擦りながら、突然乱立した10m規模の本棚を睨み付ける。本棚もでかけりゃ蜘蛛も紙魚も巨大で、時折目が合うのはその類だろうと見当を付けた。
パチュリーが来なければこいつらと遊ぶか、などと欠伸をひとつ漏らしたところで、前方三十度斜角から鬱々と籠もった詠唱を聞く。
魔理沙は陶然とほくそ笑み、タクトを振るう代わりに箒をしならせた。
「本命様のお出ましだ。じゃあな、お前らの相手は掃除屋に任せるよ」
蜘蛛と紙魚の束の間の別れを告げ、魔理沙は弾幕と浪漫飛行の旅に躍り出た。
本棚を越え、埃っぽい天井から差し込むわずかな証明に目を瞬かせていると、沈痛な面持ちで術を唱えている魔女と出会う。
魔理沙は言った。
「よう、今日は珍しく本を返しに来た」
パチュリーは言った。
「灰は灰に、塵は塵に。
『アグニシャイン』」
電光石火、瞬く間に燃え広がる火球に恐れ戦く間もあればこそ、魔理沙は捻じ曲がりながら回転し、急襲する炎弾を擦り抜けていく。
アグニシャインは密度こそ濃いが展開する速度は遅い。最速を自称する魔理沙はその壁を難なく越突破することが出来た。
「ぬるいわ――!」
そしておそらく、それは魔理沙もパチュリーも理解している。
「えぇ……腕が落ちたかしらね……」
卑下するように呟き、パチュリーは敢然と突き進んでくる人間の魔法使いに憐れみの呪文を唱えた。
「称えよ、我はあまねく全てを創造せし
『賢者の石』」
炎の弾はどれもみな勇敢な英霊を送る灯篭に似て、特攻を仕掛ける脆弱な人間を悼んでいるように見えた。
パチュリーの周囲に展開された色鮮やかな水晶から、それぞれの異なる力が異なる速度で解放される。魔理沙はそのうちの一角に突貫する。水晶の中心が瞬き、逃れようのない光が魔理沙を包み込む。
魔理沙の唇は皮肉げに歪み、懐に忍ばせた六角の増幅器は既に彼女の手のひらにあった。
「力なき者に弾丸を、光なき空に流星を。
――『ブレイジングスター』!」
小さな八卦炉が少女の手のひらに力を宿し、それらの力はみな霧雨魔理沙を中心とした流星になる。
「夜にゃあちと早いが、とくとご覧じろ!」
叫びながら、輝きを撒き散らしながら水晶の群れを叩き割る。突き進む先にあるのは一人の魔女であり、目的もまた彼女一人に他ならない。要があるのは一人だけ、その他諸々の有象無象に用はない。
「詰めだぜ……!」
改心の笑みを浮かべ、勝利の証とばかりにパチュリーの帽子に手を伸ばす。パチュリーはブレイジングスターの余波で吹き飛ぶだろう。帽子を取るのは相手に屈辱を与えるため、ただ単に悔しがる姿を見たいからだった。
賢者の石は粉々に砕け、その身ひとつとなったパチュリーはため息と共に手のひらを掲げ、急襲する魔理沙の手首を上手い具合に握り締めた。
「んなぁ!?」
「――我は白日の下に君臨し」
魔理沙が帽子を取ろうとしていることは、彼女の視線を辿ればすぐに分かった。直線的であればあるほど行動を先読みすることは容易い。そこから先は行動に出ればよい。
実にシンプルだ。
余波で身体を泳がされても、魔理沙を掴む手は緩めない。
ここからならば、地獄が近い。
「ちょッ、それはまず――!」
「だめ。許さない」
パチュリーは宣告した。
「――そして全てを白日の下に晒そう」
『ロイヤルフレア』
本棚と魔導書、埃と塵の山から最初に這い出て来たのは魔理沙の腕だった。次いで、揺らめきながらパチュリーの腕が生え、双方共に燻った咳を吐きながら身体に付いた煤を払い落とす。
