ひえだのあな

 

 

 

 胸の中心に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまったような感覚。
 ふわふわと宙を舞い、この広い地面を、遥か高みから見下ろしているような。
 言うなれば、自由。
 例えるならば、死だ。
 思考は中座し混沌と巡りゆく深淵の底から、深海の砂の中から、太陽の朧な光を目指している。
 私は死んだのか。
 喉もないから、言葉も発せない。一人しかいないから、返ってくる声もない。
 ここはひどく静かで――
 だけれども、なぜだか、満たされているような気がした。
 なるほど――

 これが、転生か。

 

 

 

 棚に収めていた饅頭が使用人に食べられていたものだから、私は憤慨したのである。
 けれども、その使用人はしれっと言うのだ。
「わたくしは毒見をしたのでございます」
 莫迦な、ひとつのみならずふたつもみっつも毒見する者があるか。
 私が叱責すると、今度は瞳をじんわりと滲ませて愚図り始めた。
「申し訳ございません、申し訳ございません……」
 これしきのことで泣く者があるか、そのような調子では稗田の使用人は勤まらん。
 私が忠告すると、滲んだ瞳を袖の下でごしごしとこすった後に、こう言った。
「わたくし、まだ日が浅いもので、稗田様がお饅頭を生きる糧としているなどとは、知り及びませんでした……」
 いや、そこまで好きでもない。
 私は面倒になって、彼女の横を通り過ぎた。すれ違うとき、まだ日の浅い使用人は矢継ぎ早に尋ねてきた。
「稗田様、お出かけになるのですか。いつごろお帰りになりますか」
 知らない。わからない。
 簡単に答えて、私は振り返らないまま使用人を振り切った。彼女は追ってこなかった。
 取っておいた饅頭を食べられたことに腹を立てていたこともあるが、さすがにそこまで狭量じゃない。
 それよりも、私は。

 ――稗田様。稗田様。

 かちんとする。
 私は、その呼び方が嫌いなんだ。

 

 

 

 目的もないまま、変わり映えのしない里の中を散歩する。
 やや陽が長くなり、わりあい遅くまで出歩くことができるようになった。昔よりは安全になったといえども、この幻想郷に妖怪が存在するという現実はいまだに変わらない。変わらないし、誰にも変えようのないことだ。
 眩しすぎる太陽に眉をひそめ、私は立ち止まる。
 里は活気に溢れていて、ぱっと見、妖怪の存在に苛まれているとは思えない。実際、襲われる人も少ないのだろう。守人がいて、妖怪が昔よりは弱くなった。好んで夜の森に足を踏み入れたり、妖怪の山に登ったりしない限り、人間は妖怪と接触する機会を持たない。妖精や幽霊はそこかしこに存在するものの、それらは今や動植物と大差ない扱いとなっている。珍しくもなんともない。
 だから――何なんだろう。
 私は、何を考えていたのだろう。
「わからないなぁ……」
 頭を掻き、また均された道を歩き始める。
 子どもの笑い声に耳を傾け、棟梁の怒声に顔をしかめる。何の変哲もない風景の中を、何の変哲もない平凡な私が歩いているのなら、あるいはこれほど悩む必要もないのかもしれなかった。
 しばらく歩けば、小さな川に辿り着く。そこには小さな橋が掛けられていて、澄んだ清流を見下ろすことができる。川魚も獲れる。釣り人は適当に声を掛ければそれなりに応対してくれるし、もし子どもが溺れるようなことがあれば真っ先に助けてくれる。
 けれども、今日は誰もいない。草むらの影にも、橋の下にも、糸を垂らしている呑気な彼らの姿はどこにもなかった。珍しいこともあるものだと、私は欄干に肘を乗せる。ぎしり、と重くもないのに土台が軋む。
 きらきらと輝く水面を見ていると、目が痛くなる。不意に目をつむって、そこで、自分が抱えている重荷を考えてみた。
「稗田……」
 目を開ける。
 変わり映えのしない風景に、鳥の鳴き声が重ねられる。ツバメかウグイスか。
 ……稗田阿礼は転生する。
 阿一、阿爾と繋ぎ、もう何代目になるだろうか。かなりの歳月が経ち、幻想郷縁起も溜まりに溜まった。幻想郷に棲む人妖精霊神魔の詳細を綴った書物の存在が、妖怪の凋落を招いたというのは言い過ぎだろうけれど、そういった人間の試みが妖怪に何らかの影響を及ぼしていると考えることもできた。
 だが、転生する者は一人しかいない。
 一代に一人でもない。
 御阿礼の子は、まだ十人にも達していない。そのくせ、五百年以上の時が経とうとしている。それでも、転生のために稗田家は存続していなければならない。ずっと、ずっとだ。
「……くそ」
 歯軋りする。
 納得したつもりでも、心の膿を全て出しきれたわけではない。そんなに物分りのいい人間じゃない。私は。
 ――私は、稗田であっても、転生を受けた人間ではない。
 御阿礼の巫女ではなく、稗田家の血筋を引いているというだけの、ただの女だ。
 けれども、稗田であるからには重宝される。御阿礼の転生を待つ間、幻想郷縁起の保全や妖怪の調査に努めなければならないが、やはり稗田の看板は重く、絢爛である。
 それ以上に、御阿礼の子の存在は、それ以外の稗田を霞ませる。
「……もうすぐか」
 指折り数えて、あと数年もない。
 次の御阿礼の子が生まれるまで。
 それから私は、稗田でありながら、稗田の陰になる。
 太陽が眩しい。波打つ川に反射する光が、うなだれた私の顔を鮮明に照らし出す。滑稽だった。いずれ陰になるものが、今は堂々と日の光を浴びていられるのは。幸福か、嫌味か、いずれにしても稗田に生れ落ちたこの身を恨むべきか。
 ならば、いっそのこと――
「……狭量だなぁ」
 全くだ。
 饅頭ひとつに躍起になるくらいだから、これはもう仕方のないことだと諦めるべきなのかもしれない。生まれ持った雑念ならば、墓の中まで引きずって行ける。だから私は、何も考えないよう、心を殺して川の流れから目を背けたのだ。
 なのに。
 ああ。

