安直な誘惑にその身を捧げるブルース
衝撃が走る。
角膜から網膜に突き抜ける光の屈折は、私の自我を殺すのに十分すぎた。
身体がぐらつくのは、決して頭に血が昇っているからじゃない。眩暈がするのは、湯船に浸かりすぎたからじゃない。火照った身体、少なからず水分を吸収した肉体の重量が、至極単純明快なアラビア数値に換算される。私は今、その現実を目の当たりにしている。
バスタオルなど、とうの昔に剥ぎ取っている。未練がましくても構わない、この事実を認める訳にはいかないのだ。もう一度、提示された値を確認する。信じられない、信じたくない。今までの生活を省みても、鏡に映る自身の肢体を再見しても、この値が弾き出されるに足る、如何なる要因も見出すことはできない。
怖い。私は怖い。
まず体重計の故障だと考え、予備の測定器を戸棚から引っ張り出した。それでも不可、現実は変わらない。過酷だった。何が何だか分からないけれど、やたらと過酷な現実が私を糾弾し続けていた。
これすなわち、痩せろ、と。
私の手の届かない場所から、女神が選定を下されたように。私は成す術もなく打ちのめされる。
言葉も出ない。認めるしかないのか。受け入れて、消化するしかないのか。食物のように。人生のように。
この、100kgという客観的すぎる真実を。
「……」
試しにジャンプしてみると、身体の軽さとは裏腹にメーターの数値が目まぐるしく変化脈動する。何だか機械に申し訳なく思えて、しばらく呆然と突っ立っていた。その間も、姿見に映った自分の身体を確認する義務は怠らない。
標準的な体型、だとは思う。肩に掛からない程度だった金髪も、そろそろ美容院のお世話になりたいくらい伸びてきている。鬱陶しくはないが、面倒なことも多いのだ。
出ているところはそこそこに、くびれやへこみもそれなりに。自慢できるほどではないにせよ、卑下するほど凄惨でもない。尤も、自虐的な性癖は、肉体より精神に依存する病なのだろうけど。今はあまり関係のない話だ。忘れよう。そして私は、忘れたくも忘れがたい真実と向き合う。
デジタルの数値は、綺麗に1と0とを並べている。測定限界値は120kgだそうだから、まだ小学校の低学年を受け入れる余地はあるらしい。凄いや。
「……」
沈黙。沈黙。
そして。
「……なんじゃそら」
関取かい。
「あはははははは!」
「あははは」
「……メリー、メリーってば最高よねー。あは、はははは」
「私的には最悪ですよ宇佐見さん」
知らずと名字で呼んでしまう。でも、そんなに笑うことはないと思う。ほら、他のお客様の注目を浴びているではないですか。店内は静かに、子どもでも分かるマナーです。
今の私はきっと、死んだ魚のような瞳をしているに違いない。できれば白魚希望。
「あー、ごめんごめん。でも、本ッ当に面白いわねー。ふふふ」
「あははは」
殺したいほど憎いとは思わないけれど、吐き出す笑いに潤いが感じられないほどには神経が昂っている。噛み砕いた砂を吐いている気分だ。あるいは、味のないガムを噛んでいる心持ち。
誰が悪いのかと問われたら、それは世界だと答えよう。
「……まあ、ね。普通に考えれば、たった一日で体重が二倍強になるなんてのは、明らかに頭のおかしい事態なんだけど」
強がりを言っても、蓮子には全く通用しない。何が嬉しいのか知らないが、私が現状を告白してからずっとにやにや微笑んでいる。本当に、気味が悪い。
あれから、衝撃を拭い去れないまま時は過ぎ。それでも日常は連鎖し続け、パズルゲームのようにしばらく積むと消えてなくなる。
私が醸し出していた負の思念は、私の半径2m近辺に暫定的な結界を織り上げた。試しにその境目を確認してみたが、ナマモノの結界ではなかったから、眼球が結界の焦点を結ぶことはなかった。
身体が重く感じられるのは、心因性のストレスによるものだろう。でなければ、実際に増えているとでもいうのか。脇腹の肉を摘まんでみても、一昨日以上の脂肪を確認することはできない。と、思いたい。思え。
「メリー、ちょっとこっち向いて」
「……なによ。これでもショックは受けてるんだから、ちっとは被害者の人権というものを」
「はい止まって!」
「そん……!?」
じー、じゃこん。黒塗りの角質と、凹凸の激しい瞳が私を覗き込んでいる。
じじじじ……。閑散とした喫茶店に、恨みがましい唸り声が響く。
べろりんと、物々しい機械が真っ黒な舌を晒している。ありていに言えば、インスタントカメラという機械の成せる業である。蓮子が何故それを所持しているのかについては、言及を避けた。
「……うん。もう動いていいわよ」
「ちょう……して、ないわよね。蓮子」
「何が?」
薄いテーブルに写真を押し付け、裏側をぐりぐりと撫で付けながら蓮子は言う。
「もういいわよ……。で、いきなり写真撮ったりして、肖像権の侵害について語り合うつもりなら付き合うけど」