魔理沙の手にパチュリーの帽子はなく、パチュリーの手に煌びやかな水晶はない。全ては灰燼に帰し、それでも無数の本棚はヴワルの幹となり枝葉となりて立派に生え揃っている。
壮観だった。
陶然と立ち尽くしていたパチュリーは、その群像に魅入られながらも本の山で嘆息する少女の影を見下ろす。
「あーあ……」
魔理沙は、片手に持った分厚い本で顔を扇ぎ、片手に控えた箒の先端を引きずりながら下山を始める。パチュリーもそれに従い、崩れた分は後回しにしようと諦め、平坦な床に降り立った魔理沙と対峙した。
「一発目で倒れりゃ、余計な手間は掛からなかったのになあ……」
「前科があると苦労するわね」
「お前が魅力的な魔導書ばかり所有してるからじゃないか」
「お褒めの言葉と受け取っておくわ」
肩を竦めて、パチュリーは魔理沙が抱えている書物を指差す。
当の魔理沙は、悪びれる様子もなく本を団扇代わりに使っている。
「あぁ、これか。だから始めに本を返しに来たと言ったろう」
「貸した覚えは微塵もないところが不思議ね」
「借りたからちゃんと返しに来たんだ。文句を言われる筋合いはないな」
ふははは、と鷹揚に笑う。
取り合っても仕方ないと踏んだパチュリーは、すぐさま魔理沙の手から件の本を引き取った。ハードカバーの分厚い本はあちこちが変色し、角もみすぼらしく剥げ、表紙に描いてある挿絵の意図もいまひとつ読み取れなかった。ただ、題名だけは何とか認識できる。
「……『恋愛論』」
「おう。どうだ」
何故か雄々しく胸を張る魔理沙。
魔理沙の面の皮が厚いことは以前から知っていたが、本日は通常より三割増しで意味が分からない。強奪した書物を無償で返却し、その中身はこっぱずかしい恋愛論ときた。
きょとんとする。
「……恋愛論?」
繰り返してみた。
「おう。参ったか」
繰り返された。
パチュリーは、再度ロイヤルフレアか試験的にロイヤルダイヤモンドリングなど無差別放射して全面的に思考を放棄しようかとさえ思ったが、思考停止は魔法を嗜む者にとって最も忌むべき行為だ。魔法使いは世界の歪にいっぱしの好奇心をもって悉く対抗せねばならない。それは宿命である。パチュリーも魔法使いという肩書きを背負っている身分であるからして、容易に眼前の困難から逃避するような真似は出来ないのである。
まあ縛られることがないのも魔法使いの特長であるから、面倒臭くなったらマスタースパークで済ませることもあるだろう。魔理沙などは。
嘆息する。途中、喉につっかえて不器用な咳に変わった。
「はぁ、面倒くさいわねえ……」
「面倒くさいだろう。ウナギ持って来たら帰ってやるぞ」
「じゃあ訊くわよ?」
余計な横槍は受け流し、嬉々としてパチュリーの質問を待っている魔理沙に問い掛ける。基本的に魔理沙も構ってちゃんであるから、ある程度は付き合ってやらないと何を仕出かすか分かったもんじゃないのだ。今度は今回以上に暴れ回るかも知れない。被害は最小限に留めるべきであり、そのための努力は惜しむべきではない。断じて。
それを把握している分、パチュリーの方が一枚上手なのである。
「どうして、恋愛論なんか借りてたの」
表紙をばしばし叩きながら、パチュリーは問う。
半眼になっているのは、埃が舞っているせいでもあり質問内容に辟易しているせいでもある。そんなんどうでもいいから魔導書の写しを再開したかった。
「それはだなあ……と、その前に」
解答を中断し、魔理沙は無闇やたらに広々とした図書館をきょろきょろと見渡す。
「小悪魔がいれば話は早かったんだが……いないか?」
