Invisible Edge
白狼天狗は普段、暇をしている。
妖怪の山に喧嘩を売ろうという輩も滅多にない現状、犬走椛は知り合いの河童と将棋でも指そうかと滝壺に降りたは良いが、件の河童は川流れでもしているのか影も形も見当たらなかった。
「いないのかあ……」
暇だなあ、と現状を確認する。
滝壺に落ちる激流の雫が頬に触れ、小春日和にほんのわずかな清涼をもたらす。
手頃な石に腰掛け、困ったものだと膝に頬杖をつく。千里先を見通す目は如何なる侵入者も捉えて離さないが、その殆どが見知った者たちであるため、牽制する必要も誰何する必要もない。
即ち、暇である。
「いないものはしょうがないけど……」
ふんふんと鼻を鳴らすのは、椛の癖だ。白狼天狗という名の示す通り、椛に通っているのは狼の血である。けれどもその外見から咄嗟に狼と判断することは難しい。鴉天狗でさえ、羽を露にしていなければ天狗であること以外には所属も何もわからないのだ。
ましてや、狼であるにもかかわらず犬だの何だの吹聴される始末で、あながち間違いでもないのだけれど、人間が猿だの言われるとそこそこの割合でムッとするように、あまり良い気はしないのである。椛とて、祖先である犬の存在そのものを軽視しているわけではないのだけれど、侮る意図がある発言か否かを判別することは出来る。要は、犬どうこう言われるより、馬鹿にされるのが嫌だという単純な問題なのだが。
煌びやかな滝の音が、耳朶に響き三半規管を貫いてゆく。
水浴びがしたい、と思える季節はとうに過ぎ行き、今は山の中腹にある温泉に浸かりたい。けれども職務を遂行している身である以上、犬走椛の身体は此処から動くことが出来ない。ままならないものだ。時に閑職は、多忙であるより疲労が激しい。暇を楽しむことは、存外難しいものである。
「むう」
唸る。
紅葉の波が押し寄せつつある妖怪の山を仰ぎ見て、ひとまずは心を埋め尽くす暇を地道に潰す。色鮮やかに広がる景色をほぼ完璧に捉えることが出来るのは幸いだが、おおよそ全てを見通せるというのは、椛にとって見たくないものですら見えてしまうということを意味する。
即ち。
「いた」
立ち上がる。
時に閑職は多忙であるよりよほど疲れるもので、そう考えれば、本来の仕事に戻れるのは幸いであるかもしれない。だがやはり仕事は仕事でありそこそこに面倒で、純粋に楽しめるようになるには、幻想郷の妖怪は多種多様に富み、強すぎる。
スペルカードかあ、と椛は誰ともなく呟き、腰に挿していた剣を抜き放つ。
「それじゃまあ、始めましょうか」
軽口を叩きながら、犬走椛は山を駆ける。
白狼のように。山犬のように。
あるいは、風を我が物とする天狗のように。
侵入者は、白髪の老人だった。
傍らに巨大な幽霊を従え、腕を組んだり顎の髭を撫でたりしながら、ほうほうと山の紅葉を窺っている。地に落ちた楓の葉を掬い上げ、裏と表をじっと観察する。銀杏を踏みそうになり、あえて踏んでみる。独特の匂いが周囲に漂い、椛は警告を発する前に顔をしかめた。
その頃になると、彼もまた椛の存在を気取っていた。
「そこな!」
変な声が出た。
椛は留まらず、白狼の剣を振り上げる。距離は十分、刃を相手の身体に突き刺す必要は無い、牽制の意図が伝われば十全である。
一拍の間が空き、椛と侵入者の目が合った。
蒼い。
「ふッ!」
構わず、剣を振り下ろす。
弾幕が瞬時に展開し、呆としている侵入者に殺到する。彼もまた、剣を挿している。柄、鞘からするとあまり大層な銘があるようには見えない。醸し出す雰囲気は荘厳と、風をいなす柳の体躯、敵を射竦める眼光、そして一撃のもとに切り伏せる情け容赦の無い白刃。
節立った彼の指が、古びた柄に絡まる。
「――はッ!」
何故かぞっとして、椛は上空から再度弾幕を放射した。念には念を、けれどもこれは牽制の範疇を逸脱している。だが、この程度でなければ、もはや牽制の意味すら成さないだろうと椛は判断した。
己自身は彼の背後に降り立ち、彼の退路を断つ。相手の力量が見定められない状況で、真っ向から対峙するのは危険極まりないことだ。幻想郷の妖怪は強い。それは椛自身もよく知っている。天狗の社会に身を置いているからこそ、知れる。