「喧嘩腰で話をするのはよくないわよ。そうだ、ミルフィーユでも頼む?」
店員の女の子に目配せしようとして、私の訝しげな視線に気付く。
「蓮子、私の話ちゃんと聞いてた?」
「メリーの体重が100キロになっちゃったんだよねー」
「声に出して言わないでよ!」
……信じられない、この娘。
前々から天然ぽいところがあるとは思っていたけれど、まさかこれほどとは思わなかった。
こわい。私は蓮子がこわい。
「今はメリーの方がうるさいわよー。まぁ、それはともかく。写真できたわよ」
と、独りで震え上がっている私をよそに、蓮子は蓮子の作業を終えたようだ。
擦り続けていた写真を引っ繰り返し、不覚にもその肖像に目を奪われてしまう。写っているのは、間違いなく私のはずで、それ以外に写り込んでいるものがあるなら、それは見切れた椅子やテーブル、よくてグラス程度のはずだ。
が。
現実を見つめよう。私は昨夜、それを学んだはずだ。
「ポラロイドって時間かかるけど、見えないものを写すには最も優れた媒体なのよね。あーこわいこわい」
ひぃぃ、と冗談めいた蓮子の言葉も、私の耳には入らなかった。
蓮子が運営する秘封倶楽部に入ってからこっち、私は耳を疑い目を何度も擦るようなものを、何度も、幾つも目の当たりにしてきた。それら有象無象の結集からすれば、この写真に写り込んでいるものを現実だと認めるのは、そう難しいことではない。そう、ないはずなのだ。
蓮子もまた、そこに浮かび上がっている何がしかを見咎める。
「……うわぁ。これまた、ふっくらしたのに憑かれたわねぇ」
「言わないでよ!」
「別にメリーは太くないんだからいいでしょ」
「当たり前じゃない!」
「お客さま、静かにして頂けると……」
「分かってるわよ!」
分かってねー。と、蓮子がけたけた笑っていた。
とりあえず、蓮子しめる。
私――マエリベリー・ハーンの家系は、霊感が強い一族として通っている。かといって、先祖に霊能力者がいるという逸話はなく、神様ともあまり関わらず、霊園を通り掛かっては幽霊がよく見えるわねえとほのぼの話し合う程度の、ちっぽけな属性である。
無論、霊を祓うこともできなければ、空も飛べない。当たり前だ。
だけれど、私には結界の境目を見ることができる。それと霊感の有無とがどう関わってくるのか、現段階では見当も付かないのだけど。何はともあれ、人にない力というのは、人にあらざるものを呼び寄せる重要な因子になるのだと、数々のフィールドワークによって実証してきた。というか、せざるを得なかった。
蓮子がよくないものに憑かれ、私は夢の中に出てきたモノを現実に持ち込み、死の危険を味わったのも一度きりではない。それに比べれば、なんてことはない。なんてことはないのだ。うん。
「あははははは」
「あんたは笑わずにいられんのか」
我慢できずに、蓮子の後頭部を突く。彼女は鈍い痛みに気付くと、また破顔する。きりがない。
今は、大学とも、私や蓮子の部屋からも離れた川沿いの道を歩いている。客足の少ない昼下がりの時間帯とはいえ、人目を憚らずに笑ったり叫んだりしていれば、どんな軽薄な店だとしても速やかにお引取り願われる。馴染みのお店だとしても関係ない。顔見知りだからと言って公然と差別するのは、その店の沽券に関わる……と、それほど大層なことでもないのだろうけど。
とにかく、外は寒かった。そういうことだ。
からからと笑っていた蓮子も、この肌寒さにあてられて少しは落ち着いたようだ。
「いや、そうじゃないんだけど。でも、なんでだろうね。メリーに憑いちゃったのは」
か細く流れている清流を眺めながら、蓮子が何でもないことのように言う。
途端、肩が重くなったのは気のせいではない。全く、どこの誰が乗っているのやら。この世のありとあらゆる被害者がまず考えることだが、どうして私だったのか。偶然というなら、それが答えになるのだろうか。
「……なに、未来の暗示とでも言いたいのかしら」
「誰にでも憑く可能性はあると思うんだけど、火のないところに煙は立たないってよく言うでしょう? 今回の惨事は、贅肉のないところに脂肪は付かない、とでも言うような」
「なにそれ」
「憑依の憑で脂肪が憑くって書くのも面白いわよね」
「面白くない……」
ごめんごめん、と反省する素振りもなく肩を叩いてくる友人に、一体どんな言葉を返せるだろう。所詮、持たざるものには何を訴えたところで無意味なのだ。そんな子どもじみた諦観が、灰色の頭脳をぐるぐるぐるぐる螺旋状に旋回している。
ようするに、頭が痛いということだ。
私は、蓮子が撮った心霊写真を覗き込む。
「知り合い?」
「だったらもっと驚いてるわよ」
「そだね」
何の因果か、私の肩に透けて見えるのは恰幅の良い女性の身体。ワンピースに長い黒髪、恨みがましい目で私を見つめている。写真の上に落書きか何かしたかのように、はっきりばっちり投影されているのだ。