「叶えてあげましょうか」

 聞こえてしまった。
 耳を閉ざせばいいものを、ありとあらゆる好奇心を歓迎する稗田の血は、私に躊躇する余地を与えてしまった。これが真に血の成せる業ならば、仕方がないと諦められたのだろうか。けれどもその血の濃さを何よりも嫌う私だから、私が振り向いてしまった本当の理由は、ただどうしようもなく私の心が狭かったからなのだと結論付けた。
 声は、欄干の向こう側、たゆとう流れの頭上に在った。
 浮いている。
 紫の、何か、よくわからないモノに座っている。笑っている。歪んでいる。何かが、あるいは、全てが。
 確信する。
「――――――ああ」
 妖怪か。
 恐れは抱かなかった。
 表情にも、負の感情は表れなかったと思う。
 こんなときに現れるのは、神か悪魔か妖怪だと、相場が決まっているからかもしれない。
 覚悟はできていた。
 逃げる覚悟でも、死ぬ覚悟でも、ましてや殺す覚悟でもなしに。
 ただ、現実と向き合う覚悟を。
「こんにちは」
 浮遊する妖怪は、口元に掲げた扇をそっとずらして、呑気に挨拶をしてくれた。
「こんにちは」
 上ずった私の挨拶を聞き、紫色の妖怪はくすくすと笑った。
 私は彼女のことを知っている気がする。が、あまり思い出しても意味のないことだろうとも思う。
 何故なら。
 神や悪魔や妖怪が、悩みを持った人間の前に現れる時は。
 必ず、債務者にとって都合の良い、胡散臭い契約を持ちかける時なのだから。

 

 静かだ。
 気が付けば、川音も鳥の鳴き声も、私が息を吸い息を吐く音すら聞こえないようだった。
 気のせいか、太陽の輝き、空の色も薄く感じられる。
 それが錯覚でないのならば、おそらく、私は彼女に囚われてしまったのだろう。
 恐ろしいことであるはずなのに、狼狽せずに済んだのは奇跡だった。
 これも、覚悟が成せる業だろうか。
 嫌な業だ。
「もしよかったら」
 勝手に話し始めるから、身構えるのに時間がかかった。けれども、妖怪は気にしたふうもない。
 それもそのはず、わがままだから、人の範疇に留まらないから、妖怪なのだ。
 彼女らが人に構うのは、すなわち、様々な意味で食い物にしているからだ。
 妖怪は言う。

