不燃

 

 

 

 森の深くに棲み付いた女がまだ年若い別嬪さんと聞き、後先を考えない青年は五人くらいでその浮浪者を探し回っていた。
 滝つぼの近くで彼女を見付けたはいいが、その娘はちょうど身体を清めていたようで、これまた顔を真っ赤にして彼らを怒鳴りつけた。男たちはわらわらと逃げ帰り、喰われる喰われるぞと半ばふざけながら土産話を持ち帰った。
 だが、そのうちの一人だけは、何に魅せられたのか彼女のことが忘れられなかった。たびたび森の中に入っては滝つぼを窺い、失敬と思いながら少女がぼろきれのような服を脱いで身体を洗う様をつぶさに観察していた。
 素人の盗み見など数回もすれば簡単に露見してしまうわけで、青年は茂みに潜んでいるとき不意に背中を叩かれて血の気が引いた。振り向いた先にあった少女の顔はやけに美しく、こめかみが引きつっていても触れると爆ぜそうな笑みを浮かべていても、青年は異端じみた銀の髪も紅い瞳もあますところなく受け入れていた。
「半殺しと全殺し、どちらが好き?」
 その日は、頬をこっぴどく叩かれた。

 

 

 少女が森に棲んでいることを不気味がる者は少なくなかったけれど、作物を盗んだり村人を攫ったりすることはなかったから、害はなかろうと見て見ぬ振りをしていた。
 少女は少女で森の中に急造りの納屋をこしらえ、畑を耕したり魚を獲ったりして細々と暮らしていた。時たま、村に下りては麻を分けてくれないかと申し出ることもあり、畑から獲れた作物との物々交換などで上手いことやりくりしていた。
 どこもかしこも生きることに精一杯な者たちばかりだったから、少女が紅い瞳をさらし銀の髪を垂らしていることや、どこから来てどういう素性の者なのか、詳しい事情を詮索する者もいなかった。
 けれども、あの青年は周りの者と違い、みずから進んで少女と接した。初めのうちは、滝つぼのこともあって出会い頭に殴られたり蹴られたりしたが、懲りずに顔を見せるうち、彼女も青年を拒むことはなくなった。それなりに邪険には扱うのだけど、人間扱いはしてくれた。畑仕事を手伝わされたり納屋の修理を任されたりすることが多かったが、彼女と共に過ごしていることが青年にとって至上の喜びでもあった。
 畑に鍬を入れている青年に、少女が問うたことがあった。
「どうして私に会いに来るの。どうせ扱き使うだけなのに」
 手拭いを受け取った青年の顔は、初めて会った頃より幾分か精悍な顔付きになっていた。
 彼が照れ臭そうに鼻の下を擦ると、堆肥が付いて途端に面白い顔に仕上がった。
 それは多分、きみのことが好きだからじゃないかな。
 言って、彼は彼女に引っぱたかれた。
 すぐに手当てされたところが、進歩の証と言えないこともなかった。
 彼女が滝つぼで身を清めている際、彼は見張りに立つことが多かった。出会いが出会いだったから、彼はそう命じられると酷く驚いた。それでも「嫌なのか」と問われると、そんなことはないと必死にかぶりを振るのだった。濡れそぼった猫のように首を振るわせる青年の姿がやけに滑稽で、少女は声を上げて笑っていた。
 だが、彼女の信頼を裏切るつもりはないくせに、彼はたびたび滝つぼを泳ぐ少女の姿態を盗み見ていた。
 痩せた体躯は肋骨がやや浮き彫りになっており、腕も脚も十分な太さを備えているとは言いがたい。女性としての機能を果たせるかどうかさえ曖昧な乳房を隠し、水辺に立った少女はまっすぐに彼を見据えた。
 気付かれ、萎縮する彼をよそに、彼女は淡々と語り始めた。木漏れ日が銀の髪を照らし、濡れ鼠のような少女の身体を光の色に染め上げていた。
「もう、ここには来ない方がいい」
 彼は愕然とした。木の影から飛び出し、俯いていた彼女の肩を掴んだ。裸であることは、意味のないことのように思えた。彼にとっても、彼女にとっても。
 何故、と彼が問い詰めても、少女はなかなか口を開かなかった。滝の波紋から逃れた水鏡が、彼と彼女の容姿を紺碧の膜に映し出していた。
「あなた、随分と格好よくなったわ」
 でも私は、ずっとこのまま。
 青年の頬を撫で、くすりと笑った。
 短い言葉に込められた意味は、彼にはよく分からなかった。けれどもこの細い身体が成長の兆しを見せないことは、彼の胸にずっと引っかかっていたことでもあった。
 大人と、子どもだ。
 少女が不便な山奥にて生活を送っている理由が、分かった気がした。少女は悲しそうに相好を崩し、彼の手を払いのけた。
「私も、あなたのことが好き」
 けれど、不老であることを知れば、誰も彼も共に在り続けることはできなかった。
 人は、死んでしまうものだから。
「……ごめんね」
 彼の頬に触れていた手が、彼の手のひらに捕らえられる。眼差しは重く、他人の荷まで抱えんと欲する決意に満ちていた。
「何も知られないうちに消え去れば良かったのかもしれないけれど。何も言わないまま消えてしまう方が、酷いと思ったから――」
 男に抱き寄せられて、少女は彼の胸板に爪を立てる。痛みに顔を歪ませ、何か言わなければならないと煩悶する彼が声を発することは、ついになかった。濡れそぼった仔犬を包むような、生温い抱擁が続いていた。白銀の雫が、きらきらと煌いていた。