こう、人相や服装まで再現されているとなると、法螺や冗談の類ではないかと邪推してしまう。あるいは、特異な目を持つ者にしか見えないものだと。
けれど蓮子は、私の解説を聞く前に、そこにあるものの正体を言い当てた。蓮子もまた特異な能力の持ち主だが、二者に見えるのなら信憑性は高い。
肩をほぐしてみる。振り返っても、誰の姿も目に入らない。ただ陰りゆく紅い美空が見えるだけだ。
幻想的だな、と昨日ならば笑うこともできたのに。今はちょっと難しい。
「どうしたらいいのかしら……」
「お祓いでもされてみる?」
鬱屈して仕方のない私の隣に、前を歩いていた蓮子が並んだ。
不意に、乗り移ってくれないかなあと邪な希望に囚われる。全く、なんて友達甲斐のない奴なんだ、私は。
気が塞ぐ。
「誰が本当に見えるのか、その上で祓えるのか。全く怪しいもんよね。それだったら、小一時間滝に打たれた方がいくらかマシよ」
ほうほう、と帽子を揺らしながらしきりに頷く。
「ナイアガラとは漢だねぇ」
「死ぬからね」
もはや跡形も残るまい。
「なぁに、メリーなら大丈夫よ!」
「なにその全幅の信頼」
誰なんだ私は。
限りなく人間に近い生物だと思っていたけど、本当は違うのか。そうなのか。
だが、蓮子はめげない。二の句が告げなくなる、という台詞は彼女の中に存在しないのだ。
「知ってる? 心頭滅却すれば火もまた涼し」
「その坊さん死んでるからね」
どこまでも不毛だった。
泣けてくる。
「蓮子……」
「あ、いや、そんな泣きそう顔されても。えーと、そうね。体重を落とすにはダイエットがいいらしいわよ」
「それ、何百年も前から言われてるし……。それに、私が重くなったわけじゃないんだから、必死になって痩せたところで私がよりスレンダーになるだけじゃないの」
「一石二鳥」
「けど、根本的な問題は解決しない」
吐いた溜息は空気に溶ける。元々は同じものだから、消えるのも早い。
実害は無いに等しいものの、このまま一生、隠れ肥満の汚名を背負ったまま生き続ける訳にもいかない。増してや人の怨念を吸って成長しないとも限らないのだ。災いの芽は、早いうちに摘んでおいた方がいい。
あえて加えるとしたら、そう。
私は、河川敷で野球に耽っている子どもたちを眺めて、考える。あの頃は、体重がどうとか腰回りが胸元が、と思い煩うこともなく、気ままに楽しく暮らすことができた。ちょっとぽっちゃりしていても、それも愛敬と笑ってくれるだけの素養が、仲間と保護者にはあった。
だが、十代も半ばを越えてくると、kgなんざ関係ないねとせせら笑うだけの余裕などない。毎日毎日、来る日も来る日も体重計に身を委ね、体脂肪率を明日の糧とする。
だから。
「そうね。メリー、このままだとちゃんとした体重が分からないからね」
「うん……」
しおらしく、こうべを垂れる。
敵を知り、己を知らば百戦危うからずとはよく言ったものだ。
自分の重さを知らないということが、これほど不安だとは思わなかった。蓮子と比べて、今の私はどれくらいの差があるのだろう。まさか、抱え上げて確かめる訳にもいかない。
ここにきて、絶え間なく続けていた習慣が仇となった。落ち着かない。安らげない。
始終暗い顔をしている私に、蓮子は気休めの言葉を掛ける。気休めでも、あるのとないのとでは大きく違う。
「でもさ、裏を返せばどれだけ膨張しても相方のせいにできるってことよね」
「……」
かーん、と景気良く空に打ち上がる打球。
空は紅かったが、だからといってどうということもない。
「今、ちょっといいかもとか思ったでしょ」
「そんな馬鹿な」
「嘘だー」
ぼて、とグラウンドのフェンスを大きく越えた飛球が、傾斜のある草むらに不時着する。
やたらと重みのあるその響きに、またひとつ、心が重くなった気がした。
そうだ。
重力があるからいけないんだ、と思い至った私は、両国国技館に住まう東西の横綱たちの力を借りて、北極にあるという幻の地軸を破壊する旅に出た。
「……いや、待て」
去りゆく太い背中に問いかけようとして、目が覚める。
ベッドの中で手を伸ばし、伝説のサプリメントとか言おうとした自分を忘れ去りたい。
起こした背中が丸まっている。部屋はまだカーテンのせいで薄暗いままだが、その前に顔でも洗おう。ついで、無駄と知りつつ体重計の確認だ。昨日の時点で、蓮子から新しいものを借りてきている。できれば新品が好ましかったが、贅沢は言えない。
夢見心地の不確かな感触を拭い去るため、頬をぱしぱし叩きながら洗面所に向かう。
仮に、一昨日より体重が増えていたのだとしたら。測定板に乗ったとき、機械が鈍い音を立てて砕け散ってしまったら。
ろくでもない想像は、私の心が空想しているのか、憑いた魂が幻想しているのか。分からない。判然としないぼやけた頭で、洗面所の鏡面を覗き込む。