「あなたを、転生させてあげましょうか?」

 馬鹿な。
 怒鳴りかけて、唇を扇で制される。近い。いつ近付いたのかもわからないし、熱くなっているから、正常な思考ができているかどうか自信がなかった。
 扇が離され、吐き出しかけた罵倒も胃に収まり、ただ両者の間に静寂が流れた。
 ふわふわと、彼女は浮いている。気楽に。
 ふと、鳥は自由で羨ましいなと僻む誰かのことを思い出した。
 きっと、知らないだけで、私もその類なのだろうけど。
「馬鹿な……そんなこと、無理に決まっている」
「誰が決めたの」
「……無理だ」
 語気を強める。
 いつしか、私は泣きそうになっていた。
「私なら」
 扇は開かれた。
 始終にやにやと笑っていた妖怪は、私が顔を歪めている間に至極真面目くさったものに切り替わっていた。
「私、八雲紫ならば、それが成せると言ったら」
 八雲紫。
 その名を思い出そうとして、結局、それはやはり意味のないことなのだと知る。
 肝要なのは、幸か不幸か彼女にはそれを成せる能力があり、故意か偶然か、私が彼女に出会ってしまったということで。

「どうする?」

 問う。
 私は、全く動けなかった。
 頷くことも、首を横に振ることも。叫ぶことも、嘆くことも、哀れむことも悲しむことも、泣くことも、笑うことも、おおよそ人間らしい行動の一切を封じられていた。
 だって、仕方がない。
 望むまいと、叶わないと諦めていた光明が差してしまった。
 その先にあるものが絞首台であろうとも、望めるのならば、望みたかった。
 転生。
 生まれ変わる。
 いずれ稗田の陰になることが決定付けられている私の、唯一、救いとなるもの。
 それは、次の生に希望を託すということ。
 皮肉なことに、転生によって日陰に追いやられている私は、転生によってのみ救いを得る。
 私が、私のまま、幸福を勝ち取るためには、転生が必要だった。
 もとより、叶うはずがない望みだったのだ。
 ――だというのに。

「……私は」
 結論は、出ない。
 沈黙は短く、哀れむような調子で妖怪は宣告した。
「猶予は三日」
 俯いた顔を上げると、また頬を緩めた妖怪の素顔がある。試されている、そう思った。けれど、抗うことも、諦めることもできず、ただ流されることしかできない私は、やはり弱い人間なのだろう。
「また、この欄干で」
 ふわり、と大きく浮き上がり、一瞬視界から消え失せた彼女は、次の間に、私の世界から完全に消失した。もう影も形も見当たらない。程無くして、世界に音が戻される。ざうざう、ちりちり、こうこう、些細だと思っていた雑音が、今はやけにうるさく聞こえる。耳を塞ぎたかった、が、何もできなかった。
 立ち尽くす。
 鍬を持った農夫が、無邪気な子どもが、井戸端会議に疲れた主婦が後ろを通り過ぎても、挨拶や、陰口を叩かれても、私はずっと欄干に寄り添って佇んでいた。
 やがて陽は陰り、その姿を未来の私に折り重ねてしまったから、もうここにはいられなかった。
「……三日」
 あと三日。
 掠れた声で呟いた猶予期間は、その実、死刑宣告にも等しい束の間の休息だった。

 

 家に帰ると、私に饅頭を食べて怒られていた使用人が、山盛りの饅頭を前に誇らしげな顔をしていた。
 だから、それほど好きでもないというのに。

 

 

 

 一日目は、幻想郷縁起を読んで過ごした。
 阿一から順に、少しずつ妖怪や人間の記述が増えていく様を興味深く読む。
 気が付けば、件の使用人が律儀にお茶を用意していた。
 茶柱が立っていたが、これは安物のお茶の証なのであまりめでたくはない。

 

 二日目は、稗田家を歩いて回った。
 稗田家と一口に言ってもなかなか人数も多く、里に散らばっているものだから全員に会うこともできない。
 とりあえず会える者とだけ他愛のない話をした。
 中には、自分の境遇に不満を感じている者もいた。
 呼んでもないのについてきた使用人は、感心したようにその話を聞いていた。

 

 三日目は、幻想郷を見て回った。
 妖怪の衰退が著しいとはいえ、虚弱な人間ひとりが勝手気ままに歩ける場所は少ない。
 だから、博麗の護衛をつけた。有料だったが、快く引き受けてくれた。
 使用人はやはり勝手についてきて、その分、巫女に支払うお金は増えた。
 幻想郷は、やはり美しいものだと知った。

 

 

 

