マヨヒガの黒猫。橙。
 八雲紫に仕える式神、その八雲藍の式である橙は、一秒ごとにその表情をコロコロと変える。
 無邪気で、奔放で、明るく、楽しい。
 でも、そんな橙であっても、寂しく、暗い表情を見せることはある。
 いつも元気な橙しか知らない者なら、意気消沈したこの黒猫は、本当に橙なのかと疑うことだろう。

 だが、橙は橙で、笑いたければ笑い、怒りたければ怒り、そして滅多にはないけれど、泣きたいときには泣く。
 そのどれもが橙そのものであり、マヨヒガの黒猫に欠かすことのできない因子なのだ。
 笑うことも、泣くことですらも。





おはよう
〜第二回東方最萌トーナメント・橙支援SS〜





 猫に関する伝承は数多いが、その中でも黒猫の言い伝えは群を抜く。
 土地や場合によって吉兆の度合いも多様に変化するのだが、少なくとも、家屋の隙間に居着く鼠を始末してくれるというのは全国の共通認識であるようだった。

「――おいで」

 生まれたばかりの野良猫は行く宛がない。
 親はいるが、餌を取りに行ったきり帰ってこない。幼心に、もう死んでしまったのだろうと悟っていた。
 木造の橋、小川と草むらの陰に隠れて寒さをしのぐ。
 人間は、身を潜めることでしか生きていられない黒猫をいとも簡単に見つけ出してしまう。
 黒猫は鳴いた。身体が動かないからせめて鳴いて威嚇する。
 それでも人間は、そんな必死の抵抗など構いもせずに近付いて来る。

「冷たいね……」

 手を差し伸べ、何も出来ない黒猫を抱き寄せる。その人間の手は、暖かかった。
 それとも、黒猫の身体がありとあらゆるものより冷えていたのか。
 他の猫より幾分か聡い黒猫も、自分のことだけはよく判らなかった。




 ちょうど彼女の家は家猫を飼おうと考えていたようで、夏口ならば突っぱねられたであろう娘の懇願も、蓄えた穀物が鼠に食い潰される危険性を孕んでいる今だけは奇跡的に受け入れられた。
 名前は無い。
 もっとも、少女は少女なりに呼び名を考えていたようだったが、黒猫がその名前を耳にしたことはない。

「おはよう」

 学び舎に通う前、必ず少女は黒猫に挨拶する。
 返事などは期待していないだろうし、黒猫も返す術がないから黙っているしかない。
 鳴く、という返答の仕方もあったのだろうが、そうすることが正しいのかはよく判らなかった。
 それならば、行動で彼女に宿飯のお礼をしなくてはと漠然と考えていた。

 ――出される餌は毎日同じ。
 消化の悪い玄米に、硬くなった木の実。たまに煮詰めたワラビなどもあった。
 だが、雪と風を防ぎ、空腹を満たせるだけで充分だった。充分すぎるほど満ち足りていた。

 来る日も来る日も、鼠ばかりを殺していく。
 たまに弄繰り回して遊んだり、少女の母親に献上したりする。
 この狭い家の中に、父親らしき人影は見当たらなかった。その意味を深くは考えない。
 大抵、母親は要らないと顔をしかめるのだが、機嫌の良いときはありがとうと笑ってくれる。
 無理をしていると黒猫は思ったが、それでもやはり嬉しかった。
 頭を撫でられるのは慣れなかったが、淡白な餌に舌が鳴らされるように、人間と触れ合うことにも抵抗を覚えなくなった。

 ――いつしか、黒猫は自然に鳴くことを覚えた。
 威嚇ではなく、馴れ合いのために。

「おはよう」

 そう言われたとき、ほんのささやかな声で鳴く。

「……え?」

 自分で言っておきながら、不思議そうに琥珀色の瞳を覗き込む。
 急に迫ってきた黒瞳に驚いて、黒猫は再び鳴いた。

「私の言葉が、判るんだね……」

 優しく頭を撫でられる。
 少女の母親は、何を言ってるんだいと鼻で笑う。
 言葉を持たない黒猫は、やはりこの場面でも小さく鳴くしかなかった。




 冬が過ぎ、景色を染め尽くしていた白色は溶けてなくなり、春が訪れようとしている。
 少女が学び舎に通えるのは、農作業をしなくても済む冬場のみ。それ以外は、人手がどうあっても足りないから家の仕事を手伝う。