 

 

 痛ましい告白があってからも、彼はたびたび少女の家に現れた。後悔するかもしれないと言われても、怯む素振りもなかった。少女も説得を諦め、彼に釣り具を放り投げた。
 青年の身体は見る間に逞しくなり、腕の太さはちょっとした丸太くらいになった。少女は相変わらず成長することもなく、けれども食と心が満たされているのか、血行もよく幾分か丸みを帯びた体付きになっていた。
 彼は、少女との仲を友人に茶化されていると嬉しそうに語った。一方、親からは決して良い目で見られていないとも告げた。それも、両親が亡くなってからは触れられなくなった。ただ、時折遠い目をして空を仰ぐようになった。
 初めて二人が出会ってから、随分と長い時が経った。
 三年ほど、青年が顔を見せないことがあった。今度会ったらひっぱたこうかしらと愚痴りながら、二度と会えないのではないかと恐ろしくなって村に下りた。
 久しぶりに会った彼は、また違う顔付きになっていた。
 彼は、村の娘と結ばれたそうだ。可愛い子も授かったそうで、それに際して少女のもとに顔を出せなくなっていたのだ。
 ぶん殴る気も起こらず、少女は黙って彼の話を聞いていた。すっかり父親になってしまった彼を見、少女は痛感した。身体が肥えても、心は決して肥えはしない。丸みを帯びた身体は子を産むのに適していようとも、己は永劫に母親にはなれない。
 立ち話が過ぎれば、彼の妻と出くわすかもしれないと、彼女は適当に別れの言葉を告げて、口ごもる彼に背を向けた。彼は戸惑い、けれども引き留めはしなかった。遠く、軽い足取りが聞こえた。女と、小さな子どもの足音だった。
 永遠の少女は、いつか彼が見せたように、何もない空を仰いだ。
 すれ違う人の目も、人を見るものではなく、妖を見るそれに変わりつつあった。最早、少女を庇う者はいない。居心地が良かったから、同じ場所に留まり過ぎたかもしれない。少女は反省し、鬱陶しげに頭を掻いた。
 彼女がこの集落に足を踏み入れてから、既に十年が経っていた。

 

 

