like a bridge over troubled water

 

 

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 ずっと、音が鳴り響いている。
 耳を塞ぐことも出来ない、透明な音楽を聞きながら。
 夢に落ちるのは怖いから、ただ黙って家族の演奏を眺めていた。

 

 

 プリズムリバーの姉妹は、月に一、二回ほど里の広場で演奏会を開いている。
 田舎の生活には娯楽が少ないから、里の住民、特に子どもたちからすれば願ってもない提案だっただろう。
 彼女たちもあ金が目的ではなく、人々との交流に重きを置いていたから、プリズムリバーの居場所が出来上がるまでそうそう長い時間は掛からなかった。
 無論、障害がなかったかと問われれば、素直に頷くことは出来ない。
 例えば、四女レイラを除くプリズムリバーの身の上。
 ――郊外の森には、幽霊の棲んでいる屋敷がある。
 そんな噂を、レイラは何度か耳にしたことがあった。
「――きれい」
 演奏には、ちゃんと手を使っている。今も、姉たちは彼女たちの指だけで素晴らしい演奏を繰り広げているのだ。
 たとえ、その輪の中にレイラ・プリズムリバーの存在がなくとも。
 こうして見守られるだけで、どんなにか幸せだろうと思う。
 美しい、鈴のような音が、ヴァイオリンから奏でられた。声にならない感嘆が、観客席のあちこちから零れる。
「前々から、思っていたことなのだが」
 例えば、里の守護者。
 レイラの隣に陣取っているのは、白澤と人間のハーフである上白沢慧音。
 瞳は食い入るように三人の奏者から離さぬまま、演奏を阻害しない程度の声量で、右隣のレイラに話し掛ける。
 思えば、慧音もまたひとつの障壁ではあったのだ。慧音にとって、プリズムリバーの姉妹たちがひとつの危険因子であったように。
 だが、それはことのほか楽に取り除けたと思う。
 あるいは、始めからそんなものなど存在しなかったのかもしれない。今となっては、彼女たちが勝手に作り上げてしまった偏見のようにさえ感じられる。
 わずかな間をおいて、レイラは答えた。
「はい」
「あなたは、何か弾かないのか」
 悪意のない、純粋な疑問だった。そうですね、と自分が聞こえる程度に声を落として、
「実は、お医者さんに禁止されているんです」
 至極残念そうに。
 あらかじめそういうふうに装っておいて、レイラは唇の端を歪めて微笑んだ。
 成る程、と慧音は頷いて、降りしきる音符の渦の中、視線を左隣の影に映す。
「だ、そうだ」
「へえ、そうなんですか」
 他人事のように、レイラの主治医を自負する紅美鈴は答えた。
 大陸に伝わる簡素な衣装の上に、清潔とは言いがたい白衣を着込み、持参した椅子に堂々と腰掛けている。手は白衣のポケットに突っ込み、帽子は膝上に置かれている。
 彼女は、慧音の不躾な視線にも全く譲らない。そも、目を合わせようとすらしない。瞳が向いているのは、汗ひとつかかずに演奏を続けている、騒霊の三姉妹。
 慧音も美鈴も、プリズムリバーの三者が人間でないことは知っている。
 両者もまた人ではないから、人でないものを見分けるのは容易いという。
 要は、それから先にどうするかだ。人でないと気付いてから、どう扱うかだ。
 結果は、見ての通りである。
「良い音ですねー」
 気楽に、美鈴は言う。
「そうだな」
 なにせ、と慧音は前置きし、視線を再び右隣に移した。
 そこには、プリズムリバーの演奏に誰よりも深く浸っている、人間の少女がいた。
「何せ、レイラの家族だからな」
 想い想われる人がいて、お互いがそれを自覚しているのなら、これだけの演奏は出来て当たり前だ。
 慧音はあいにく楽器も何も弾けないが、申し訳程度に歌を歌うことは出来る。
 その歌声を素晴らしいと評してくれる人がいるのは、慧音にもまた想っていてくれる人がいるということ。
 嬉しいものだ。
「……嬉しいものだな」
「そうですねえ。まあ、何のことだかよく分かりませんが」
 だったら言うな、と慧音は美鈴の脇腹をつねり上げ、やや甲高い悲鳴のようなものが上がるか否かという刹那、ひとつの弓とひとつの管が上下に躍動し、深く長い余韻を残すことで名曲の終わりを表した。

 

 