見ようと思えば、見えるはずだ。この両肩に留まっている、名も知らぬ重責の形が。
この目が見るのは存在の位相である。結界に限らず、意図して隠蔽されているもの、たとえば墓場やタイムカプセルなど、生きとし生けるもの、死んだものたちの思念や情念が渦巻いているポイントに、位相の綻びは発現しやすい。
……と、考察するのは私の勝手で、お墓参りに訪れて骨壷と御影石の境界が見えた、なんてことはごくわずかしかない。だが、見ることはできる。それは大きな経験と言えた。
今は、私の姿しか見えない。ならば、その先を見通そう。この目は見えざるものを見る位相だ。
目を凝らし、鏡に映る私自身を睨み返す。
――見つめられ、見つめ返してはや数分。起き抜けの目は、朝っぱらから酷使され続け淡い痛みを帯びている。
鏡という媒体を介し、浮かび上がったのはひとつの影。蓮子の写真よりも明確に、取り憑いている何ものかの存在を知覚する。
容姿も人相も変わらず、服装も体型も目立った差異は見当たらない。少しやつれているように見えるが、悲しいほどに同一人物だった。はぁ、と幾度目か知れない嘆息がこぼれて、見計らったように電話が鳴った。
「――っぅ!」
比喩ではなく、心臓が停止した。若いからすぐに脈打ち始めたものの、五十年後には分からない。
この横柄な電子音は、部屋に備え付けられている電話の着信音だ。突然の呼び出しに、集中していた意識が拡散する。あっ、と気付いても時は既に遅く、鏡の中に女の姿はなかった。やつれていても太って見えていたところがまた悲しい。
重苦しい雰囲気を引きずったまま、けたたましく叫び続ける受話器を掬い上げる。ディスプレイを見なくても、掛けてきた相手が蓮子だと分かる。
「蓮子!」
『え……?』
「……こ?」
『わ、私……。あ、あの、メリーさんのお宅ですよ、ね』
「あ――はい。そ、そうですけど」
『あぁ、よかった……』
受話器の向こうから、心底安堵したような呟きが漏れ。
『で、蓮子なんだけど』
「紛らわしいわ! 間違ったかと思ったじゃない!」
『それでいいじゃん。いきなり怒鳴りつける人間がいますかっての、反省しなさい』
「ぐ……」
蓮子の言うことも一理ある。沸騰しかけた頭を冷却すべく、ラジエーターを高速回転させた。
『まぁ、びくびくしながら体重計に乗るであろう時間帯を見計らったのは確かだけど』
「蓮子ー!」
ぎゃはははは、と意地汚く馬鹿笑いする蓮子に、本気で殺意のようなものが浮かんだのは疑いようのない事実である。そうは思っても、仕返しする機会そのものを与えないのが蓮子のゲームメイキングの巧さなのだが。
いつまでも活性火山の真似事をしている訳にもいかないから、苛立たしげに縫いぐるみの頭を押し付け、どうにかこうにか沸点を下げる。
「……それで、またどこか行くの?」
『ご明察。折角だから、本日はメリーの気が晴れるようなところに連れて行ってあげようかなあ、というこの懐の深さ』
どうよ、と受話器の向こう側で胸を張っている、蓮子の勇姿が目に浮かぶ。
正直、マリアナ海溝を彷彿とさせる無駄な懐の深さはともかく、今回ばかりは蓮子の誘いに乗るべきだと思う。蓮子に頼りたい。貸し借りで言ったら私の方が保有する債権の量は勝っているのだけど、そんな無粋な重量だけが、人を助ける基準になるとは思わない。
今朝はまだ体重計の洗礼を浴びていないが、身体の調子から察するに、今日も芳しくない結果に終わるだろう。溜息を吐こうとして、蓮子に余計な負担を掛けるかもしれない、と口を塞ぐ。
『で、どうするのー。来る、来ない?』
「……行く行かないの前に、待ち合わせの場所も時間も知らないんだけど」
乗り気になっていたのは、偶然にも今日が土曜だったからで、蓮子の熱意に押されたからでもある。あー、と逡巡するような言葉を残した後、数秒ほど声が途切れた。
『昨日、川沿いの土手を歩いたでしょ? あそこの流れをさかのぼって行くと、加速する現代社会に置き去られた廃ビルがあるから。そこよそこ』
「適当に退廃的な雰囲気出しても誤魔化されないからね。なに、廃ビルとか言った?」
無理心中でも図るつもりか。
『瓦礫の塔の方が良かったかなぁ』
「どっちでもいい。……たく、こんな時でもサークル活動は怠らないわけね。大した献身っぷりだわ」
『どういたしまして』
含み笑いが耳に残る。小馬鹿にされているような、それでいて、優しく包み込まれるような。高確率で前者なのだろうけど、私が後者だと感じるのだから、無理にでもそう思うことにしよう。
「それと、いつも言ってることだけど」
『ああ、次は遅れないって。次こそは。絶対』
「あんたの確約はあてにならん」
『よし、それなら今日私が遅れて来たら』
「来たら?」
やけに力強く宣言するものだから、つい耳を傾けてしまう。