 納屋と畑は放置することにした。新しい浮浪者が使うかもしれないし、でなくても烏が種を食べ、雨が土を均す。時が何もかも洗い流してくれる。
 荷物は何も持たず、馴染んだ滝つぼで最後の清めを済ませ、少女は山を降りる。竹籠も納屋に置いてきた。嫌がらせのように、彼の家に置いて行こうかと趣味の悪いことも考えたが、実践する気にはなれなかった。
 空は晴れて、空気も乾いていた。かさついた肌を撫で、潤いの失われた肌触りを嘆く。枯れた枝を踏む足取りさえ重い。身体が幾分か軽くなって、歩いているうちに空を飛んでしまいそうな気がした。
 これまでも、似たような経験は何度かあった。今回は違うかもしれないと思った。違うところもあったが、叶いはしなかった。それだけのことだ。
 空を仰ぐ。
 遠く、天に向かって立ち上る黒い煙を見る。
「――――炎」
 不意に、重ね合わせた指に熱が走る。煙が舞い上がっている場所に向かって、少女は駆け出していた。間違いであれば構わない。姿を見られても知ったことか。ただ胸のうちに湧いた不穏な確信を拭うべく、一縷の望みを託して疾駆する。
 だから、もう来るなと言ったのに。
 普通の人間ではないと告げたのに、それでも近付いてくるから。
 異端に近付けば異端に喰われる。それは世の理であり、時が経っても己がうちに宿り続ける永劫の呪詛である。
「――は、ぁ」
 息咳切らして、辿り着いた集落の広場には、大勢の人だかりが出来ていた。誰もみな、燃え盛っている家から目を離さない。水を被せても、火消しの仕事も無意味だった。周囲に飛び火する家屋がないのが幸いだったろうか。原型を留めないほどの炎に包まれ、轟々と燃え盛る誰かの家。
 女の叫び声がする。子どもの泣き声がする。耳を傾けても、それが彼の妻と子どもの声なのか解るはずもなかった。可哀想に、これからだというのに、もう助からない、と嘆く人々の声が聞こえる。
 目を逸らすなと心が言う。ここは彼の家だ。彼はこの灼熱の中に取り残された。いつからかは解らない。淡い関係が終わったのなら、その思いすら静かに消えて、みなの心から忘れ去られればいいものを。
 何故、今際の際にこんな炎を巻き上げる。
 こんなにも黒く、醜い炎を。
「……、は」
 少女は、歯軋りをして、額に垂れた前髪の何十本かを無理やり引き抜く。身体の内側からぶちぶちと音がする。痛い。熱い。涙が出る。足を踏み出す。灼熱の中に身を躍らせる。女の叫び声が背中を押す。子どもの泣き声が心臓を刺す。
 服を、肌を焼く炎に巻かれて、息を吸えば肺を焼かれる苦痛に苛まれ、視界すら覚束ない家を突き進む。引き戸を蹴破り、壁を殴り付けながら前に進む。彼の姿はないか。いないのなら笑い話で全てが終わる。いたとしても何も変わらない。結果は既に出ているのだ。だから別に飛び込む必要はなかった。
 でも、見ておきたかったのだ。
 床に倒れて、絶命している彼をこの目に焼き付けたかった。
 煙を吸い込んで昏倒し、そのまま呼吸が出来なくなり、死に至った。心臓は既に止まっている。炎の中、息を送り込んでも、胸を押しても、少女の息が辛くなるばかりで効果はなかった。
 容姿は、彼に間違いなかった。初めて会った頃から随分と立派になり、それでも面差しに大きな変化はない。驚愕に見開かれた瞳を、指で閉ざす。それだけでも、死に顔は幾分か安らかになった。
「……死にたく、ないよなぁ」
 もっと、生きていたかっただろうに。
 もっと、生きていてほしかったのに。
 そんな些細な願いさえ、叶えてはくれないのか。
「帰ろう」
 少女は、もう動かない彼を抱えて、全てを吹き飛ばす炎を解放する。
 人を殺すことしか出来ない脆弱な炎を消し飛ばし、少女は火の鳥を背中に抱き、家の残骸をくぐり抜けて外に脱出する。直後、人だかりからざわめきが沸き起こる。不死の炎に消し飛ばされても、家を焼く炎はまだ燻っているようだった。最早、家と呼べる状態ではなくなった残骸を前に、少女は彼を地面に横たえた。
 少女もまた、あちこち火傷をこしらえていて、服も焼け焦げて見るも無残な状態であるのに、みなの視線はもう動かない彼に集まっていた。
 死んでいる、と誰かが言った。女が彼に駆け寄って、揺すり起こして、呼び掛けて、返事がないことを知るや大きな声で泣いた。つられた子どもが泣き喚いて、炎の撒く音が消えたかわりに、物悲しい泣き声ばかりが響き渡る。
 疫病神だと、罵る声がないかわりに、畏怖の視線が少女に送られた。炎の化身を背中に抱いて、彼を掬い上げた雄姿に恐れを抱いていた。火の鳥はもう姿を消しているが、人々の目にはその姿が焼き付いている。
 少女は、みずからの薄い胸に触れ、贅肉に埋もれたあばらに指を這わせる。
 幸せだった。少なくとも、この十年は。
 嘘じゃない。
 嘘であって、たまるものか。
「どうして……どうして、こんなことに……」
 嘆きの声が背中に届く。少女は既に歩き始めていた。引き留める者は誰もいない。おまえのせいだと罵る声もない。木の焦げた臭いが集落に広がっていた。風はやがて煙を飛ばし、焦げ臭い香りを消し飛ばすだろう。雨は焼けた家を濡らし、割れた材木を腐らせ、人はそれを踏んで叩き潰して土に埋める。時が全てを洗い流してくれる。洗い流せるようなものならば、全て。何もかも。
 乾いた空気が、焼けた肌を静かに撫でる。
 頬に付いた燃えかすを拭い、黒ずんだ手首を見て、少女は口の端を歪めた。
 笑ったつもりだったのに、どうしてか、ちっとも笑った気がしなかったけれど。

 

 

 

 



SS
Index

2010年3月18日  藤村流
東方project二次創作小説





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