 雲の切れ間から光が零れ、それはまるで冗談のように三人の奏者を照らし出した。
 ヴァイオリンの波紋は、音が消え去ってもなお観客の心に残っているようで、しばらくは間の抜けた静寂が続くこととなった。
 だが、それもいずれは終わる。
「どうも、ありがとうございました」
 ぺこり、とヴァイオリン奏者のルナサが丁寧に頭を下げ、他二名――トランペット奏者のメルラン、鍵盤奏者のリリカ――も姉に倣って軽く会釈する。
 その途端、演奏を称える大きな拍手が広場に響き渡った。
 ずっと彼女たちの演奏を見守っていたレイラ、互いを牽制しながらも演奏に聞き入っていた慧音と美鈴も、彼女たちに惜しみない賛美を贈る。
 この拍手もまた、ひとつの音楽なのだろうとレイラは思う。
 それに。
 これくらいしか、今の自分に奏でられるものはなかったから。

 

 

「お疲れさま、姉さん」
「うん、ありがとう」
 演奏が終われば、平然としていた奏者の顔にも疲れが見え始める。
 子どもたちとはしゃぎ回っているメルランや、やや年の行った方々と井戸端会議を決め込んでいるリリカは、疲労など全く窺わせずに話を続けているが、ルナサはその辺りあまり器用ではない。
 設置された机の上にヴァイオリンを置き、タオルで首の周りを拭く。
 交わす言葉もなく、演奏会の後に繰り広げられる団欒をただ眺める二人。ルナサも決して寡黙ではないし、騒ぐ時にはかなり騒ぐ。ただ、今は腰を落ち着けていたい。そういう気分だった。
「――いや、とても良い演奏だった」
「どうも」
 多少は疎らになった群集の中から、顔を綻ばせた慧音が現れる。ルナサが、そして先程も会っているレイラも不意に会釈をする。
 そのすぐ後に、
「本当にそうよ。素晴らしかったわー。……とはいえ、あんまり音楽の良し悪しは分からないんだけど、さ」
 揶揄も虚飾もない、素直な感想が響く。ルナサは特に気分を害した様子もなく、音もなく現れた美鈴にもまた頭を下げる。
「ありがとうございます。とりあえず、今の私たちに出来る最良の演奏だったと思います」
「うん、私もそう思います……って、ごめんなさい、演奏したの私じゃないのに……」
 慌てて前言を撤回しようとするレイラの頭に、美鈴の大きい掌がぐわっとかぶさった。
「う、わっ」
「いいのよいいのよ、プリズムリバーの演奏はあなたをまとめてひとつのものなんだから」
「で、でも……」
「だから気にすんなってー」
 このこのー、とレイラの長い髪をくしゃくしゃにして回る美鈴。妹をしっちゃかめっちゃかにされている長女のルナサは、やや呆れた笑みを浮かべている慧音に対し、唇を指で押さえ、くつくつと面白可笑しそうに笑っていた。
「……全く、あやつが演奏した訳でもないというのに」
「いえ。そうではありませんよ、慧音さん」
 凛とした口調には、まだ少し上ずった調子が残ってはいたが、それでもやはり彼女なりに真剣な響きのままで。
 ルナサは、慧音に言った。
「素晴らしい演奏は、それを見てくれる誰かが居て初めて成り立つものです」
 彼女たちの前では、美鈴に揉みくちゃにされたレイラが、子どもたちの人気者であるメルランと遭遇して凄まじい事態になろうとしていた。レイラも子どもたちに好かれているから、くしゃくしゃにされる頻度は、美鈴一人とは比べものにならない。
 慧音は、どこからか聞こえて来る笑い声を聞き、目の前で行なわれている公開プロレスを観察する。雲が晴れた空からは、強い日差しが舞い降りている。
「そうだな。良い演奏には、良い条件が備わっているものだ」
「それは、奏者だけでは賄えないものです。だから、こういう機会に恵まれるのは珍しい」
「何か、感謝してばかりだな」
「ぶっきらぼうなだけでは、長女なんかやってられませんから」
 言葉の裏に、ある種の諦めと疲れが見えたことは秘密にしておこう、と慧音は思った。
 痛い痛い痛い痛いー! とレイラの悲鳴が辺りに迸る。見れば、広場の中心にある砂場をステージにして、美鈴がレイラに関節技を仕掛けていた。メルランが審判を務め、砂を巻き上げるかのごとくカウントを刻んでいる。
「……あいつら……」
 眉間に寄った皺を、指先でどうにか引き伸ばす。
 しかし、逆四方固めとはまた稀有な技を使うものである……と、感心している場合ではなかった。慧音は、相変わらず事の成り行きを見守っているルナサを横に、渋々と歩き出す。それだけで、はしゃいでいた子どもたちの波も次第に引いていく。
「うちの妹と主治医を、よろしくお願いします」
 後ろから、他人事のような懇願を受ける。
 ただそれは、慧音を信頼している証拠とも言える。
 尤も。
「そう言われても、手加減は出来ないぞ」
「ご自由に」
 ただ単に、事あるごとに揉め事を起こす彼女たちに、嫌気が差しているだけかもしれないが。
 慧音は、気の抜けた溜息をひとつ吐き散らかして、代わりに新鮮な空気を大きく吸い込んで。