その頃になって、部屋の採光度が時計の示す時刻と噛み合っていないことに気付く。そういえば、まだカーテンすら開けていないのだっけ。着替えも朝食も摂っていないのに、これだけはしゃいで後々息切れしないだろうか。不安だ。
『その時は、私のむねの触り心地を確かめてもいい』
「じゃあ私は、その権利を競売に掛けるわね」
『すいません勘弁してください』
言わんこっちゃない。
付け入る隙を与えるから悪いのだ。どちらもそういうことは言い慣れていないのだから、無理に知ったかぶりしない方が身の為である。その事実を、蓮子は愚かにも失念した。
「なら、遅れてこないこと」
『はーい』
反省の色が見えない。電子の彼方、白々しく応対する蓮子の結界が見えればいいのに。その境目を引っ繰り返して、素の姿を晒し上げたい。その結果、表と同じ蓮子がいたなら、私はもうお手上げだが。
待ち合わせの時刻を指示し、静かに受話器を下ろす。鼻から息を抜いて、自分のペースを取り戻す。まずは、乳白色のカーテンを開け、陰鬱に閉ざされた部屋を明るみに晒そう。そこからまた、私の一日を始めるのだ。
されど蓮子は、待ち合わせに遅れる。
その代償として、契約に従ってその局部とやらを鷲掴みにしたろうかと押し迫ってみたものの、蓮子が半泣きになっていたので速やかに債権放棄の手続きを行った。それが予想通りの嘘泣きであったことは、彼女の胸ポケットから緑色のケースが落下した時に判明した。
いそいそと目薬を元の位置に戻し、蓮子は何食わぬ顔で廃ビルを振り仰ぐ。私は、そんな蓮子の背中に問う。
「なにこのショートコント」
「ほんと、メリーといると飽きないわよねー」
「それはこっちの台詞……」
力なく呟いて、廃墟という他にうまい形容詞が見当たらないビルを眺める。
吹き荒ぶ風も、西部劇を思わせるような空っ風ばかりで、周囲には民家の一軒すらない。かといって緑に溢れている訳でもなく、無闇に広い駐車場と、ビルに続く傷んだ舗装道、河川の氾濫を防ぐ頑強な堰と。その上を通る遊歩道は、下流にある市街地へと続いている。
荒廃していた。
四、五階の小さなビルとはいえ、入居者がいればそれなりの見栄えにはなったろう。だとしても、バベルの塔を模したような滑稽さから、完全に逃れることはできなかっただろうけど。
テナント募集、という見慣れた広告が哀愁を誘う。それに乗じて、トンビもカラスもここぞとばかりに喚き散らす。いやに硬い地面を蹴り付け、辛気臭すぎる建造物と向かい合う。青い空も白い雲も、端に移り込む雄大な緑も、この時ばかりはビルを嘲笑っているようにしか見えなかった。
「うーん。際立った何かを象徴しているようで、特に何も思い浮かばないわ」
「そもそも、ここに来て何するつもりなの?」
「あ、言ってなかったっけ。うん、この場所はね、県外から訪れる人も多い自殺の名所なのよ」
「へぇ……」
呆、と天空を見渡す。曰く、天国は空と繋がっているらしい。奇遇だ。
今更だが、本日は天候にも恵まれ、絶好の探訪日和と相成っている。
ちゅんちゅん、ぴーひょろろろ、かぁー、ばぁん。鳥の囁きも耳に優しい。
一部銃声らしき不協和音が奏でられたものの、都合の良いようにその箇所だけは聞かなかったことにする。猟銃、あれは猟銃。猿を追っ払っただけ、誰も血なんか流してない。こめかみに銃口を当ててもいない、銃身を硬口蓋に添えて発砲したのでもない。口封じのために殺ったのでもないし、鳩尾に撃って激痛と喪失感に悶え苦しむ失血死を与えるのでもない。気のせい気のせい。すーはー、すーはー、山の空気はおいしいなぁ。
「――て、死んでるじゃん!」
「誰が」
「誰かが!」
絶叫しても動揺しない。割れたガラスと屈強な堰に反響し、共鳴する破裂音に包まれて異様な精神状態に陥る。ようは、無駄に昂揚しているということだが。それでもやはり蓮子は譲らず、自分の言葉で語り続ける。
「まー自殺の名所だから仕方ないよねー」
「仕方なくない!」
「仕方なくなくない?」
「仕方なくなくなくなッ、あーもうなんなのよー!」
舌噛んだ。
「痛いの痛いのー」
「痛くない!」
「痛くなくなく」
「二度も言うか!」
適当なところで切り上げて、釘が差し込まれたような痛みのある舌を、口内で擦る。
一度上がり切った精神を、深呼吸にて底辺まで下げる。何やら不満そうに唇を尖らせている蓮子はさておき、日が暮れる前に目的を果たさなければならない。目下のところ、その目的を暴くことが最優先事項となっている。
本末転倒とか言わない。
「こんなところに来たら、また余計なものに憑かれるじゃない……。もし体重が150キロにでもなったりしたら、蓮子は責任取ってくれるの?」
「もう夢の200キロを目指すしかないね!」
「新幹線かっての。じゃなくて、本当にさ……まずいわよ、これ」
ぐるりと一回りビルを見渡し、当初から感じていたもやもやが、蓮子の指摘によって明確な輪郭を帯びる。