 三日目の夜。
 私の部屋では、例の使用人が甲斐甲斐しく布団の準備をしている。がさごさと喧しい音を背中で聞き、私はぼんやりと物思いに耽っていた。
 心は、決まっていなかった。
 決められるはずがなかった。
 溜め息を吐こうとして、後ろに使用人がいることを思い出す。近頃、やけに私と行動を共にしたがる彼女は、一体何が目的なのか。私に仕えても、あまり恩恵には与れないはずだ。稗田家の片隅にいる私より、もっと稗田家の中枢にいる者の世話をした方が良いに決まっている。
 哀れみを帯びた私の視線に気付き、何を勘違いしたのか、にっこりと満面の笑みを浮かべて彼女は言った。よくよく見れば、私と同じか、少し幼いくらいだ。
「お布団の準備ができました、稗田様」
 かちんとする。
 辛うじて、ご苦労様と言うことはできたが、あまり話をしたい気分ではなかった。
 けれども、彼女は舌足らずな喋り口で話を切り出した。
「そういえば、もうすぐで御座いますね」
 何がだろう。
 気付いているのに、気付いていない振りをする。嫌な人間だ。本当に、私は。
「もうじき、御阿礼の巫女様が生まれます」
 何代目でしたかね、と小首を傾げる。そんなことも知らないのか、と呆れかけたけれど、私もあまり覚えていなかった。他人のことは言えないものだ。
「ですから」
 何故。
 どうして、彼女はそう笑っていられるのだろう。
 私にとってそれが残酷な事実だとも知らず、嬲り殺すように、容赦なく現実を叩きつける。
 笑いながら。嬉しそうに。
 その様は、もう、悪魔としか思えなかった。

「阿奈様はお姉様になるのですから、御阿礼の巫女様のこと、可愛がってあげてくださいね」

 初めて、名前で呼ばれた。
 意図してのものか、偶然なのか、わからなかった。
 前者なら、後者だとしても、こんなにひどい話はない。
 震えていた。逃げ出したかった。
 だから、彼女が不安そうにこちらを窺っていることにも、全く気付けなかった。
「……稗田様?」
 言うな。
「どうしたのですか、もしかして、おからだが」
「言うな!」
 叫ぶ。
 差し伸べられた手を振り払い、肩で息をしたまま、怒りに打ち震えた瞳で使用人を見下ろす。
 怯えていた。
 彼女は、自分が何をしたかわかっていないだろう。
 罪があるとすれば、それは彼女が無知であったことだ。
 それ以外に、あるはずもない。
「私は、稗田様って呼ばれるの、嫌いなのよ」
 瞳が潤んでいると知りながら、私は言葉を重ねる。
「大嫌い」
 拒絶する。
 青白い顔で、声も漏らさずに泣いている使用人を、部屋から退出するよう命ずる。
 震えながら、申し訳ありませんでした、と部屋を後にする。
 障子が閉じられ、慌しげに廊下を駆ける音がする。胸が詰まった。怒りと、情けなさで。
「嫌われたかな……」
 もう、何の感傷も浮かんでこない。
 転生など、どうでもよかった。
 ただ私は、私を認めてほしかった。
 稗田様などと、ひとくくりにされたくはなかった。
 ちゃんと名前で呼んで欲しかった。
 初めて名前で呼ばれたのに、その後で、「御阿礼の巫女様を大事にしてください」なんて、言われたくなかった。
 本当に、それだけのことだったのに。
「はあ……」
 机に肘を突き、顔を覆う。
 はらはらと頬を伝う温かいものが涙でなかったのなら、私は人間でなく妖怪で、それならばいっそ諦めもつくのにな、とよくわからないことを考えた。

 

 

 

 朝。
 目覚めは意外に爽やかで、多少目が腫れぼったい他は、動くのに支障はなかった。
 誰にも気付かれまいと着物をまとい、こっそりと廊下を抜け、玄関の敷居を越えようとしたあたりで、おはようございますと声を掛けられる。
 振り向くと、昨日、激しく叱責した使用人が立っていた。
 こちらは、私以上に目を赤く腫らしている。
「どちらに行かれるのですか」
 答えなかった。答えたくはなかった。
 だから、代わりに。
「お饅頭」
 彼女は、きょとんとしていた。
 それでいい。
 もう、私に付きまとわなくてもいいようになるから。
 何も知らずに、ただ無邪気に、笑っていてくれたら。
「私の分も、食べていいですよ」
 せめて、笑顔で。
 彼女を不安がらせることのないよう、背中は元気に、稗田の家を後にした。
「――――――、…………」
 声は聞こえたが、幸い、何を言っているのかはわからなかった。
 それでいい。
 振り返らないで、朝露の残る道を、ひたすらに踏み締める。