「おまえら、生きてここから出られると思うなよッ!!」


 馬鹿みたいな怒声をかっ飛ばし、硬直する美鈴たちの身体に何をぶちかましてやろうかと――。

 

 

 しゅん、という擬音が頭に浮かぶほど神妙に項垂れて正座しているのは、先程ふざけ過ぎていた美鈴とメルランである。なお、被害者のレイラは、騒ぎを聞きつけたリリカに頭を撫でられ慰められていた。騒ぎの中心人物とはいえ、毎度毎度被害者の位置に据えられているためか、周囲からは同情の目で見られることが多い。
「……」
 加害者両名の前に立ちはだかるのは、どこからか持ってきた竹刀の切っ先を地に突き刺している上白沢慧音その人である。
「すんませんした」
「ちょっとはしゃぎ過ぎました」
 反省。もはや反省せざるを得ない。
 膝の上に置いた拳が震えているのは、果たして自戒の念からかワーハクタクの重圧故か。
 どっちにしろ、美鈴はあまり反省していそうにないから意味はないが。レイラもレイラで、一応あれはスキンシップとか有効の類だと解釈しているので、慧音の態度も多少厳しいように感じてしまうのだった。
「反省、しているか?」
「はいはい、してまーす」
「……」
「してます! してます! ほらメイリンもちゃんと頭下げてー!」
「ちょ、あんたもちっと年上に対する尊敬の意をおぉッ!」
 メルランが強引に頭を下げさせると、ぷぎゃっと得体の知れない効果音が漏れた。どうも舌を噛んだらしいのは、美鈴が唇を押さえて涙ぐんでいるところからも分かる。
 ちゃらんぽらんな美鈴の態度で竹刀を振り上げ始めた慧音も、美鈴の涙に溜飲を下げたのか、一端竹刀の切っ先を下ろす。
「……ふむ、些か不安もあるが、省みているのならばやむを得ない」
「はい、涙が出るほど反省してます。主にメイリンが」
「やから敬意の念っていふのを……」
 自分にさえ聞き取れないくらいの嘆きを吐いても、涙が零れるだけで大した抵抗にはならない。ふむ、と慧音がまたひとつ頷いて、竹刀を肩に担ぐ。
「だが、謝るべきは私ではない。分かるな」
「はい、それはもう、何ていうか身内ですから」
「へえ、身内同然でしゅから」
「……お前はもう喋るな」
「ひどっ!!」
「それじゃあ失礼しましたー!」
 抗議も虚しく、美鈴はメルランに白衣の襟を掴まれて引きずられていく。最後にひとつ、慧音がやれやれと溜息を吐き、演奏会における一通りのイベントは一応の終結を見た。

 

 

