嘘じゃない

 

 

 

 この魔女も、恋をしたことはある。
 最早取り返しの付かない昔日の幻を想うのは、パチュリーの私室に小悪魔が居る時である。
 彼女は恋多き悪魔として有名であり、その名声は紅魔館に留まらず人間の里や妖怪の山にまで響き渡っているとかいないとか。小悪魔の煩悩になどさして興味を惹かれないパチュリーであるが、流石に扇情的な姿勢を姿見に晒している様子をまざまざと見せ付けられては、記憶に霞が掛かるほど深く沈殿した懊悩も、何かの間違いで表層に浮かび上がって来るというものである。
 だからパチュリーは物憂げに溜め息を吐き、小悪魔は陰鬱なパチュリーに流し目を送る。
「如何なさいました?」
「好い加減、低俗なストリップショーは貴女の部屋でやってほしいのだけど」
「まだ脱ぐ時間じゃないですよぉ」
 二の腕を擦りながら、小悪魔は蕩けたような声を出す。
 パチュリーは辟易した。
 小悪魔を淫魔として召喚したのは他ならぬパチュリー自身だが、今にして思えば何故ただの使い魔を呼び出さなかったのか、当時の自分に説教したいくらいである。彼女が発情する期間は限られているのだが、問題はそれが頻繁に繰り返される点だ。けれどもただの人間ならば年中発情している。だから巷には人間が溢れているのだと、何処かの誰かが警鐘を鳴らしていたような記憶が不意に頭をもたげた。
 机に置かれたミルクティーはまだ湯気を立ち昇らせているが、果たして小悪魔が自室に引き込むまでに飲み終えることが出来るかどうか、パチュリーには判断出来なかった。
「何にしろ、いずれ脱ぐのね」
「ご想像にお任せ致します」
「妄想の間違いじゃないの」
「ご随意に」
「……全く」
 嘆息しようとして、咳が漏れる。
 小悪魔が慌てて近寄ろうとするのを遮り、不安げに佇む小悪魔を待たせる。パチュリーの具合が悪くなれば、軽口を叩く余裕すら失せる。不埒で、誠実で、律儀な悪魔を前に、パチュリーはまだ燻りがちな喉を擦りながら、言う。
「大丈夫」
「大丈夫なんて言葉、軽々しく言う人ほど信用できないんです」
「あぁ、それは、そうかもしれないわ」
 酷く、得心が行った。
 背もたれに深く背中を預け、まだ油断ならない瞳でパチュリーを眺めている小悪魔に、瞳の焦点を定める。紅い髪、黒い羽、魅惑的な体躯。美しいと、艶かしいと思う全てがそこに凝縮されているような気さえする。パチュリーですらそう錯覚するのだから、常人ならばあるいは魔性の美でもって彼女に吸い寄せられるのも頷ける。
 小悪魔は、胸の前に紅い櫛を抱いたまま、心配そうにパチュリーを眺めている。
「でも」
 思考の続きが声に漏れ、今更無かったことにも出来ないから、パチュリーは続けた。
「懲りないわね」
 肘掛けに肘を置き、頬杖を突く。
 固められた己の拳が頬に柔らかく突き刺さり、歯茎が少し軋んだ。
 小悪魔は、問うような眼差しをパチュリーに送っている。
「それは」
「貴女は自由よ」
 先んじて、束縛や命令の意図が無いことを示す。大仰な言い方になったことを悔やみ、それでも訂正はせずに言葉を続ける。
「何をしても構わない。自由は責任を伴うけれど、貴女自身が抱え込むのなら私が異論を差し挟む余地はない」
「そうですね。肯定や否定の文句を告げられたことは、一度たりとも」
「これでも、暇じゃないのよ」
 淡々と、冷徹さすら感じさせる口調で、パチュリーは告げる。
 小悪魔の手は真っ黒なスカートの前で組まれ、自然と胸が寄せられる形となる。
 意識せずとも、女が滲み出る。
 業が深い。
「だから、疑問が残る」
 瞳の奥に籠もる暗い輝きが、魔女の瞳孔にぽつりと灯る。