「怨念というか、邪念というか。人体に影響を及ぼしそうな、好ましくない類の思念が渦巻いてるんだけど、ここ。自殺なら人工ものだけど、時間の経過も相まって、天然に等しい熟成された結界になってるわ」
「早いとこ取り壊すべきなのかもしれないけど、ここを壊しても自殺希望者は減らない。死にあぐねた人たちが中央に下りてきたら、ひっそりと死に至るよりよっぽど騒ぎになるわね。まぁ、来年のうちに取り壊す予定ではあるみたいだけど」
物騒なことを口にして、蓮子はすぐさま先行する。気楽な会話が途切れたとはいえ、まだ安穏とした雰囲気が私と蓮子の間に漂っているのに、蓮子はそんなことになど構いもせず、閉ざされた正面口に向けて歩を進める。
私が慌てて追いすがってくることも予測していたのか、蓮子は背中越しに質問する。
「メリー、ここに来たことある?」
「ない、けど」
「ここの噂を聞いたことも?」
「ないわ。……ねぇ、それが一体」
どうかしたの、と尋ねる一歩手前、蓮子の足が止まる。ガラス張りの扉には、おざなりに南京錠が掛けられていたけれど、そのガラスが木っ端微塵に割られているから全く意味がない。間近で見れば、テナント募集の広告も所々が切り裂かれ破り散らされている。
侵入は容易だった。
「ここは自殺の名所よ。でもね、そうなるには何か切っ掛けがあったはずなの。負の感情が堆積するには、それらを引き寄せる負の土壌が不可欠なのよ。ありとあらゆる物質を吸い込まずにはいられない、ブラックホールの原点となった事象が」
蓮子は徐に振り返り、引き結んだ口を開く。
「一年前、このビルで殺人事件が起こった。社員一名が胸や頭など数箇所を撃たれて死亡。彼を殺した犯人も、自分のこめかみに銃口を押し付けて発砲、自殺したと言われているわ」
錆び付いて、氷のように冷たい風が吹きこんでくる。それも、いつものことだ。
遠くで、どぉん、という破裂音が轟く。
あれは猟銃だ。間違いない。
「……まずくない?」
「なぁに、私たちなら大丈夫よ!」
「だから何その根拠のない自負心」
不安だった。
けれど、前に進まなければ。蓮子が、本当に何の意味もない行動を起こすはずはない。信じる。信じよう。
森の頂上から、気の抜けたトンビの鳴き声が響いた。
五階のビルということは、屋上を足すと六階規模に相当する階段を上らなければならないということだ。
惜しむらくは、この現代社会。交通網が成熟し、お金さえあればろくに体力を使わずとも目的地に赴くことができる。加えて、エレベーターにエスカレーターときた。考えてみよう、私たちに足は必要だろうか。人間は考える葦だというが、それとこれとはあまり関係がないことに今気付いた。
要約すると、疲れた。
この階段の勾配は急すぎる。死ぬ。
「……足が、痛い……」
「まだ三階よー」
踊り場で肩を落としている私とは裏腹に、蓮子は死刑台に続く十三階段を駆け上ってゆく。恐れも気負いも緊張もない――ように見えるのは、都合の良い思い込みだろうか。蓮子自身が備えている資質と、私がそうあってほしいと願う英雄像、そして蓮子がそうあろうとする願望。それら全てが、秘封倶楽部代表宇佐見蓮子を支えている力なのだと思う。
とはいっても、蓮子を見るだけで、膝に手を付いて肩で息をしている状態から脱却できるはずもない。しばらくの間、荒れ果てた剥き出しの鉄筋コンクリートを観覧する。絵に描きたい気分だった。描けないけど。
「それとも、身体が重くて仕方ない。とか」
「……うん、確かに肩は凝るけど、特に目立った影響はないと思う。身体は重いし、肩に何か圧し掛かってる感触はあるし、膝は軋むし、何だか異常に汗かくけど」
「まぁ、無理は禁物だからね。途中で倒れでもしたら、私一人じゃ背負っていけないから」
「そこは背負ってよ」
「無理だー」
気楽に笑うその声も、無骨なだけの牙城によく反響する。都会にも自然にも取り残されたビルの中に、たった二人しか存在していないことを思い知る。
疲弊した身体を奮い起こして、齷齪と階段を上る。愚痴り始めたらきりがないから、後は無言で足を動かす。蓮子の口数も減り、それでも軽快に先行するのだから大したものだ。果たして、思い込みだけであれほどの体力が湧いてくるのか。だとしたら、人の力というのも侮れない。
そうこうしているうちに、五階に到着する。屋上へ向かうには、階段と反対側にある非常口から外へ出るしかないようだ。既に両脚は棒となっており、明日明後日の筋肉痛は確実視されている。一気に体重が二倍強ほど増加すれば、下半身に掛かる負担たるや想像を絶するものとなるだろう。暗澹たる未来が、私の目の前に横たわっていた。
だが、ここまで来て絶望に浸っている訳にもいかない。こうしている間にも、蓮子は一人ですたすたと先に進んでいるからだ。あれはきっと、遠足の列から外れて迷子になるような人間に違いない。