 ごめんねごめんね、と肩に縋り付くメルランと、ごめんね悪かった申し訳ない、でも慧音の性格の方が悪いわよね、能力より人格の方が化石っぽいよね、と慧音に聞こえるように愚痴る美鈴に挟まれて、レイラはただ愛想笑いをするより他なかった。
「しかし遠いね。もうちょっと近くなりません?」
「無理だ。文句を言うなら帰れこの与太郎が、それ以前に仕事をしろ」
「だって当番制なんですもん。それなのに私が出て行っちゃったら、なんか部下を信用してない上司みたいで嫌じゃないですか」
「現に、私からの信頼が冗談のように下降の一途を辿っているのだが」
「嫌だなあ、始めから零なものが下がる訳ないじゃないですかー」
「……ふふふ」
「ははは」
 にこやかに笑い合っているのだが、周りは全く笑えない。笑えないはずなのに、その場しのぎの乾いた笑いを浮かべたくなってしまうのは何故だろう。けれども、慧音と美鈴の間で沈黙を続けているルナサの表情は、傍らで引きつった笑いを浮かべているレイラに比べ、可もなく不可もない平静そのものであった。リリカとメルランはいつも通り、触らぬ神に崇りなしの信条を守っている。
 ぞろぞろと、演奏会の風物詩とも言える面子が足並み揃えて向かう先は、里と森の境界にある慧音の家だ。慧音が所有している家はひとつではなく、何か入用がある時にいつでも使えるようにと各地に点在している。今向かっているのは、その中でも慧音が客人を迎える時に用いる、比較的落ち着いた内装の家屋だった。
 広場からは半刻ほど掛かるが、行き慣れていることもあってさほど長くは感じない。その一方で、初めて訪れる美鈴の口からは次々と愚痴や文句が零れる。何がそんなに気に入らないのか、それとも好意の裏返しなのか、二人の間柄は傍目からすると非常にぎすぎすしているように映る。
 ただ、これで掴み合いの諍いにまで発展したことが一度としてないのは、やはり突っ突き合うのが好きなのだろう。レイラは、そう感じる。
 大きな道を行き過ぎ、平屋の風景も終わりに近付いた頃、慧音の管理する庭が見えた。ほぅ、という飾り気のない驚嘆が、美鈴の口から漏れる。
「うーん、慧音さんの庭は何度見ても広いですねー」
 リリカが普通にお世辞を述べると、聞き飽きたと言わんばかりに慧音は肩を竦める。
 視線の先にはひとつの道と一軒の小屋。見渡す限りの草原には、ぽつぽつと黄色や青、紫の花が咲き乱れている。道の果てには鬱蒼と茂る森が聳そびえ立ち、風もないのにゆらゆらとさざめいているように見えた。
 道の脇に、領土の境界を表す木の杭が打ち込んである。至極簡素な作りなのは、そのまま慧音が領土に対する考え方を示しているようにも思える。
 とても静かなのに、何もかもがそれぞれの音を奏でているようだった。けれども、煩くもなく、鼓膜に静かに浸透する柔らかい響き。
 全身で、音を感じる。
 レイラは、ここに来るのが好きだった。
 こうして、無音を感じるのが好きだった。
 ただ、時を忘れるくらい没頭してしまうのが珠に瑕で――。
「――行こう」
 ルナサの落ち着いた声で、はっと我に返る。皆からは、少し離れてしまったようだ。
「ごめんなさい、ちょっとぼーっとしちゃって……」
「分かるよ。レイラは感受性が豊かだからね。まあ、感じやすいというと語弊があるかもしれないけど……」
「ね、姉さん!?」
 冗談ぽくルナサが微笑んで、レイラの背中を押す。ルナサがこういう冗談を言うのは珍しい。彼女もまた、気分が高揚しているのだろうか。あの演奏が、この道行きが。ここで、こうしていられるということが。
「行こう」
「……う、うん」
 その結論が出るより早く、ルナサと共に歩き出す。
 前を行く姉の背中が、いつも通り、いつもより大きく見えた気がした。

 

 