 

 

 

 朝霧が濃く、囁くような川のせせらぎと相まって、三途の河の流れを彷彿とさせる。
 欄干の側に立ち、来たるべき時を待つ。
 三日が過ぎた。
 契約に対する答えを、今ここで出さなければならない。
「……うん」
 虫や鳥の鳴き声が耳に残り、今まで私が聞いていた懐かしい人たちの声をいとも簡単に掻き消していく。未練は消え、後悔は薄れる。やがて視界も白濁と朝の霧に飲み込まれ、私は、妖怪が構成する結界の中に一瞬で閉じ込められていた。
「おはよう」
 霧の中に残されたのは、赤い欄干と、私、そして、紫色をした妖怪だった。
 今は、挨拶を返す気にはなれない。
「答えは出た?」
 愉悦に滲んだ声で、私の未来を計っている。けれど、誘惑にまみれた言葉に心を動かされてしまったのだから、私もまた同罪だ。
「はい」
 頷く。
 八雲紫と名乗った妖怪は、今までと違った笑みを浮かべた。
 それが何を意味するのか、私にはわからなかった。
「では、お聞きしましょう」
 丁寧な語り口で、彼女は尋ねる。

「あなたは、転生の儀を行いますか」
「はい」

 私は、躊躇いもなく、答えを出した。
 満足げな紫の笑みで、手の中で躍らされているのだなと実感する。
 結局、私は逃れられなかったわけだ。
 稗田の呪縛から。
 妖怪の誘惑から。
 あるいは。
 私という、たったひとりの人間から。
「楽しいわねえ」
 不謹慎なことを言う。
 笑う気にもなれない私は、早めに転生の儀とやらを済ませてしまいたかった。
 紫も、私の苛立たしげな表情を悟り、すぐさま説明を始めた。
 説明は、まさに一瞬だった。
「で、転生なんだけど」
 紫は、浮いたまま私の側に近付き、欄干に腰掛けた。
 ずぶ。

 ……あ。

 痛い、とか、苦しい、とか、そんな悠長なことを思う暇さえありはしなかった。
 からだの内側から音がした。
 実際は、それが喉から口に逆流して、声になったようなものだった。
「こうするのよ」
 紫は、私の胸に腕を突き入れたまま、平然と語り始めた。
 首を下に向けるのが嫌だった。
 誰かの腕が、胸を突き破り、心臓を掴んでいる様子なんて、まざまざと見せ付けられたくはない。
 どくん。
 心臓がなり、手と胸の透き間から血が噴き出た。
 同じように、私の口からも。
「――――が、ぼ」
「魂は何処にあるのかしら? 心臓、それとも脳かしらね。死んだら幽霊になるというのに、初めから幽霊である者も、半人半霊もいる。魂が転生するというのなら、魂の在り処を知ることが必要よ。けれども、そんなことは閻魔くらいしかできそうにない。だから、私は」
 心臓が引き抜かれる。
 意識が遠のいていた私は、襲いかかる激痛に泣き、おびただしい血が失われる喪失感に悶えながら、妖怪に抜き取られ、高く掲げられた私の心臓を他人事のように見上げていた。
 片手にあまる大きさの臓器を持ち上げ、紫は淫靡な笑みを浮かべていた。
 びくんびくんと、私と、心臓が震えていた。
「私の手で、魂を定義する」
 独り言のように呟くと、その心臓は、瞬く間に光り輝き、魂が天に導かれるかの如く、昇天するかのように消滅した。
 紫は誇らしげに微笑み、扇を、血がこぼれおちる私の唇に添えた。
「あなたは、きっと転生する。あなたが、それを覚えているかどうかは、私の知り得ないことよ」
 無責任に、紫は告げた。
 目に、血が溜まっているような気がする。
 拭おうとした指の先も動かないから、狭窄する視界の中に、紫の存在を探した。けれども、ぼんやりとした白い霧しか見えない。欄干も何も見えないのは、自分が倒れているからだとなんとなく理解した。
「がっ、あ……」
 涙がとまらない。
 なんで、私は泣いているんだろう。
 よくわからなかった。
 もう、死んでもいいと思ったのに。
 何もかもどうでもよくなって、いっそのこと、この世から消えてしまえ、と。
 でも、自分がなくなるのは怖いから、転生した次の私は、きっと私が私として認められるように。
 私は。
 わたしは。