「想い人と地道に逢瀬を重ねているそうよ。まあ包み隠さずに言えば、淫魔としての責務を果たしているだけなのだけど」
義務と快楽が最上段で融合した稀有な種族であるが、その存在を羨むか拒むかは各人の精神によって大きく異なる。
魔理沙が言うように、小悪魔の恋愛論が一介の書物に収まり切らない濃い内容であることは、パチュリーにも理解できる。だが、淫魔であることを鑑みれば、おのずと答えは導き出せた。
「小悪魔に語らせたら発禁ものね……」
「そんなポルノ雑誌みたいに言わんでも」
「違うわよ。下手に読んだら、心まで犯されると言ってるの」
ぞくり、と魔理沙の背中に悪寒が走った。
知らずと、パチュリーの唇も淫靡に歪んでおり、いけないといつもの仏頂面に引き戻す。けれども、パチュリーが言ったことは決して脅しではなかった。
「下手に語らせて、その気にさせなくてよかったかもね。あの子、あれで結構はまりやすい性質だから、あなたのために魂さえ吸い尽くすほどの恋愛論を書き綴ったかもしれないし」
言葉には魂が宿り、言霊となって力を発揮する。恋愛論になぞらえるならば、恋文や愛の言葉などがそれに値するだろう。
裏を返せば、それらは往々にして人を殺す刃にもなり得るのだ。
小悪魔が意図しなくても、人間程度なら耐性の有無に拘わらず精気を吸い取ってしまう可能性も十分に考えられる。それは、魔理沙の本意ではあるまい。
「……ふん、私に脅しは通じないぜ」
「膝、震えてるわよ」
はっ、と魔理沙は自身の脚を見下ろすが、特に震えているようには見えない。パチュリーは、彼女の悔しそうな表情を窺い、少しだけ溜飲を下げた。
「さあ! そんなことはどうでもいいから本題に移るぜ!」
勢いで誤魔化そうとしているのが見え見えだが、ずっとしょんぼりしているのも辛気臭くて仕方ない。話に緩急を付ける意味でも、ある程度の加速は必要だろう。
パチュリーは、期待することなく耳を傾けた。
「私のスペルカートの銘は、言うまでもなく恋符だ。何故恋符か、という野暮な質問はシャットアウトするが、まあ花も恥じらう乙女だからあながち的外れでもないだろってことだな」
「だから、恋の真髄を知るために恋愛云々を調べていたのね」
「話の腰を折るのは感心しないが、概ねそんな調子ではある。が」
魔理沙は眉間に皺を寄せ、唸りながら腕を組んだ。
「恋愛論なんてのも当てにならんもんで、男女が恋に落ちる過程、恋愛関係にある男女の体内で起こり得る化学反応、男と女の愛し方の差異、友人から恋人になる可能性、家族計画、民族間における近親相姦の禁忌性――と、最後は文化人類学の範疇だろうが、文献としちゃあ無難な線でも私が知りたい情報はそこにはなかったんだな。で、これは先達に話を聞いた方が早い、となったわけだ」
説明終わり、とでも言うように、魔理沙は大袈裟に嘆息する。
蓋を開ければ何のことはなく、習得する魔法の幅を広げ、底を深めるための地道な作業の一環に過ぎない。ならば必ずしも恋に拘ることはないのではないかとパチュリーは思うのだが、当の魔理沙には恋だの愛だのという単語に拘泥したい乙女らしき側面があるのだろう。パチュリーは納得した。
魔理沙は、続けて説得に入る。
「で、だ。パチュリーも百年くらい生きてるんだから、浮いた話の十や二十……ひとつやふたつくらいあるだろ?」
「大幅な下方修正ありがとう」
魔理沙に皮肉など通用しないことは、彼女が臆面もなく「どういたしまして」と返答したところからも窺える。