だが、彼が刀を挿しているせいか、あるいは彼自身に戦わんとする魅力があるのか、それとも椛が戦いたいと望んでいるのか、いずれにせよ、椛は剣を構えた。
事此処においては、それが全てだ。
――どう出る。
考えた。
一撃目の弾幕は彼に襲い掛かり、二撃目が時間差で着弾する。椛は攻撃を回避した彼を、視覚と嗅覚で追う。銀杏を踏んだことが災いする。全ては伏線になる。だから白色の弾丸が彼を覆い隠した瞬間、椛はぐっと身を強張らせたのだ。
けれど。
「――来ない」
呟き、二撃目の着弾を待つ。
だがそれも同じく、いつまで経っても、彼が弾を逃れて弾幕の渦から脱出することはなかった。
砂埃と土煙、上空に打ち上げられた紅葉の残滓がひらひらと中空を漂い、銀杏の匂いが無為に拡散する。呆とするよりほかするべきことが見当たらない椛は、弾幕の後、先程の位置から全く動いていない侵入者に、ある種の畏怖を抱いた。
彼は、空から舞い降りて来た楓の葉を取り、椛に差し出した。
「いりますか」
「いらないです」
辛うじて、椛は答えた。
彼はさして残念がる様子も無く、摘まんだ楓を再び大地に還した。半身の体躯を椛に向き合わせ、小さく会釈をする。つられるように、幽霊も鎌首をもたげた。
「申し訳ありません。少々、鮮やかな紅葉の色に心打たれたものですから、足を留めておりました」
「此処、妖怪の山だから、危ないよ」
「存じております」
「それとも」
若干、険のある口調になっている自分が、随分と小物に思えた。
「余程、腕に自信がある?」
剣先が地面に触れ、地面を紅く塗り潰す楓の絨毯を浅く切り裂く。
彼は少し悩み、すっかり白髪に染まった眉毛を撫で、困ったように告げた。
「わかりません」
「少なくとも、私を軽くあしらえる程度じゃなくて?」
「私は、私が思う以上に、そして貴女が思っている以上に、齢を重ねているのです。身体のみならず、心もまた」
それが、彼の本音であることに疑いはない。けれども彼の謙虚な態度に不遜さを覚えるのは、やはり自分が未熟である証左なのだろう。そうと知りながら、椛はみずからの本心を隠し切れなかった。
「……馬鹿にして」
ぎり、と軽く奥歯を噛む。
落とした切っ先を彼に向け、椛は堂々と言い放った。
「私は犬走椛。貴方の名は」
「魂魄妖忌と申します」
対する妖忌は、一向に刀を抜く気配を見せない。
椛は言う。
「何故、抜かない」
「抜く必要も御座いますまい」
軽んじられているわけではない。妖忌はただ、紅葉を見に来ただけなのだと。
そう考えられる頭があるのにどうして、心は昂っている。暇をしていた、することかなかった、それ以上に、みずからの実力を越えるものに対する高揚が、椛の胸を埋め尽くしていた。
構える。
声が届く程度には近く、刃が届かない程度には遠い。盾は左に、剣は右に。
そして、咆える。
「なら、抜かざるを得ないようにしてあげましょう……!」
宣言と共に、陸を弾く。
既に哨戒の業務を越えている。が、気にはすまい。
妖忌は相変わらず困ったように佇み、それでもなお、刀は抜かない。幽霊はただぼんやりと、半透明に漂うのみである。
突進は特攻に昇華し、数歩のうちに妖忌の領域を侵犯する。
「――しゅッ!」
太刀が白狼の刃の如き獰猛さをもって振り切られ、妖忌が佇んでいた空間を断ち切る。
妖忌は、半歩その身を引いたのみだ。
まだ、まだ浅い。
「まだ……!」
打ち下ろした刃を返し、踏み込みながら前進する。妖忌は円を描くように動き、常に椛の死角に立とうとする。椛は愚直にその軌道を追う。
大地を埋め尽くす紅、黄、緑の葉が、蹴り出す足の裏から次々と空に舞い上がる。共に同じ名を冠せられたモミジの群れを背に、一陣の風を纏った天狗が躍る。幽霊は、少し離れた場所から、天狗の乱舞を傍観している。
「――、はぁッ!」
一閃。
柄にすら手を掛けず、妖忌はまたも半身をして唐竹割りの一撃を回避する。軽く舌を打ち、椛の背後に回ろうとする妖忌を盾で牽制する。楓をあしらえた盾は、妖忌に触れる前に空を切った。
またひとつ、距離が開く。