「おはよう」

 一日が終われば泥のように眠る少女も、一日の始まりには優しい笑顔で黒猫を迎えてくれる。
 そんな彼女に、鼠を取ることでしか応えられない自分を黒猫は歯痒く思う。

 ――それに、もう、この家には鼠の一匹も棲まなくなってしまったのだし。

 ……殺しすぎたのだ。
 少女のためにと焦るあまり、家の裏には大量の鼠の死骸が打ち棄てられた。
 もう、ここには鼠の居場所がない。それと同時に。
 少女の母親は、彼女が居ないときに黒猫の傍で愚痴をこぼすことがあった。

「黒い飼い猫は吉を運ぶというけどね……」

 溜息の真意を推し量ることは出来ない。
 単純に、お前は用無しだと外に放り出さなかったのは、ひとえに娘のことを思ってのことだろう。
 何も、黒猫自身のことを考えての選択では、無い。

「お前もだいぶ成長したから……。外で生きるのも、苦ではないだろうさ」

 少女のものとは違う、哀れみにも似た微笑。
 だが、母親を恨むことは出来なかった。だって、仕方ないではないか。
 あの少女はこれから半年、あるいはそれ以上の長い間、殆ど遊ぶことも出来ずに畑を耕し稲を育てなければならないのだ。
 貧しい家にあって、それは仕方の無いことと呑み込むしか無いのだろうが、学び舎に足を運ぶほど好奇心の高い少女に、何の望みもないはずがない。

 ――もしかしたら、あの日に黒猫を受け入れたのも。
 短い冬の間だけでも、娘に楽しみを与えてやれたらと願う親心では無かったのか。

 一介の猫にそれを理解することはままならない。
 ただ漠然と、そう遠くない未来に外を走り回ることになるだろうと思った。




 黒猫は雌だったが、そのことに頓着する人間も猫もいなかった。
 元より、この黒猫は冬の時期に人間に飼い慣らされ、外での生活を全くと言っていいほど知らない。
 寒さで凍え死にそうだった冬の日に救い出された黒猫は、外の世界で生きるという自由を失った。
 しかし、それでもいいと決めたのだ。
 自分は命を救ってくれた彼女のために生きる。言わば、自分の生はこの家から始まったのだとも言えるし、彼女が居なければ元よりここに居る意味もないのだから。

「おはよう……」

 夏が過ぎ、収穫の季節も間もなくやって来ようというときに、少女は風邪をひいた。
 風邪の流行らなかった年はないと言うほど、ありふれた病だ。
 けれど、風邪が病の発端になる可能性も否定できない。
 床の中にあっても、少女は黒猫と目が合うたびに挨拶をした。意識がもうろうとしているのか、昼になっても、夜になってもおはようと言った。
 黒猫も、それを知りながらいつものように鳴き声でそれに応え続けた。
 少女は、日に日に衰えていく。
 無論、仕事を手伝えるはずもなく、外では母親がひとりで働いている。
 だからいつも、少女に寄り添っているのは黒猫一匹だけ。

「……お前のせいで」

 ぎり、と歯軋りする音が聞こえる。
 怨嗟にも似た声は、少女の母親が発したものだ。病床に伏せる娘の枕元に座る黒猫を、仇でも見るような眼で睨み付ける。
 それも仕方ない、と黒猫は納得する。
 誰かを悪者にしないと、きっと誰も助からない。それで母親の気が済むのなら、自分はどんな罵声でも浴びよう。

 ――本当は、黒猫のせいなどではない。
 また、病原体を運ぶとされた鼠を悉く殺しつくしたのは、他ならぬ黒猫であるのに。
 どれだけ恨まれて、何度蔑まれても、黒猫は涼やかな瞳で少女とその母親を見詰めるだけ。
 少女は、鼠と関係のない病を患ってしまった。
 それはもう、どうしようもなかったのだ。