「私が聞きたいのは、体験談と修羅場の対処法、加えてそれらの経験を踏まえた上での恋愛論だな。だから演繹より帰納なんだ。絶対的、普遍的なうんぬんかんぬんじゃなくて、一人一人の生きた道程から生み出された答えが欲しい」
情熱的に語る魔理沙の言葉に嘘はない。その熱意が他人の恋愛譚を収集しようという無粋な行為でなければ、百年を生きているパチュリーでさえ不覚にも感動していたかもしれない。
野暮な話だ。パチュリーは喉に絡まる唾を嚥下した。
「まさか、おまえ……」
気乗りせず、仏頂面を晒し続けているパチュリーを見、魔理沙は何故か顔を強張らせる。その一端に女の憐れみがこびり付いていることを知り、パチュリーは先手を打った。
「経験がないん」
「経験はあるわよ。行かず後家と色情魔のペアを作りたかったのならご愁傷様」
ああそうかい、と優しく微笑む魔理沙の頬に、一筋の紅い線が走る。パチュリーの指先から放たれた閃光は魔理沙の頬を掠め、ありとあらゆる防衛措置が取られている本棚を容易く貫いた。
魔理沙の額に脂汗が浮かぶ。懲りない魔法使いだ。
「だからあなたが言うような経験談を語ることも出来るけれど、昔話を淡々と語るのは嫌いだし、熱っぽく酔って語るのはもっと嫌い。美談にしろ悲劇にしろ、そんなものは心の底に沈殿してりゃいいのよ。サルベージするだけ無駄、徒労」
話はおしまいとでも言うように、しっしっと追い払う。
「なあ」
「何よ」
「昔、そっち関係で嫌なことでもあったのか」
「我は白日の下に君臨しそして白日の下に」
「わーかった分かったから! すぐに暴れるんじゃない!」
魔理沙は危険を察知すると同時、ロイヤルフレアの詠唱に突入したパチュリーを羽交い絞めに押さえ付けた。印象より細い腕に取り押さえられ、パチュリーは喉の奥底でぐるるると唸った。
「あんたに言われたくないわ……」
苦虫を噛み潰すように告げた言葉は、自分でも不愉快なくらい陰鬱だった。
魔理沙は、パチュリーを羽交い絞めにしたまま話を続ける。パチュリーも抵抗しない。
「悪いなぁ、乙女の逆鱗に触れるつもりはなかったんだが」
「あなた、地面に突き出てる地雷を好んで踏み潰す類の人間よね……」
「そういうボタンって、ついつい押したくなるだろ」
「せいぜい一人で死になさい……」
魔理沙の腕から器用に抜け出し、パチュリーは唇を尖らせている魔理沙に改めて宣告する。
「帰りなさい。本棚も片付けないといけないし、魔導書の写しも残ってるの」
手のひらにオレンジの光球を携え、至近距離にある魔理沙を説得する。実力行使、舌戦の不利を知りながら決して退くことがない魔理沙に、この程度の警告は無意味に過ぎるだろうが。
やはり、筋は通さなければなるまい。
「おう。じゃあ手短に済ませる」
彼女がにこやかに笑ったとしても、激情してはならない。
「だから地雷は避けて歩きなさいよ……」
光球が揺れる。
「始終爆弾を抱えながら歩いているようなものですから、無理だと思いますよー」
諦めの声が響く。明後日の方向から。
「……お帰り」
「おう、いるよ」
親しげに挨拶を交わす。
第三者の登場に、緊迫の極みにあった空間は瞬く間に弛緩した。
小悪魔の帰還である。
「ただいま帰りました」
「てっきり、泊まるものとばかり思っていたけど」
小悪魔は、頭頂部と背中に生えた二対の羽をはためかせ、困ったような笑みを浮かべた。
「お忙しい方ですから。私が望んでも、叶わないことはありますわ」