 純粋な疑問、理解出来ないことに対する興味と好奇、あるいは他人の真相を捲る無粋な願望。それら全てが重なり合い、寄せ集められた煩悩が、すなわち知への欲求なのかもしれない、とパチュリーは考えたことがある。
 小悪魔が自ら歩む道を、強制したり矯正したりするつもりは毛頭ない。
 だが、何故その道を選ぶのか、その本質的な理由を訊きたいだけだ。
 性質が悪いのは、どちらも同じである。
「何故繰り返すのか」
 この魔女も、恋をしたことがある。
 最早時間を巻き戻すことが出来てさえも取り返しの付かない昔日の幻を思い、咽び泣くことすら滑稽だと思えるようにはなったけれど、幻影は残像として瞼の裏に焼き付いている。
 粛然と佇む悪魔を窺い、その瞳に宿る確かな輝きを見る。視線が絡み、お互いに何を想っているのかを入念に探り合う。
「死別、決別、終焉にも様々あるものだけど、時の流れが人妖神魔精霊において等価でない以上、必ず別れは訪れるものよ。心も、体も、魂も」
 小悪魔は静かに聞いている。
 パチュリーは何故このような質問を投げかけているのか解らなくなっていたけれど、一度滑らせた唇は、落ち着く場所を見つけるまで永遠に空回る。
「己が永遠に成ることは出来ても、他人に永遠を強要することは不可能に近い。私が共に在りたいと望んでも、叶わないこともある」
 叶わなかった。
 結果を言えば、それが全てだ。
「だから思うのよ。貴女は一体、どんな気分で邂逅と決別を繰り返しているのかと」
 責める気はない。ただ、訊きたいだけだ。
 小悪魔はパチュリーの問いを咀嚼するように、ゆっくりと天井を仰ぐ。紅く、艶やかな髪が薄らぼんやりとした灯りに煌めき、反射する。
 しばらく底の見えない天井を見つめた後、小悪魔はパチュリーに向き直り、言う。
「言わせて頂くならば」
 毅然とした口調だった。
「一度や二度、恋を経験したからといって、何を解った気になっているのですか」
 敢然と、魔女の胸に突き刺す意図を持って放たれた言葉だった。
 パチュリーは、当然の如くぐうの音も出ない。
「そりゃ、別れた直後は二度と恋なんてするもんかと思いますけどね」
 言葉遣いが柔らかくなり、瞳に宿していた灯りも温かなものに変わる。
「それでも繰り返すのは、好きだからですよ」
 微笑みながら、小悪魔は諭す。
 至極単純なことを、世界の真理であるかのように、きっぱりと。
 パチュリーは、遮る言葉を持たなかった。
「パチュリー様も、好きだったのでしょう?」
「……忘れたわ」
 昔の話だ。
 そう簡単に忘れられるものなら、苦労はしないのに。
 小悪魔は笑う。
「今、その方は」
「知らない。もう死んだんじゃないの」
 素っ気なく返すと、小悪魔は残念そうに肩を竦めた。
 百年を越えて生き続けられる人間など、そうそう居るはずもない。もし生きていたら、と考える余地もない。それはとても楽なことだった。彼のことを考えても仕方ないのだと、みずからの心を説き伏せることも容易い。
 ミルクティーはもう湯気を立てない。時間は流れた。小悪魔が逢瀬を迎える時刻も迫っている。
「行きなさい」
「良いのですか。これから面白くなるところですのに」
「惚気なんか聞きたくない」
「左様ですか」
 上唇に指をかざし、くすくすと笑う。薄く紅を差した唇が、薄暗い部屋の中に淫靡な光を灯す。小悪魔がどれくらい恋だの愛だのと呼ばれる経験を重ねたのか、恐らく彼女より若いパチュリーには測りようもない。小悪魔は紅い櫛を胸に挿し、背筋を伸ばしてからパチュリーに会釈する。
「それでは、行って参ります」
「家庭は壊さないように」
「承知しておりますよ」
 悪魔が言っても、説得力に欠ける。
 パチュリーは笑った。