 よく言われることだ。
 ――ここに、住んでみないかと。
 ずっと、首を振り続けていた。その理由は、プリズムリバーの姉妹全員の事情が複雑に絡んでくる。里の守護者と言えども、そう易々と語れる類のものではない。
 いつか、それぞれの事情を話せるようになるまで。そうなったとして。
 その時は、首を縦に振ることが出来るだろうか――。
「――なあ、レイラ」
「え!?」
「……なんだ、聞いてなかったのか」
 囲炉裏の上に置いたテーブルは、和風建築の内装と比べてあまりに不釣合いのように思える。が、小さいながらも透かし彫りの入った綺麗な椅子も、物の見事に部屋の空気と一体になっている。
 不思議なものだ、とレイラはぼんやりとした頭のまま思った。
 無論、慧音の言葉を理解しているはずもなく。
「あ、うん、えーと……」
「聞いてなかったんだね」
 助け舟のようなとどめの一撃が、正面に座するルナサから下される。仕方ないわねえ、という美鈴の声も、隣から聞こえてくる。
 レイラと対する位置に姉たちがそれぞれ座り、レイラの左隣には美鈴が腰掛けている。
 上座に座る慧音は、仕切り直しにひとつ咳払いを放つ。
 紅茶の湯気が六本も立ち昇っているせいか、それぞれの顔色が読みづらい。おかしい。外は晴れていて、窓は開いていて、縁側も開かれているはずなのに。
 それはきっと、自分自身の頭がぼやけているせいなのだ、と――。
 理解するより先に、レイラは首筋に走る手刀を感じた。
「きゃぅ!」
「どうした、レイラ」
「いぃえ、なんでもありませーん」
「……お前が言うことではないだろう、守衛」
「守衛じゃないですよ、紅美鈴ですよ」
「お前なぞ、門番か守衛で十分だ」
「へえへえ、分かりましたよーだ……。で、お話は?」
 片目で慧音の話を促し、もう片方の目でレイラに目配せする。意識を失いそうになるところを防いでくれたのだと気付き、レイラは小さく頭を下げた。
 雀の鳴く声が、巨大な庭から無作為に飛び込んでくる。
 概ね、平穏な午後の一時だった。
「あなたたちが、ここで演奏会を始めるようになって、もうどれくらい経つだろうか」
 慧音の語りから静かに始まる。
 その続きと用意された結論は、大体分かっていた。それでも遮らずに次の台詞を待っているのは、拒絶すべきか、受諾すべきかの一線を、それぞれがそれぞれに見極めようとしているから、かもしれない。
 慧音は続けた。
「娯楽の少ない場所だからな。月に一、二回程度の演奏でも、みんな十分に楽しんでくれる」
「そう言ってもらえるのは、素直に嬉しいです」
「そうですよー」
 ルナサに続き、メルランも同意する。リリカは残り少ない紅茶を掻き混ぜている。レイラは、何も言わない。何も言えない。
 美鈴が、場の空気を読まずに音を立てて紅茶を啜る。慧音は、やはり続けた。
「感謝、している。素晴らしい演奏と、新しい世界を見せてくれたことも含めて」
「……そんな……。それを言ったら、私だって」
 レイラが身を乗り出そうとすると、それを遮るように慧音が告げる。
 次の言葉は分かっていた。けれど、レイラの中に引くべき線は存在しない。どちらかに偏れば、どちらかを蔑ろにしてしまう。それは出来なかった。
「その、ささやかなお礼という訳ではないが」
「……でも」


「この里に、住んでみないか」


 その提案は、ルナサでも、メルランでも、リリカでもなく。
 ただ真っすぐに、レイラに向けて放たれた願いであったと、その場にいた誰もが思った。
 立ち上がるか、座り直すか。その中間の位置で不自然に止まっていたレイラを、美鈴の手が静かに促す。
 細く締まった肩に置かれた手は、治療を受ける時と同じで、ひどく温かいものだった。
「まあ、とりあえず座りな」
「……はい。ごめんなさい」
「いいのいいのー」
 両肩を優しく押し下げられ、椅子に腰を落ち着ける。
 その後も、美鈴はレイラの肩に手を添えていた。慧音は話を続けているが、レイラの耳にはあまり意味のある言葉として入って行かない。せいぜい、子守唄代わりの曖昧な旋律にしかならず。
「――ですが、私たち――」
「幽霊――」
「ていうか、騒霊ってなんだろ――」
 姉たちの言葉が耳に痛い。それでも耳を塞がすに済んだのは、肩に掛かる手があったからだ。
 彼女たちを生み出してしまったのは、家族だったレイラ・プリズムリバー自身。
 プリズムリバーの屋敷より他に、住む場所をなくしてしまった根本の原因。
 行き場のない霊を、この世界に織り上げてしまったのも――。
「構わない――いつか、誰かが言っていたが……――」
 音が遠くなる。不意に、自分と現実を繋ぐ線が切れて、夢の世界に落ちていくのを感じる。
 いつもの発作だ。主治医として、美鈴が演奏会に付いて来たのは正解だった。後は、彼女が何とかしてくれる。何の不安も問題もない。ただ。


 ――幻想郷は、全てを受け入れるのよ。
 それは、とてもとても――。


 最後に、姉の声を聞く。
 それが誰の声かも分からないけれど、意識を失いかけた妹を心配してのものだというのは、声が聞こえなくなってからも、十分すぎるほどに理解出来た。

 

 

