のどごしまろやか濃厚みるく

 

 

 

「あまっ」
 姫がそう大袈裟に言い放ち、手元のカップを苛立たしげに膳に戻した。正面に正座している師匠は「左様ですか」と言いたげな顔をして微笑んでいる。師匠のそんな表情から察するに、きっと姫が甘ったるい珈琲に顔をしかめる様子を窺いたかったんだろうということは、想像に難くない。
 姫は案の定こんな甘いのどうするのよもう飲めないわよと言いたげな顔をしていて、師匠は例のごとく姫は我がままでいらっしゃいますねという表情で鎮座している。
 切りがない。
「それに何よ、私は珈琲が苦いもんだって聞いたから飲みたいって言ったのに、これどんだけ砂糖入れてるのよ。意を汲みなさいよ。甘いわよ馬鹿」
「しかし、糖を入れないままですと姫はきっと苦いわこれ飲めないわよなどと仰るでしょうから」
 言うだろうなあ。
「言わないわよそんなこと。子どもじゃないんだから」
「左様ですか」
「左様よ」
 切りがない。
 私、鈴仙からすれば、姫は絶対に「にがっ」と言うと確信している。そしてなんで砂糖を入れなかったのよと師匠に愚痴る。最終的に、私が飲む羽目になる。というか、今回にしても。
「イナバ」
「あ、はい」
 嫌な予感は当たるものだ。
「甘いから、これ飲んでちょうだい」
 やっぱり。
 ほらほらと白塗りのカップを差し出す姫に是非を述べる権利などなく、私はほのかに湯気が立ち上る珈琲をこの手に収めた。いつの間にか、姫も師匠もこちらに注目している。てゐは庭で跳ねている。きっと意味はない。
 ずず、とわざとらしく音を立てて啜った珈琲の味は、どれだけ無節操に砂糖入れたんだと思うくらい酷く甘ったるくて、それでも、甘いだけの飲み物は私の気性にとても良く合っているような気がした。
「ん……ぅ」
「あら。案外いける口ね」
「妊娠中の兎は糖分を欲しがるようですからね」
 むせた。
 空飛ぶ珈琲アンド珈琲カップを計ったかのようにインターセプトする師匠。
 しゅたッと降り立つ姿勢が格好よすぎる。
 そして私は瀕死。
「げぅ、ぐぁはッ! かッ!」
「あら、悪阻かしら」
「かもしれませんね」
「……ち、ちがいますよ! 変な邪推しないでください!」
 わりと死にそう。
 だというのに、我らが永遠亭の中枢は、盛りのついた獣を遠巻きに見るような視線を送ってくれる。兎だけど。獣人だけど。
「ねえイナバ」
「けぅ……は、はい、何でしょう」
 姫の御前と言うこともあり、一応佇まいを正して姫の言葉を賜る。今更な気もするけど、無いよりマシだ。きっと、どうでもいいことを問われるのだろうから。
「誰と交わったの?」
 にんげん? と小指を立てる。
 姫、それはジェスチャーが違います。
「姫、それは恋人を示すサインです」
「そうなの?」
 師匠もすかさず訂正する。流石だ。
「薬指はえぇと、指輪でも嵌めるのかしらね。婚姻の。でも殴ったら痛そうだけど」
「試してみますか」
「なに構えてるのよ」
「美しいクロスカウンターの軌道を計算しています」
「解説はいいから。とりあえず試すならイナバでね」
 ご指名入りました。
 要らないです。
「さあ、来なさい!」
 行きません。
「ちぇ」
 乗り気ですね師匠。
「まあ、冗談はこの辺りにしておきまして」
 本気と冗談の区別がわからないというのは、正直この人たちに付き従って大丈夫なのかという疑念に囚われもするけれど、本気で訳わかんないのも一ヶ月に一度あるかないかだし、あんまりまともに取り合う必要はないのである。
 妊娠どうこう言われるとむせるけど。
「そうね」
 姫も頬杖を突きながら真剣な表情に戻る。そういや、元々何の話をしていたのか。数分前のはずなのに、そんなことさえ忘れてしまう。飽きない、と言えば確かにそうなのだけど。
「イナバは誰と交尾したのかしら……」
 そこかよ。
「……姫」
 流石、師匠は分かってくれる。
「人間と事を成す場合、交尾より不義と言った方が表現として美しいかと」
 泣けてきた。
「あぁ、それもそうね。自然の理に背いてる感じがまた淫靡だわー」
「背徳の美を追求するなら、あえて交尾という卑猥な表現のまま貫くのも一興ですが」
「そうねえ、獣同士なら普通の交尾なんだろうけど、イナバは人の形してるからねえ。ちゃんと人の子を孕めるの? て疑問もあるけど」
「試してみますか」
「イナバでね」
 じり、と師匠がにじり寄る。
 味方はいないのか味方は。てゐ、は……あー、笑ってるや……。
 気管に残った珈琲が甘い。
「さあ、来なさい!」
 どこにだ。

 

 

 幸い、私の妊娠疑惑も瞬く間に晴れ、辱めも一瞬で済んだ。
 結局、兎はえろいということで話がまとまり、かなり切ない。そうかもしれないけど。けど。
 兎には子宮が二つあるみたいだから両方確かめないとね! と嬉々として迫る姫の笑顔が印象的だった。
 子宮が二つなのではなく、胎児がいても妊娠できるのですよ、と丁寧に解説する師匠に底知れぬものを感じつつ、私は廊下を歩きながら、なんとなく胃もたれするお腹を撫でてみるのだった。
 すりすりと、お腹いっぱいのような、満たされたような、温かい感じ。そして、ため息。
「はあ……」
 妊娠したら、こんな感じなのかなあ。
 わかんないや。
「うーん……」
 うんうん唸っていると、廊下の角から、後ろ手に何やら抱えたてゐが現れた。薄情者めと睨みを利かせていると、にまにましたてゐがぱーんと手動でくす玉を割る。

『鈴仙 妊娠おめでとう』

 黙れ。

 

 

 

 



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2007年4月20日 藤村流

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