返事は短く、けれどもその一節に小悪魔の心情が全て込められている。パチュリーは「ご苦労様」と言い、魔理沙はその場の雰囲気に流されて頬を朱に染めていた。
すると、魔理沙は不意に手のひらをぽんと叩いた。
また何か思い付いたらしい。
「おい小悪魔ー!」
「はいはい」
軽くあしらう。
小悪魔も弾幕を仕掛ける気分にないのか、魔理沙の提案を穏やかに聞く。
「おまえは、たくさん恋愛してるよな」
「まあ、好きでもない方と交わるのは稀ですね」
「交わ……そ、そのへんはともかく、ちょっくら愛だの恋だのに関する話を聞きたいんだよ。ちょっとでいいから」
パチュリーの脅しが効いているのか、口調がやや後ろ向きである。小悪魔もそれなりに理解がある様子で、パチュリーに意見を求めながらも最後は適当に頷いた。
「はあ、私は別に構いませんが」
「そりゃあ良かった。いやなに、どこぞの魔女は経験が少ないもんだからいやに口が堅くてなー。その点、小悪魔は話が早くて助かるわー」
パチュリーは沈黙している。小悪魔は、そっぽを向いているパチュリーに少し顔を綻ばせた。
「大切にしたいのですよ。想い人の記憶は」
自身の胸に当てた手のひらから、心臓の鼓動が強く伝わってくる。魔理沙もつられて己の胸に手を重ね、そこから響く心の音に耳を傾ける。
「そんなもんかねえ」
「です」
と、小悪魔は強調した。
パチュリーは、ふん、と鼻を鳴らしていた。
手短に済ませると言った以上、パチュリーの私書室でのんびりと語っている時間はなかった。
空間が広く感じられるのは本棚が倒れたためであり、声が通るのも本棚が倒れたためである。差し引きゼロだ。
崩れ落ちた本棚の埃も床に落ち切ったような気がするのは、パチュリー自身がこれらの闘争を全て徒労だと捉えているせいかもしれない。
嘆息は、小悪魔の快活な台詞に掻き消された。
「では……不肖ながら、この私めが恋と愛にまつわるお話をご披露することに致します。皆様、最後までお付き合いくださいね」
わーわーきゃーきゃーと喚いてるのは魔理沙くらいなもので、付き合わされる羽目になったパチュリーは早くも急造した椅子の上で頬杖を突いていた。
「パチュリー、態度が悪いぞー」
「胡坐掻いてるあんたには負けるわ」
「あんだとー」
「楽な姿勢でも構いませんよ。ご大層な話でもありませんから」
微笑ましく語る彼女の表情はしかしいつになく真剣そのもので、瞳は遠く、ここではないどこかを見詰めているようだった。
こほん、とひとつ咳払いをし、図書館のどこかで本の頁がめくられる音が聞こえるくらい静かになった頃、小悪魔はその唇を開いた。
「――ある時、私は愛人でした」
台無しだった。
「台無しだー!」
「魔理沙さん、話はこれからですよ」
「あ、あぁ!」
冷静に窘められ、引っ繰り返しそうになった魔導書を慌てて元の位置に返す。
「まあ私は淫魔という身分なものですから、好きになる方が妻子持ちあるいは夫子持ちである場合も多々あります。けれども、淫魔という種族が背中を押す訳ではありませんが、好きになった方と懇意になりたいという想いは人一倍持っているのです」
「……それは、一途と言いたいのかな」
「お好きなように。私が行っていることは正道に反しますからね、悪魔と罵られる覚悟は出来ています」
「確かに、なあ」
呆れ混じりに同意する。
力が弱くとも悪魔であることに変わりはなく、三大欲求のひとつを支配する存在ならば彼女は悪魔と呼ばれるに相応しい。
彼女は続けた。