 

 ……むねに、ぽっかりと、大きなあながあいてしまったようだ。
 いつから空いていたのか、よくわからない。
 心臓がたましいなら、わたしには、はじめから魂などなかったのかもしれない。
 だから、わたしは、私であることを、ずっと認めてもらえなかった。
 たましいがないのなら、たしかに、私であることをわかってもらえるはずがない。

 

 でも、できることなら。
 わたしが、ここにいたことを。
 生きていたことを。

 

 どうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひたひたと、からだの外側から音がした。
 眠かったから、起き上がることも億劫だった。声を出すことも同様、まぶたを開けることも、耳を澄ますことも面倒だった。
 それからまたひたひたと音がしたから、わたしは、瞳を凝らし、耳を澄ますことを覚えた。
「……ぁ! 阿奈様……!」
 ああ、なんだ。
 もう、朝が来たのか。
 最近は、陽が長くなった。
 そろそろ、暖かくなる。今に、茹だるような暑さの夏がやってくる。
 私は、視界いっぱいに涙顔をさらしている、まだ幼い少女の頬に手を触れた。ひたひたと、私の顔に落ちる涙の粒は、そのまま拭わずにおいた。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
 何に謝っているのか、よくわからなかった。
 胸が詰まる。
 まだ、首を下に向けることはできなかった。
 そうすれば、彼女がすぐに幻と消えてしまいそうだったから。
 けれど、彼女はいつまで経っても消えることなく、ずっと、私の胸にすがりついて泣いていた。
 阿奈様、阿奈様、と、子どものように、大声で。
 母親が娘を抱くように、娘が母親にしがみつくように。
 そんなふうに体を寄せられたら、もう、幻だと疑うことは出来なかった。
「ごめんね……」
 私は彼女の頭を撫でながら、忌まわしいと信じきっていた、私の名を心の中で呟いた。
 その後で、私は、一度もこの子を名前で呼んだことがなかったな、と思い至った。

 

 

 

 こんな私でも稗田であるからには重宝されるらしく、その日の稗田のお屋敷はてんやわんやだった。
 確かに貫かれた私の胸の穴は、何故だか綺麗に塞がっていた。連れて来られた医者も困っただろう、だが、痛むことは痛むから薬は処方してもらった。何人か、知った顔や知らない顔が、病床に就いた私を見守ってくれた。
 元気か、とか、食べたいものはあるか、とか、心配したぞ、とか、ありきたりの言葉ばかりだったけれど、嬉しくなかったかと言えば、そんなことはなかった。
 ……何故、私は助かったのか。
 それは、私が死んでもわからないだろう。
 もしかしたら、紫は私の心臓を魂に見立てて、実際に転生の儀を済ませたのかもしれない。今、私の中で動いているものは、また別の心臓であるのかもしれない。
 ふと、紫が何故私に転生を持ちかけたのか、たまに考えることがある。
 けれども、出て来る答えはどれも戯けたもので、「悩んでいたから助けてあげた」というものくらいしか思い浮かばなかった。
 ……まったく。
「まったく」
「……阿奈様?」
「ああいや、なんでもない」
 日向の縁側に腰掛けた私は、暖かいね、とかたわらに座る使用人の彼女に告げる。

 私の胸には大きな傷痕が残されていて、あの出来事が夢でなかったことを教えてくれる。
 その度に、私は私の名前を呟く。気が向いたら、彼女にも私の名前を呼ばせてみる。
 私も彼女の名前を呼び、お互いに、えもいわれぬ感覚に浸る。
 これが幸せなのだと言いきれない私は、やはり幸福な人間ではなかったのかもしれない。
 けれど、今は、この生き方が気に入っている。
「良い天気ですね」
「そうね」
 快晴だ。
 傷ついた胸をなぞる指先に、彼女の手のひらが重なる。
 ああ。
 取り立てて、感じ入ることもないはずなのだけど。
 温かいなあ、と、思った。

 

 

 

 三年後、稗田阿七は無事に転生を果たし、私は、稗田家の片隅で、日向ぼっこをしながらぼんやりと生きている。
 そして何の関係もない私が転生を果たすのかどうか、今は、まだ、誰も知らない。

 

 

 

 



SS
Index

2007年6月2日 藤村流

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