「はぁ、ふ……、ん」
呼吸を整える。わずかの間でありながら、裂帛の一撃が何度も避けられた。当たらない。自信と過信、そして不安の相乗効果は、体と心の力を極度に磨り減らす。妖忌の表情は涼しいものだ。椛が気を抜けば、すぐさま紅葉狩りに移りそうなくらいに。
足りない。
「――、ッく……!」
柄元を胸に叩き付け、不甲斐ない身体に活を入れる。まだこんなんものじゃない。天狗の力は、白狼の力は、犬走椛の力は、渾身の一撃を掠めさせることすら出来ないような、情けないものじゃないはずだ。
もっと、もっと手を伸ばせる。
「まだまだ……!」
「ご無理はなさらない方が」
「余計なお世話よ!」
遮る。軽口を叩く余裕すらない。
上司が見たら笑うだろうな、と心の片隅にて思うのも一瞬だった。
す、とめいっぱい空気を吸い、無呼吸に動ける時間を増やす。無我に、無意識に、相手の身に剣を当てることのみを遂行する純粋な機械に成る。そう在ることを望む。
呼吸が停止する。
す、と瞳が凝らされる。
視界の端に、幽霊の切れ端が映る。
「――――――――」
一歩。
間を詰めるには、それだけあれば事足りた。間合いは零、切るには不都合だが、突くには十分だ。
軽く反った太刀の先が、薄く妖忌の髪を斬った。椛に似た、白髪が舞う。
円を描く間もなく左に避けた妖忌を追い、一拍も与えず袈裟に振り切る。体勢が崩れた状態だから満足に避けることも出来ず、またも妖忌の袴にうっすらと線を引く。まだ。
「――――」
袈裟切りの勢いを引き継ぎ、くるりと回転する。妖忌に背を向けても攻撃は来ない。敵を信頼する、攻撃の特性を把握することも必要である。回転ついでに、左手の盾を妖忌に叩き付けようとするが、妖忌は既に若干の距離を取っていた。
だが、もはや愚直に前進する必要はない。
この瞳は、千里先も見通せる。
「――」
いた。
視界の片隅に存在する妖忌の切れ端を椛は正確に捕捉し、勢いを継続しながらその方向に太刀を振るう。教科書通りである必然性はない。当たれば良し、当たらなくても、妖忌が刀を抜けば息が吸える。
――ぎぃん。
直後、乱暴な剣戟が轟く。
瞳の焦点を合わせると、そこには刀の鍔を椛の太刀に合わせている妖忌の姿があった。
涼やかな表情は、幾分か薄れている。幽霊が、心配そうに彼を眺めていた。
「――、ん、ッは……、はぁ!」
椛は、全力で呼吸をする。
ばくばくと打ち鳴らされる心臓はもしや、自分が活を入れたせいでオンボロになったのじゃないかと思うくらいに、激しく泣き喚いていた。数秒、少なくとも十秒に満たない剣戟でありながら、そうしなければ刀を抜かせることが出来なかった。結果、刀はわずかにだが引き抜かれた。真の望みは、もう少しだけ先にある。
鼓動が落ち着き、ようやく妖忌と正対する心を取り戻す。
必要以上に火照った頬が、何だか無性に恥ずかしかった。
「余裕が、無くなって来たんじゃない?」
「それは、貴女の方ではないかと」
「まあ、そうよね」
一撃。たった一撃だ。それも、相手の身体には完全に届いていない。
けれど、椛は満足していた。
自分にもまだ、伸びしろはあるらしい。
「さあ、続きを」
「叶うなら、ゆるりと紅葉を楽しみたいものですが」
「残念。こんな椛でよければ、いくらでも!」
「ふむう」
妖忌が呻き、椛が太刀の先に力を込めたのと同時、妖忌の刀が閃く。正確には、刀を引き抜く所作で太刀が弾き飛ばされた。刀はまだ全容が明らかになっていない。だが、今度は妖忌も椛に肉薄する。
椛は、地に足が着いていることを確かめ、太刀を構え直す。
しかし遅い。
妖忌は、椛が剣を振れない範囲にまで侵入している。密着している相手に剣を振り回すほど、無為なことはない。妖忌はそれを熟知している。だからこそ間合いを侵した。幽霊も彼を追随する。
「……!」
たまらず距離を置く。速さだけなら、まだ椛に分がある。
眼前に迫る妖忌は手のひらを柄に添えている。先程と違い、椛が隙を見せれば、妖忌は椛を一閃するだろう。その覚悟が、今の妖忌から感じ取れる。斬る覚悟、斬られる覚悟、両極端な概念をしっかと心に刻み込み、椛は後退する足を止めた。