足の踏み場もないくらいに、割れて飛び散ったガラスと剥がれ落ちた壁の材質が廊下を占領している。蓮子はそれらを丁寧に素早く回避しながら前進するが、私にそんな芸当をする体力は残されていないので、ごりごりがちゃがちゃと嫌な感触を確かめながら向こう岸にある扉を目指す。
ようやく、目的地の一歩手前に辿り着く。冬だというのに、この流れ出る脂汗は何たることか。
しんどい。
「……はぁ、は……」
「どう、行けそう?」
「努力はする……」
弱音を吐くのは明日でもいい。私は、蓮子より早く非常口の扉を押し開けた。
「――、――ぁ」
涼しい風に浸れたのは、その実一秒となかった。
澄み切った空気が、その実禍々しい大気に犯されていると理解したのは、蓮子に肩を触られた時だった。空の色も森の緑も変わらない、それなのに、時折世界が紫色の天球に覆われている錯覚を抱く。あるいは、既視感かもしれない。
結界の隙間、紫に彩られていた、こちらとあちらの境界線を。
私は、思い浮かべずにはいられなかった。
「メリー。目的地はこの上よ」
分かってる、という意味を込めて、神妙に頷く。屋上に続く梯子は、非常階段のすぐ隣にあった。錆び付いて酷く汚れている梯子を触るのに躊躇していると、横合いからゴム手袋が差し出される。全く、用意周到なことだ。
後は、上り切るだけ。屋上までの距離はそう長くなかったから、軽く貧血を起こすだけで済んだ。
「お疲れー」
「……はぁ、はぁ、ぅ……うん」
憑かれていないことを差し引いても、蓮子の体力は底が知れない。私にできることは、身体を休めて次の段階に移る体力を補充すること以外にないと知っていても、やっぱり何か歯痒いものが身体中を巡っていく。冒険者の資格を持っているのは、何も蓮子だけではないのだ。
床に蹲って休憩するのにも飽きた頃、私はようやく廃ビルの一番高い場所に立った。
――どうも、私は世界から拒絶されているらしい。
そう、一瞬でも思ってしまった自分を恥じる。
貧血は収まったはずなのに、圧縮された血液が頚動脈の辺りで詰まっているかのよう。くらくらして、ぐらぐらする。
「……くるわね。ここ」
「うん。メリーの見る目が確かなら、ここは結界の基点よ。理屈を知らない人間でも、ここに足を踏み入れるだけで、なんとなく死にたくなる」
蓮子はこめかみに指を突き立てながら、しかめた顔の筋肉を解す作業に入っている。彼女でも、否応なしに終わりを空想させられたのか。あまり意味のない同朋意識が芽生え、やはり無意味だと切って捨てる。二人で死んだら、只の心中になってしまう。
……いや、駄目だ。憧れてはいけない。
不謹慎な妄想を振り切って、屋上の概観を確認する。
貯水タンクはなく、フェンスも私の身長と同じくらい。中には外側に倒されたものや網目が完全に破られたものもあり、飛び降りを防止するどころか助長しかねない状況になっている。建設直後は、まさかこんな辺境の地にあるビルが自殺の名所になるとは夢にも思わず、単に事故を防ぐための機能でしかなかったのだろうけど。
人の住まない建物は傷みやすいというが、だとしても損傷が激しすぎる。ぼろぼろに風化したコンクリートのカスを蹴飛ばしながら、これも負の結界が成せる業なのかと認めてしまいそうになる。
壊れていない緑のフェンスから、遠巻きに下界を見下ろしてみた。やはり、自殺の名所として不名誉に名高いこともあって、高確率で死に至りそうな角度である。自分でも驚く量の唾を飲み込む。
「うぁ……。高い……」
「ん? どれどれ」
蓮子も私の隣から地面を睨み、うわぁ、と決まりきった台詞を口にした。
その後、彼女は腕を組みながら屋上を散策し、最後には網目が完全に破られたフェンスの前に立って、私の目を見ないままに話し始める。
風が冷たかった。コートの襟を正す。
「正直に言うと」
呟いて、私の後ろを見る。振り返っても無駄だと思ったのは、蓮子に取り憑いている影は見えないはずで、今の私にもまた見えないことが分かっていたからだ。いや、もしかしたらこの毒気にあてられて、朧気ながらに死霊の影が浮かび上がっている可能性も否定できないのだけど。
私の首は蓮子を向いたまま、一度すらも動かない。
「メリー。ここから飛び降りれば、あなたのその影は祓える」
真剣なようで、どこか穏やかな瞳が胸を突く。
そんな、これから天に召されるような顔をしなくてもいいのに。
「……訊いていい?」
「どうぞどうぞ」
許可を頂いたので、差し当たっては胸に浮かんだ疑問を口に出す。
「なんで?」
私たちの立っている場所は屋上ギリギリに設置されたフェンスであり、ここに蔓延している怨念にあてられれば、有無を言う間もなく地面に墜落してしまう。それでも、私たちは揺るがない。ちゃんと地に足を付けて立っている。
口を開く前に若干の言い淀みはあったものの、蓮子はすぐに答えてくれた。