 

 

 小悪魔は速やかに私室から退出し、残されたパチュリーは、既に冷め切ったミルクティーに口をつけた。
 ぬるい。
「……だめね」
 白磁のカップをソーサーに戻し、使い古された机を人差し指で軽く叩く。
「咲夜」
「お呼びでしょうか」
 そう言いながら、銀のトレイには新しいミルクティーが用意されている。用意周到と称えるべきか、監視されているのかと戦くべきか、どちらでも構わないパチュリーは特に何も言わなかった。
 甲斐甲斐しくカップを交換する咲夜の横顔を眺め、パチュリーは問う。
「貴女、恋をしたことはある?」
「えぇ。御座いますが」
「そう」
 冷淡に呟いても、咲夜は何も言わなかった。何となく救われたような気がして、頬が緩む。
 真っ白に、ぼんやりと立ち昇る湯気の向こう側に、人間のメイドが佇んでいる。用は無い、という意思表示のつもりで手を振ると、咲夜は会釈した後に溶けて消えた。あっさりとしたものである。必要なこと以外は何も答えない。若干、口寂しいものを感じるけれど、下手に惚気られたり泣かれたりするよりはマシである。
 パチュリーはひとり、部屋に取り残され、ふらふらと漂うミルクティーの湯気をぼんやりと眺めている。耳を澄ませば湯気の音さえ聞こえて来るような、柔らかい静寂。
 つ、とカップに指を滑らせると、その熱に小さく震える。
「……熱いわね」
 恨みがましく呟く独り言も、また静かだ。
 けれども熱が冷めるのを待つのも癪だから、反射を堪えながらカップの縁に唇を付ける。紅も何も差していない唇はただ唇の感触だけを器に伝え、唇もまた器の硬い感触を知る。
 ――何を、解った気になっているのですか。
「……全く」
 喉の奥に、甘い香りが落ちる。
 苛立ちと裏腹に、込み上げて来る笑いがある。心の膿を見透かされ、過ちを過ちと指摘される爽快感がある。……そうだ、何も解っていなかった。解っている振りをして、理解することを怠った。その先を、その底を見ることを躊躇った。
 怖いから。
 切ないから。
 繰り返せば必ず訪れる別れとそれに伴う悲哀、絶望、煩悶に耐えられる自信がなかった。
 嘆息する。咳は出なかった。
「だめね」
 額に、カップの縁を寄せる。
 その熱が、眉間の皺を丹念に解いてゆく。
「こんなんじゃ、あの人に笑われるわ」
 好き、と。
 人を好きになることを教えてくれた。
 その意味を、たとえ魔法使いになっていても、追求し続けなければならなかったのに。
 いつからか、諦めた。
「……は、ぁ、ッ」
 溜め息は途切れ、束の間に喘息に還る。
 苦しいけれど、既に慣れた感覚だ。苦しいけれど、辛いけれど、慣れは来る。そうして、そうやって、同じように諦めた。喘息が治まり、視界が元に戻っても、パチュリーは俯いた顔を持ち上げることが出来なかった。
 息が震えている。
 忘れていた、心の底に沈めていた記憶が蘇る。
 何も知らなかった自分と、何かを教えてくれた人、繋がり、与えられ、受け入れる。
 終わりを恐れ、終わりを迎え、終わる。
 でも。
「でも」
 硬く、握り潰しそうなほど強く握り締めたカップを置き、パチュリーは顔を持ち上げる。
 知識の泉に沈む我が身を呪い、底に居ながらにして呼吸が出来る我が身を誇る。
 パチュリー・ノーレッジは、自由だ。
 何処にでも行ける。全てを知ることも容易い。ただ、何を知るべきか、その指標が無かったに過ぎない。否、道標ですら初めから有った。パチュリーが、それを見ていなかっただけで。
 そう考えれば、何を卑下する必要があるだろう。
 もう一度、始めれば良い。
「そうね」
 幾分か冷めたミルクティーは、喉を焼く心配もない。
 ごくごくと喉を鳴らしながら飲み下し、底にわずかに沈殿する白濁が見えてようやく、パチュリーはカップを置く。
「もう一度」
 何処かの誰かを、好きになってみるのも。
「……ふふ」
 そう考えて、可笑しくて、パチュリーは笑っていた。

 

 

 

 



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2007年10月14日 藤村流

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