 美鈴の肩に、レイラの身体が寄り掛かる。
 初めに反応したのは、今まで静観していたリリカだった。
「レイラッ!」
「落ち着きなさい」
 美鈴が、低い声でリリカを制す。がたん、と椅子が激しくずれる音は、絶叫よりも後に聞こえた。その一言だけで、再び元の静寂に帰る。たった一人、瞳を閉ざしている者を除けば。
「リリカ」
 ルナサも、押し殺した声でリリカを押し留める。上唇を噛み締めているように見えるのは、美鈴の錯覚だろうか。普段ははしゃいでいるメルランと、常に落ち着いている慧音は、目立った行動を起こしていない。
 美鈴は腕をレイラの肩に回して、もう片方の手でその額と目と唇に触れる。熱は無し、瞳孔も正常、呼吸は一定した旋律を奏でており、身体的な異常は見られない。分かっている。レイラの病は身体ではなく、魔力や気力、魂といった概念的なものに起因しているというのは。
 雀の鳴き声が、室内に響く。
 縁側を見ると、米粒でもばら撒いたのか、何羽かの小柄な雀が地面を啄ばんでいた。
「……分かったわよ。でも、レイラは休ませてあげて。椅子に座ったままじゃ、身体を痛めるから……」
「そうね。ちょっと、布団かベッドか用意してくれない?」
「分かった」
 慧音が立ち上がるのと、美鈴がレイラを抱え上げるのとはほぼ同時だった。お互いに、視線のひとつも交わさない。
 軽々と持ち上げてはいるが、レイラも人並みの体重はある。リリカひとり、ルナサと二人だったとしても、妹を安全に運ぶことが出来たかどうか。
 リリカは、不治の病に意識を閉ざしているレイラと、彼女を大事に抱えている美鈴を見た。
 こういうのは、嫌いだ。
 自分が、妹に対して何も出来ない存在だと思い知らされているような――そんな気がするから。
 慧音が隣の部屋に移動し、彼女が帰ってくるまでは、誰も何も喋らなかった。
 メルランは、一人ちびちびと紅茶を啜る。瞳は先程と変わりなく、多少なりとも目が泳いでいるルナサとは態度も表情も違う。
 まるで動じないメルランに、リリカが何か言ってやろうと思ったとき、慧音が縁側の廊下から顔を出した。
「終わった。レイラを」
「あいよ。……それでいいね?」
 美鈴が同意を求めて、頷いたのはルナサとメルランの二人、リリカは厳しい目で見詰めているだけだった。
「よくないって言われても、こちとらどうしようもないんだけどねえ……」
 両手が塞がれているのに、美鈴は肩で器用にこめかみを掻く。
 そのとき、腕の中で眠っているレイラが、かすかに身じろぎした。
「看病する」
「……ん?」
 リリカが、一歩前に出る。
「とにかく、何でもいいから。レイラの側に居たいの」
「……んー、どうしようかねえ……」
「ッ! あんたの意見は聞いてないのよッ!」
「リリカ!」
 絶叫と叱責が重なり、次いで、椅子が引きずられる不快な摩擦音が響く。
 ちびちびと、紅茶を啜る水温も。
 美鈴とリリカの関係は、あまり良好ではない。正確には、リリカが一方的に美鈴を毛嫌いしているだけだ。レイラが眠り始めた途端に殺伐とし出した空間で、慧音は溜息を吐くと同時に警告する。
「お前ら、本当に辛い思いをしているのが誰だか分かってるのか」
 レイラの顔色は変わらない。ただ、見る者によっては渋面を来たしているように見えなくもない。先に言葉を告げたのは、美鈴だった。
「……ん。調子に乗った。ごめん」
「……ごめんなさい」
「謝るのは後だ。レイラにも誰か付いていた方がいい。リリカ」
 こくりと頷いて、リリカが美鈴の後に続く。頭はまだ熱い、今も目の前の背中を引っ掻いてやりたい。けれども、それをするのは全てが精算された後だ。リリカが、自分の力でレイラを守ることが出来て初めて、リリカは美鈴と対等になる。
 縁側の廊下から、隣の部屋に向かう際。その小さく震える背中に、
「リリカー」
 気の抜けた、肩の力もまるで入っていないメルランの声が掛かる。
 なんだろう、と振り向くより先に。
「レイラのこと、よろしく頼むねー」
 心配しているのかいないのか、姉妹でいてもよく分からない、励ましの言葉を聞いた。

 

 