「お前が災いを運んだんだッ! この、忌々しい黒猫がッ!!」

 少女はこうも教えてくれた。
 『病人の枕元に黒猫が座ると、その人間は確実に死ぬ』と。

 怒りと共に、ガラクタが投げ付けられる。
 母親は泣き叫んでいた。黒猫に当てるつもりも、追い出す気もないのかもしれない。
 八つ当たりだと感じていても、今更それをやめることは出来ない。
 誰かを犠牲にしなければ、儀式は完成しない。恨みは消えてくれない。
 まして、死の淵に立った人間を助けるために黒猫一匹が死んだところで、一体誰が涙するというのだろう。
 災いを運んだのが黒猫なら、それが死ねば全ての災禍は無かったことになる。
 死神が去れば、少女は何事も無かったかのように笑っていられる。
 そのときにはもう黒猫はいないけれど、次の野良猫を拾ってきては、母親を説得して冬の間だけでも楽しく暮らしていく。
 ……ああ、それはなんて輝かしくて……なんて、酷い幻想なんだろう。

 結局、母親は黒猫を殺さないままに床にへたりこんでしまった。
 少女の息は上がっていた。黒猫は一瞬、家から出て行くべきか悩む。
 けれども。

「……あ。おはよう」

 たまたま目が合って、挨拶してくれる少女に黙って居なくなることは出来なかった。
 不規則に呼吸する少女を見て、これが最後になるだろうと黒猫は思った。
 黙って、少女が次に喋るのを待つ。
 馴れ合いのために覚えた鳴き声も、彼女の意識を妨げる虞があるから使わない。

「……今日は、なんだか暖かいね」

 にゃあ、と気の無い返事を返す。
 少女は笑う。掠れた声で。

「そういえば、名前、つけてなかったよね……」

 どうでもいいことばかり、少女は話したがる。
 黒猫はただ鳴いて、少女の言葉を促した。

「本当は、前から決めてたんだ……。あなたは、琥珀色の綺麗な目をしてるから――」

 にゃあ、と途切れた言葉の先を待つ。
 一刻、また一刻と言葉を待ち続けても、名前を思案しているのか一向に少女は答えを言わない。
 仕方ないので、黒猫は催促するように鳴いた。ひとつ、またひとつ。
 細く、長く、鋭く、甘く。
 いろんな鳴き方で少女を起こそうとする。
 けれども、少女はどうしたって次の言葉を発してはくれなかった。

 ――後ろの方で、誰かがすすり泣いていた。
 ああ、そうか。
 ずっと気が付かなかったけど、この人はもう、おはようとは言わないんだ。

 だから、黒猫は最後にひとつだけ鳴いておしまいにした。
 最後に見た少女の顔は、とても穏やかで、とてもじゃないけど見ていられなかったから。

 ――にゃあ。




 もう誰も黒猫を追い出そうとはしなかったけれど、黒猫はそうすることが当たり前のように家から居なくなった。
 外の世界は黒猫に冷たく、冬の季節は野良猫を痛め付けるかのように吹き荒ぶ。
 その苦難を甘んじて受け入れ、黒猫はいつかの橋の下で暮らすことに決めた。
 しかし、そこには既に別の猫が棲み付いていて、居場所を手に入れるためには戦うしかなかった。
 飼い猫として生きた黒猫は、自分より一回りも小さい虎毛の猫にあっさり敗北を帰した。

 ――思い出が、またひとつ消えた。

 仕方がないから、この村にひとつだけあるお寺の軒先を借りる。そこにはたくさんの野良猫が寒さをしのいでいたが、黒猫を締め出そうとする輩は一匹も居なかった。
 寺の裏には墓地があって、死人が埋まっている土の上には仰々しく巨大な石が鎮座している。
 そこに供えられたわずかな供物を食べては飢えをしのいでいるらしい。猫の格にしたがって、どの家の供物にあり付けるかも決定しているようだ。

 ――墓地には、最近できたばかりのちっぽけな墓があった。
 洗練された石ではなく、そこらの大きな石を乗せて掘り起こしただけのお墓。

 字が読めないから名前は判らないが、ちょくちょくお供え物を持ってくる人間には見覚えがあった。
 黒猫は、決してそのお供え物を食べなかった。
 他の猫が食べようとすると、せいいっぱい威嚇して、時には爪を引っ掻いて近寄らせないようにした。
 そうして、お供え物が土に還るのをただひたすら待っている。腐れ落ち、地の底に還っていく様子を、飽きもせずに眺める。
 自分は卒塔婆の根元に生えている茸を食べて、子を残すでもなく、縄張りを広げるでもなく、ただ墓を守るためだけに生き続けた。