「愛人と言っても、肉体的な関係には至らなかったのですが。それでも、恋焦がれている方と話をするだけで私の心は満たされていきました。おそらく、あの方には種族の区別など存在しないのでしょう。良くも悪くも仕事人間ですから、相対している存在の魂が黒かろうが白かろうがいちいち気にしていないのだと思います」
「ふうん……て、それはかなり嫌な奴なんじゃないのか」
「かもしれませんね。でも、あの方が奥さんやお嬢さんのことを喋る時は、とても優しい顔をしてらっしゃいました。だから気付いたんです。この人は、厳しいこと言っているようで、内心は家族のことが大切で大切で仕方ないんだと」
語り掛けるように告げた言葉を、魔理沙は渋い顔をしながらどうにか飲み込んだ。
「……だといいがね」
「それが愛ですよ」
不意に核心を突かれ、心構えを怠っていた魔理沙がたじろぐ。
「だから、愛人という表現は不正確なんです。私はただの恋に過ぎない。あの方が持っているような、家族を包み込む慈しみの心とは種類が違う」
小悪魔は寂しそうに首を振り、果てがないように見える暗い天井を仰ぐ。
「羨ましいです。私は恋することしか出来ないのに、あの方は最初から愛を抱いている。そして、その愛で家族を守っている」
「……なあ、さっきから聞いてるが、いつの間にやら論点がすりかわってるような気がするぞ」
「静かに聞きなさい。もうすぐ終わるから」
沈黙を保ち続けていたパチュリーが、眠たそうに注意する。魔理沙はパチュリーを苛立たしげに睨んだ後、帽子の上から頭を掻いて乱暴に頬杖を突いた。
その様子を見て、小悪魔は穏やかに微笑む。
「だから、いつか魔理沙さんも」
「……あぁ」
次に続く台詞を知り、面倒臭そうに、照れ臭そうにそっぽを向く。
小悪魔は言う。
「恋の符だけでなく、愛の符を刻めるようになると良いですね」
最後は屈託なく笑って、丁寧にお辞儀をした。
「これにて、私の講義は終了とさせて頂きます。ご清聴、誠にありがとうございました」
ぱち、ぱち、と疎らな拍手のひとつひとつに頭を下げ、小悪魔は満足そうに話を締め括った。
パチュリーは気だるげに立ち上がり、魔理沙は難しい顔のまましばらく座り込んでいた。
「……つまり、今の私にゃあ愛の符を刻むのは早いってことかよ」
歯噛みする。
魔法使いの実力と関係ない部分に左右されることが腹立たしいのか、パチュリーも顔負けの仏頂面を晒している。そのパチュリーは対照的にすました顔で佇んでいる。
魔理沙のいちゃもんを丁寧に受け止め、小悪魔は優しく返答する。
「それは、ご想像にお任せしますわ。しかしまあ、魔理沙さんがいきなり愛符『ラヴアフェア』なんて唱えたら爆笑しますけど」
もう堪え切れないのかくすくすと噴き出す小悪魔。
ラヴアフェアは不倫を意味する熟語であり、二十歳にも満たない魔理沙には酷く遠い言葉だ。愛だの恋だの気軽に言っていられるうちが華だ、と暗に揶揄されているような気がして、魔理沙は箒の柄を床に叩き付けた。
がちん、と鳴り響く喧しい音を手のひらに受け止め、魔理沙は宙に飛び立つ。やっと帰るのかと安堵の息を吐くパチュリー、お役に立てたなら幸いですと無邪気に微笑む小悪魔――その両名に力強く指を差し、負け犬の遠吠えとしか思えない口上を喚き散らす。
「覚えてろよお前らぁー! 私は絶対に愛の符を刻んでやるからなー! 泣いても叫んでも知らないからな、覚悟しとけー!」
ぎゅいーん、と瞬く間にヴワル魔法図書館から離脱する。音速の速さだった。