 縁側から見える壮大な景色は、文字通り果てのない緑だった。
 山岳の稜線に落ちる紅い太陽を見れば、しばらくここから離れ難くなる。
「はー、疲れたわー」
「お前というやつは……」
 美鈴が肩を鳴らしながら、慧音がそんな彼女を冷ややかに眺めながら帰ってきた。
 重苦しい雰囲気を解そうという彼女なりの気遣いだと思いたいが、いまひとつ信用できない部分が多すぎる。とある館の守衛として働いている事実、不明瞭な経歴、底の知れない能力。
 医者の全てが善良ではない。仕事のための仕事、と割り切っている場合もある。
 そこを、見誤ってはいけないと慧音は思う。
 慧音の視線を知ってか知らずか、美鈴は白衣の裾を折って椅子に腰掛ける。隣には、もう誰も居ない。
「よっこいしょ、と……。あ、紅茶からっぽだ。あの、もう一杯淹れてくれません?」
「自分で淹れろ。……正直、紅茶を淹れるのは慣れていないんだ」
「んじゃ、そうしますわ。……と、他に淹れて欲しい人は?」
 はーい、とメルランが元気良く手を挙げる。カップは、いつの間にか空になっていた。
 一旦ルナサに手渡し、ルナサが美鈴に託す。了解、と軽く頷き、二個のティーカップを手に歩き出した。その背に。
「待て、美鈴」
「……ん、どうかしました? 珍しく名前で呼んだりして」
 皮肉るように慧音に問い返す。が、慧音もいちいち構いはしない。
 慧音は庭を背に立ち止まったままの体勢で、一応の疑問を告白する。これを晴らすことは、プリズムリバーの姉妹たちを安心させることにもなるからと、自分に言い訳をして。
「茶化すなよ。本当に、レイラは大丈夫なんだな」
「やっぱり、心配ですか?」
「当たり前だ。多少見知った者なら、たとえ見知らぬ者でも、苦しんでいる姿を見るのは忍びない」
「……ふうん、そうなんだ」
 美鈴は片手の指に二つコップを引っ掛けて、空いた方の手で額の生え際辺りを念入りに撫でる。そのせいか、美鈴の表情は、彼女に椅子の背もたれを向けているルナサとメルランは勿論、慧音もまた窺うことが出来なかった。
「そういう生き方してると、いつか無駄な重さで潰れちゃいますよ。とりわけ、自分とはあんまり関係ない奴の」
「誤魔化すな。私はレイラのことを訊いている」
「まあ、別にいいんですけど。それはあなたの問題だ。レイラの問題なら、ひとまずは大丈夫ですよ。さっきマッサージも施しましたし。応急処置みたいなもんですけどね」
 慧音は眉を潜めた。美鈴のいう『さっき』が昨日や一昨日の出来事を示しているのでないことは、状況から判断して明らかだ。続けざまに質問する。
「そんなもの、いつの間に行なったんだ。まさか、肩にへばり付くのか指圧だったという訳でも――」
 かちり、とカップ同士が打ち合わせる音色。
 美鈴は、何か気付いたらしい慧音に、酷く面倒くさそうに言った。
「あぁ、それなら砂場で関節技仕掛けたでしょう。逆四方固め。接骨院なんかで、よく骨が鳴るくらい極めるのがいますけど、大体あのへんの亜流です」
 眠たそうに目蓋を擦り、驚くべきか呆れるべきか分からずに、ただ唖然としている慧音を見る。
「あと、無理に信用してくれなくてもいいですよ。私の信頼があろうとなかろうと、レイラが死ぬことはありませんから。絶対に」
 最後は、少し突き放すように。
 美鈴はひとつ欠伸をこぼして、静まり返った居間から立ち去った。

 

 

 

 包み隠さずに言えば。
 この一年は、嘘の塊だった。

 

 

 