真正面から向き合う瞳は空よりなお深く澄み渡り、千里先を見通せる椛には、妖忌の過去と未来さえ覗き込めるような気がした。
今は、この瞬間が魂魄妖忌の全てであるにしろ。
「いざ」
尋常に。
囁き、妖忌に太刀を向ける。
懐に踏み込んで来る妖忌は太刀を掻い潜りながら進み、椛の懐、彼女が剣を振れず、妖忌が刀を振り切れる絶好の位置に陣取る。
椛は、あえてその愚を犯した。
――きぃん。
鍔鳴りが響く。
五感に優れた白狼は、その音を聞いている間に妖忌の死角に移る。妖忌の刀が完全に振り切れても、なお刀の切っ先が届かないぎりぎりの範囲外に。
途中、椛の動きを察した妖忌は刀の軌道を強引に変え、死角に在るはずの白狼に刀を突き出す。
だが、そこに有るのは盾だった。
空中に放り出された丸い盾が、妖忌の視界をほぼ完璧に塞いでいる。妖忌からも、椛からも、お互いの姿を把握することは難しい。逡巡する余裕が限られているのは、双方とも同じ。
一拍、二拍、重力に逆らいながら浮遊する盾が、無慈悲に時間を観測する。
業を煮やしたのは、彼だ。
「――――!」
彼は、盾の向こうにいるはずの椛ごと斬り伏せんと、裂帛の気合をもって刀を振った。
金属が共鳴し、耳障りな高音が山の空気を乱す。弾かれた盾はあえなくそこいらの梢に激突し、何の風情もなく伏して落ちた。ばさり、と紅葉の絨毯に包まれているのが、せめてもの救いと言えるかもしれないけれど。
彼は、盾の行く末を感じている余裕はなかった。刀の感触はただ盾を打ち据えたものだけであり、それ以上の感覚はない。
椛は、そこにはいない。いなかった。
否、正しくは。
「ん……」
あたかも、狼が威嚇するように四肢を強張らせ、盾より低い位置に身構えていた。
四つんばいに伏して待ち構える椛は、獣の美に満ち溢れている。服を着、剣を携え、天狗に属していようとも、やはりこの身は白狼なのだと。
歯は刃を噛み、手は脚のように強く大地を踏み締める。
白狼は空を飛ばずとも、陸を雄々しく駆けるのが獣の本分。
それも、悪くはない。
「――はぁぁッ!」
超低空から、逆袈裟の一撃。
腰の鞘を狙い澄まし、誠心誠意、文句の付けようがない斬激を放つ。
若干、笑んでいたかもしれない。それは否定出来ない。けれど油断も慢心もなく、最後の瞬間まで気は抜かなかった。その自信はある。
ならば。
――しゅ。
「……あ」
間の抜けた声が漏れる。
何故か、刃は、彼の鞘に触れた直後、何の手応えもないままに、呆気なく通り過ぎた。
剣を取り落とすことも、切っ先を地面に落とすこともなく、椛は自信満々に剣を振り切った体勢のまま、しばし呆然と佇んでいた。
おかしい。
切り裂いたのはただ虚空に漂う空気のみで、鞘も、刀も、魂魄妖忌の姿すら見当たらない。千里先を見通せる目は嘘をつかない。唯一見えたものは、そういえば、いつからか何処かに消えていた、魂魄妖忌の幽霊だった。
仮説が組み上げられる。
幽霊は、時に人に化けるものだ。
「しまった」
言うが早いか、空を見上げる。魂魄妖忌はそこにはいない。
妖忌は常に椛の背後を取ろうとしていた。ならば答えは容易に出せる。
けれど、もし妖忌がそこにいたのなら。
絶望があるとすれば、椛は、どうあってもみずからの死角を確認するしかない、ということだった。
躊躇う間もなく、振り返る。
「王手」
皮肉か、と思った。
正しく椛に正対する魂魄妖忌は、柄を握り締め、今にも刀を振り切ろうとしていた。
ぞっとする。
此処に来て、盾を捨てたのが悔やまれる。あれが最善とも思わないが、椛が考えられた最高の策だった。ならばそれを誇りに思い、妖忌の一閃を受けるのも一興か。
けれど、斬られる覚悟を胸のうちに刻んでもなお、恐れという死神の鎌は椛の首に際どく引っ掛けられていた。
気付けば、背中は紅葉の幹に預けていた。
恥を忍べば、ほんのすこし、心強い。
妖忌が、刀を抜く。
――ぱん。
刀の軌跡が見え、風が胸を薙ぎ、背中を支えていた大木が唸り声を上げたのは、ほぼ同刻だった。
風船が弾けるような呑気な音は、大樹の空洞を震撼させ、梢に留まっていた紅の葉を一斉に震え上がらせた。