 ――いつしか、黒猫にはもう一本尻尾が生えていた。
 それは何処かに住んでいた少女の瞳のように、淡い黒色をしていた。






 ざあ、と風が吹いた。
 幾度目か数えるのも億劫になった季節の巡りを経て、珍しい来訪者を迎える。

「――もう、其処には誰も居ないよ」

 長年、風雨に晒されて崩れ落ちそうな石の上に、一匹の猫が座り込んでいた。
 人間の形をしたそれは、長い長い時を生きて妖怪になったもの。
 そして自分に話し掛けてきた狐もまた、人の形をした妖怪なのだろうと見当をつけた。

「どうして? 私は、ここを守ってなくちゃいけないの」
「それはまた、どうして」
「……どうして?」

 はて、と首を傾げる。自分で石の守護者を名乗っておきながら、なぜ守らねばならないかがいまいち思い出せない。
 きっと長く生き過ぎたせいだろう、よくあることだ、と猫は当たりをつけた。

「ふむ。その石に、何か特別な思い入れでもあるのか」
「うーん……。よく思い出せないけど、石じゃなくて、もっと別のものだったような……」
「なるほど」

 その狐は、その石以外は草木しか生えていない広地を見渡して、静かに頷いた。

「昔、ここは人間たちの墓地だったそうだ。お前が守っているのも、石ではなくてその下に埋められていたものなんだろう」
「……そう、なのかな?」

 多分な、と狐は言った。
 頼りないと思いながら、覚えていない自分が悪いと考え直す。
 石の下には何が埋まっているんだろう。
 未来永劫、這い上がることの出来ない土の中で、終わらない夢を見続けている誰かのことを想い――。

「だけど、もう其処には誰も居ないよ」

 神妙な声で告げても、猫は膝を抱えたままそこから動こうとしない。
 そんなことは、判っている。
 とっくの昔に、ここにいたはずの誰かは居なくなってしまったし、茸だってもう生えない。
 とうの昔に、ここを脅かす人間も獣も妖も居なくなってしまったことも。

 黒猫が妖怪になってしばらくした後に、凄惨な戦が起きた。
 そのときに、多くの墓石は倒れて朽ち果ててしまった。お寺の本尊も焼き尽くされ、この土地には何も残らなくなってしまった。
 でも、黒猫はずっとそこから動かなかった。

 ただ、それだけのことだ。

 悲しいことなんかない。
 嬉しいことはたくさんあった気がする。
 だから、きっと幸せだったんだ。

「……そっか」

 思い出せないことを必死に思い出そうとしながら、黒猫は膝を抱えてちょっとだけ笑った。

「でも、もうちょっとだけ……ここで、こうして居たいの」
「……ん」

 狐は腕を組んだまま、沈黙することで肯定した。
 ざあ、と風が吹いて、俯いたままの猫の尻尾を大きく揺らす。
 ひとつは黒で、もうひとつも黒。同じようで、違う色ふたつ。

 ――綺麗な尻尾だな、と狐が聞いて、ご自慢の尻尾なんだよ、と猫が胸を張って答えた。






 藍の誘いで式になって、どれくらいの年月が経ったんだろう。
 短くはない時間の始まりに、藍は名前を知らないという黒猫に名前を与えた。

 ――そうだな。おまえは、綺麗な琥珀色の眼をしているから……。

 ――おまえは、『橙』だ。

 その時だけ、ぽろりと涙がこぼれた。
 やっと、長い間をかけて、大切な大切な探し物を見つけられたような――。
 そんな、涙だった。






 マヨヒガの朝は早い。
 いつもは寝坊がちな式神も、今日ばかりは元気に飛び起きる。
 いつもより丁寧に毛づくろいをして、朝ごはんを用意しているであろう主の下へ急ぐ。
 今日は、自分の主に初めて出会い、自分に名前を付けてくれた日。
 藍がそれを覚えているか定かではないが、自分がそれを大切にしたいのだから、別にどちらでも構わない。

 それに、名前なら初めから付いていた。
 ただ、誰もそれを声に出してくれなかった。それだけのこと。

 ――さあ、元気よくいかないと。
 黒猫の主は、炊事場に立って甲斐甲斐しく味噌汁を煮込んでいる。
 藍が慌しい足音に振り返り、溜息をこぼしながらも、優しく笑いかけてくれた。

「おはよう、橙」
「――おはよう! 藍さま!」

 マヨヒガの黒猫は、思わず笑みをこぼしてしまうような大声で、これ以上ないくらい元気よく挨拶した。





−幕−







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2005年2月23日 藤村流継承者

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