 意識が回復して、まず最初に気付いたのは掌の感触だった。そこだけが、やけに温かい。
 ゆっくりと目蓋を開けて、側に誰がいるのかを確かめる。
 そこにいる女の子は、いちばん下の妹と手を繋いだまま、妹の身体に突っ伏して眠り込んでいた。くぅくぅと、可愛い寝息が繰り返されるたび、栗色の髪が小さく揺れる。
 外は暗く、光は側壁のランプから与えられていた。レイラは、不意に胸を擦る。痛みも苦しみも、動悸も吐き気もない。不安とはどんな病だろう。絶望は、それを越える幸福で塗り替えられるだろうか。
「……目、覚めた?」
 部屋の片隅には、襖に寄り掛かる美鈴の姿があった。
 彼女は何も言わないけれど、レイラはおおよその事情を察することが出来た。意識が途切れる最後の一瞬、姉の声が聞こえた。内容は覚えていないが、それでも自分の名を呼んでくれていたことは分かる。
「ご迷惑を、お掛けしました」
「いいのよ別に。困るのは私じゃないから」
 意地悪そうに笑うと、レイラも顔を綻ばせた。
 レイラには、その言葉が美鈴の照れ隠しだと知っている。美鈴は絶対に認めないだろうけど、きっとそうに違いない。
「相変わらずですね。……その、やっぱり、リリカ姉さんは」
「ん? ……あー、確かに突っ掛かっては来たけど……。まあ、あなたが気にしても仕方ないことよ」
「でも」
「んじゃ、こう言うと分かるかしら。あんたが絡むと余計ややこしくなるから、ほっといて」
 苛立っても憤ってもいないのに、突き放すように冷たい口調だった。ランプの陰に隠れて、表情が変わったかどうかまでは読み取れない。
 じりじりと、ランプが油を焼く音が聞こえる。
 障子の向こう、窓の外からは何が聞こえるだろう。耳を澄ましても、これといった声は聞こえない。
「……ずるいです。それは」
「そうだね。みんながみんな、仲良く暮らせたら幸せなんだけどね」
 リリカが、口をもごもごさせて首を動かす。幸せそうな、緩み切った顔がレイラの目の前に現れる。家族の前でも滅多に見せない素顔を目の当たりにして、美鈴の唇がまたひとつ吊り上がった。レイラは、これをネタに姉が散々からかわれる未来を幻視して、それを止められないことを予め謝っておいた。
「あと、起きたら言おうと思ってたんだけど」
 美鈴が、小指で耳の穴を穿りながら、さも何でもないことのように言う。
 こういう時こそ、注意が必要だ。警戒心が削ぎ落とされるから、核心を突かれた時に正直な反応をしてしまう。隠すべきことなどあまりないが、それでも易々と告白出来ないことがある。
 だが、いくら身構えたところで、経験の差を埋めることは出来ない。
 何十年、何百年と生きてきて、ここにある妖が出来上がった。完成度や密度といった問題ではなく、世界にあるものをどれだけ見てきたか、という経験値において、紅美鈴はレイラ・プリズムリバーの遥か上を行っている。
「あのね。嘘は吐かないようにして」
 それは、予想出来た内容ではあった。
 けれども、おうむ返しになってしまったのは、レイラがまだまだ未熟である証拠だろう。
「……嘘、ですか?」
「そ。歌えないのを他人のせいにしない。あなたが歌えないのは、あなた自身の理由からでしょう」
 違います――と言ってしまえば、美鈴はそれ以上追及しなかったに違いない。
 だがレイラは沈黙した。非が自分にあることを認め、申し訳なさそうに目を伏せ、ちょうどよく、リリカの寝顔が視界に入ってしまった。
 何故か、胸を切り裂かれたような痛みが走る。
 騙しているのは、自分だけではなくて。おそらくは、掛け替えのない家族も含まれている。
「……」
「歌えば?」
 気楽に進言する美鈴。彼女には、悪意も邪心もないのだろう。歌いたければ歌えばいい。そうでないなら、レイラの自由。
 レイラの首は、縦にも横にも振られない。
 何ができるのか。何がしたいのか。何ができないのか。何もしたくないのか。
 それは、一年が経った今になっても、よく分からない。
「よく、分かりません」
「そう」
 問答は、美鈴の呆気ない返答で簡単に終わった。
 他にすることもないのだろう、襖に手を掛け、彼女がこの場を後にしようとした時。
「まあ人生長いんだから、別にいいんじゃない? とりあえず、あえて踏み外そうとしない限り、あなたを生かすことくらいはできるからさ」
 そう言い残して、レイラの言葉も待たずに部屋を去る。襖を閉める時の、擦れる音が耳に心地良い。
 それから、リリカの寝息と掌の熱を感じている間に、時間は過ぎた。
 それから、ルナサとメルランが来て、リリカの頬を抓ったり、他愛もない昔話をしたり、風邪をひいた家族を案じる理想的な時間が過ぎた。
 それから。
 それから。
 それから。

 

 

 翌朝、レイラの体調も元に戻ったので、プリズムリバーの四姉妹は慧音に一通りのお礼を言って、美鈴と一緒に彼女たちの家に戻った。
 プリズムリバー邸は、人里から少し外れた森の中にある。
 樹木の密度が少なく、近くに水源も確保できる理想的な場所に、その洋風の屋敷は建っている。
 夜になれば、妖怪や魔物の類もよく出没するが、それらはプリズムリバーの長女、次女、三女が丁寧にご退場願っている。たった一人の、人間の四女も安全に暮らせる。
 騒霊が三人、人間が一人。
 霊が生まれたのは、四女の願いが形になったもので、言わば嘘のような存在だった。
 レイラにとって、姉は本当の姉ではないし、姉にとって、レイラも本当の妹ではない。
 善悪でなく、好き嫌いでもなく、嘘は嘘で、虚像は虚像である。
 レイラが願ったものは、紛れもなくその虚像だったから、それ以外に望むものなどなかった。
 そして、願いが叶って。
 それから、一年が経った。
 今もまだ、人生は続いている。

 

 

 


 

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2005年12月20日 藤村流

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