奪い取ったのはパチュリーの時間のみ、という魔理沙にとっては屈辱的な結果に終わった襲撃であったが、パチュリーにとっては十分に劇的な幕切れだった。被害を最小限に留めることが出来たのも収穫だ。魔理沙撃退に大きく貢献した小悪魔を見れば、彼女は早くも図書館の主によって倒された本棚の修復に当たっていた。
わずかな罪悪感に苛まれ、パチュリーも転げ落ちた魔導書を申し訳程度に運ぶ。
「愛、ねえ……仮にも悪魔として生を受けているあなたから、そんな歯の浮くような台詞を聞くとは思わなかったわ。感動ね」
「お褒めの言葉と受け取っておきますわ」
散らばった魔導書を拾い集めながら、小悪魔は独り言を呟くように語り始める。パチュリーは二冊ほど運んで疲れたらしく、そこいらに転がっている椅子に座り込んでいた。
「魔理沙さん、またへんちくりんなスペルカード作るんでしょうかねえ。楽しみです」
「悪趣味ね……あなたは一発食らえば即座に墜落するだろうけど、私は何発も付き合う羽目になるのよ。冗談じゃないわ」
「思うに、ラヴアフェアは『愛符』じゃなくて『不義』とか『情事』の方が相応しいんじゃないかと」
「はいはいそうね」
適当に相槌を打って、倒れ伏したまま微動だにしない本棚の前で頭を悩ませている小悪魔を急かす。
横幅3m、高さが5mもある本棚を立ち直すだけでも相当の労力が必要になる。ドミノ倒しにならなかったのは幸いだが、床に放り出された魔導書を拾うのも一苦労だ。けれども小悪魔はため息ひとつ吐くことなく、ひとまず魔導書を掻き集めることに専念する。
健気にぱたぱたと動き回る小悪魔の背中に、パチュリーは疑問に思っていたことを素直に問う。
「ねえ」
「あ、はい」
小悪魔は数十冊の魔導書を抱えている。抜群の平衡感覚である。
バランス感覚に優れていなければ、愛人など務まらない。
知りたくもないことを暗に説かれているような気がして、パチュリーは額を叩く。
「あなたが付き合っていた――いえ、今も付き合いがあると思うんだけど、それは」
「あぁ、お分かりですか」
一応ね、と付け足し、小悪魔の仕事が一段楽するまで答えを待つ。
よいしょ、と魔導書を下ろし、流れてもいない汗を拭う。
「はい、魔理沙さんのお父様です」
だろうな、と思った。
地雷は既に踏み抜かれていたという訳だ。小悪魔も意地が悪い。
「初めに教えてくれたら……からかうことも出来たのに」
パチュリーも同罪だった。
これからが楽しみね、と底意地の悪い笑みを浮かべ、如何にも魔女と言った風情の笑みに、小悪魔は苦笑する。
「いえまあ、下手に言いふらすと殺されそうですからね。お父様が」
「半殺しと言う名の公開処刑が行われそうね。お気の毒に」
顔も知らない人間の結末を思い、涙の代わりに笑みをこぼす七曜の魔女。
「やめてくださいよー。一応、私もまだ好きなんですから」
「そうね、そうだったわね……忘れるところだったわ。でも、あの様子だと彼女も気付いたんじゃないかしら。あなたと自分の父親が通じてること」
うーん、と悩ましげに首を傾げて、小悪魔はあっけらかんと答えた。
「それはそれで、父と娘の間に倒錯的な愛情が芽生えるかもしれませんから――ね?」
淫魔の名に相応しく、淫靡な笑みを浮かべる。
ふふふと笑い合う魔女と淫魔が、図書館の中に埋もれている。
ヴワルの器は広く、全ての書を受け入れる。
その中には、様々な恋愛模様が綴られた書も無数に収められており、不義を犯した父親が、愛してやまなかった娘に撃たれるという悲しい結末が描かれた作品もまた、数限りなく収められているのだった――。
OS
SS
Index