「……ぁ」
呆ける。
震動により、紅葉の葉は紅い雨となって椛にやんわりと降り注ぐ。風は穏やかに、切迫していた事態などお構いなく、ただ重力に従って紅葉を地面に誘う。
その荘厳な情景に、膝から崩れ落ち、頭に葉っぱが乗ることも気に留めず、切り裂かれたのに傷ひとつ付いていない胸を撫でる。
しばらく陶然としていた椛の頭に、妖忌の刀がこつんと触れる。
「面」
「……痛くない」
気付く。
振り仰ぐと、妖忌の刀は、銀色でなく白色の輝きに満ちていた。通常、刀に使われる素材でなく、竹で作られた刀ということである。竹光ならば、痛みはない。斬ることを目的としない刀に、人を斬ることは出来ない。
ようやく正気を取り戻した椛は、頭に乗った紅葉の葉を払い落とし、ふるふると身を震わせてから立ち上がった。妖忌は既に竹光を収め、邂逅した当初のように緩んだ表情を浮かべていた。
あれこれありながら、綺麗に一周して丸く収まったような気さえする。
変化したところがあるのなら、椛の妖忌に対する認識くらいなもので。
椛は、妖忌にお辞儀をする。
「先程までの非礼を、お詫び致します。申し訳御座いませんでした」
「いえ、お気になされませんよう」
妖忌は、気にしたふうもなく淡々と語る。
彼は、椛の背後にある、今はもうほとんど葉が残っていない椛を見上げ、すこしばかり顔を曇らせた。椛も、不意に後ろを振り返る。椛の足元は、幹を中心に紅い葉に覆われて、一本だけ枯れ木と化した紅葉の樹がいやがうえにも目立っていた。
「散るが早いか、遅いかの違いなのでしょうが」
「……私が、出過ぎたことをしたばかりに」
「いえ、楽しい時間で御座いましたよ」
椛を労い、やんわりと微笑む。
辺りを見渡せば、色鮮やかな紅葉の群れ。剣士二人が乱舞を繰り広げてもなお、大地は掻き乱された様子もなく変わらぬ紅と黄と緑を塗りたくる。梢に留まる葉も、二人が踊る風に揺られても容易く受け流し、また変わらずさわさわと乾いた音を擦らせながら揺れる。
七竈の香りが鼻に抜け、銀杏の匂いが今更のように鼻筋を掠める。
ひくひくと鼻の頭を動かしていることに気付き、椛が照れて赤くなっていると、妖忌はふと慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
椛が、そんな妖忌を見て、問う。
「な、なにか」
「いえ。すこし、思い出しておりました」
首を傾げる。
それでも、妖忌がそれ以上なにも言わなかったから、椛もまた、何も言わなかった。
ただ。
「綺麗ですね」
「……」
気休めにもならない、見ればわかる、当たり前のような情景を賛美する。
けれど、妖忌はこれを見ていたのだから、当たり前でも素晴らしい景色なのだと思う。
「そうですね」
「はい」
風が、狼たちの身体をやんわりと薙ぐ。
そして、やがて訪れる沈黙は、椛が本来どのような仕事をしているのか、それを気付かせるのに十分過ぎるほどの静謐さを帯びていた。
「あ」
「ん」
椛が呟き、妖忌がつられる。
慌しく盾を探し、紅葉の中から拾い上げた瞬間には、椛の身体は既に駆け出さんと身構えていた。
妖忌は、何も言わずに佇んでいる。一度は侵入者として扱ったものの、彼がこれより深くに踏み入る可能性は薄い。ましてや、この美しい妖怪の山に害が及ぶようなことをするとは、到底思えない。
だから椛は、こちらをぼんやりと眺めている妖忌に宣告した。
「魂魄妖忌様」
「はい」
穏やかに返し、椛の言葉を待つ。
ゆっくりと、そうしている暇も惜しいはずなのに、すぅと息を吸ってから、椛は言った。
「次の機会が御座いましたら、今度は大将棋で勝負致しましょう」
返事は待たずに、走り去る。
背中に掛けられた言葉が好意的なものであることを期待しながら、やっぱり、厄介な奴だと思われたのかもしれないと嘆く。自業自得といえども、厭われるのは辛いものだ。
「はあ」
嘆息する。
剣は重く、盾はかさばる。
願わくは。
またいずれ、紅葉が大地に降り注ぐ季節にでも。
モミジの上で、モミジと共に。
そう思いながら、椛はその足の裏で紅葉を蹴った。
SS
Index