「んー。その前に言っておくけど、もしメリーが飛び降りようとしたら、私はどんな手を使っても絶対に止めるから」
「いや、あんた矛盾してるからね」
飛び降りたい訳ではないが、破綻している理論を鵜呑みにする気にはなれない。
「仮説は仮説よ、それで祓えなかったら飛び降り損でしょ? まぁ、貴重な経験ではあると思うけど」
ぽかん、と惚けたように口を半開きにする私をよそに、蓮子は私をここに連れてきた意図を語り出す。
「それを踏まえて。あくまで憶測でしかないんだけど、メリーに憑いている人は、ここから自殺を図った可能性がある」
やや傾いたフェンスに足を掛け、駐車場の煤けたアスファルトを見下ろしながら告げる。
衝撃的な告白も、どうでもないことのように言えば他愛もない井戸端会議のネタと化してしまう。奇妙なものだ。でもそれは、蓮子があえてそうしているのだと知っている。
「この辺りで自殺の名所って言ったら、ここらへんしか思い付かないし。メリーの身体が急激に重くなったことからしても、あながち的外れじゃない気もするのよ」
「でも……」
「でも、順序が逆な気もするのよね……」
「順序?」
首を傾げたのは、二人とも同じだった。
蓮子はたまによく分からないことを言う。思考が暴走する、とは蓮子の弁だが、私にはその行動も本人の意思から逸脱したもののように思えてならない。というかちゃんと制御してほしい。
「あぁ、こっちの話。何はともあれ、あの子とメリーの面識がないと、どうしても噛み合わないのよ。だから、メリーはここに来たことないかなぁ、て思ったんだけど……。やっぱりない?」
かぶりを振る。来るも何も、私はここにビルがあることも、自殺の名所だということも知らなかった。蓮子の仮説をぶち壊すのは忍びないけれど、虚言や誇張は推理における最大のネックになる。中にはそれを見破るのが楽しいという人もいるかもしれないが、切羽詰った現状では余計な闇はない方が好ましい。
「……んー。それじゃあ、やっぱりそういうことなのかな――――ぁ」
彼女の舌がよく回り始めたところで、蓮子の視線が私から逸れる。その先には、私たちが上ってきた梯子があって。
「おいそこのお前らあ! こんなところで何してるんだ!」
それと全く同じ経路を辿って、警備員と思しき男性が血気盛んに怒鳴り散らしていた。
耳を塞いだのは、私も蓮子も同じだった。回避できることは回避するに限る。でも、最も回避すべき事態こそ対処できない。難しいものだ、と蓮子に目配せする。
結構若い警備員さんは、まず私の姿を見、次に傍目には危なっかしい位置にいる蓮子を見付け、血相を変えて止めに入ろうとする。その前に、蓮子はそそくさと屋上の真ん中辺りに移動して、要らぬ詮索を受けないように振る舞う。
私も、こそこそと場所を移動する。が、このまま撤退するのも何なので、フェンス伝いに動くようにはしていた。
「全く……あんたら、こんなところで何してるんだ。関係者しか入れないようなとこなのに、全く管理人の野郎は何をやっとるんだか……」
はああ、と人目を憚ることもなく大きな溜息をひとつ。
「全くですねえ」
「……あんたは関係ないだろう。しかも、勝手に侵入して開き直ってるんじゃないよ。全く、反省の色が見られないな。ちょっと部屋まで――」
「ああ凄く反省してます! だから、あのすぐに帰りますんで! すみませんすみません!」
蓮子が余計なことを言ったせいで、突如として旗色が悪くなる。ここで御用になる訳にはいかないから、必死になって頭を下げ続ける。一方、蓮子はと言えば。
「えー。メリー、妥協することないって」
反省する素振りすら見せていなかった。警備員さんの眉も引きつる。
「ちょっと蓮子ぉー!」
「まぁ、いいから見てなさい」
こほん、と咳払いをひとつ。
不思議なもので、さっきから絶え間なく吹いていた風も、鳥の鳴き声も獣の遠吠えも、遠巻きに響く猟銃の音も、ものの一秒で全て収まってしまった。
私には分かる。
ここからは、蓮子の時間だ。
「あの、警備員さん」
「……なんだ、今更反省してると言っても聞かんぞ。うるさいし、どこの悪ガキかもわからんからちゃんと家に電話してだな」
「いえ、そうではなくて。確かに、反省はしています。ですが、私たちの話も聞いてもらえませんか」
「……話?」
興味を惹かれたのか、警備員さんの表情がいくばくか和らいだ。完全に警戒が解けた訳ではないにしろ、突破口が見えたことは大きな収穫である。
「はい。先日、こちらで大きな事件があったと思います。私たちは、その真相を知るためにやってきたんです」
「……またあの話か。そういうのは、警察かどっかに聞いてくれ」
溜息混じりに首を振り、壊れて意味を果たさなくなったフェンスを睨み付ける。
「全く、本当にどうなってるんだか……。命を粗末にするものじゃないのになあ、くそ……」
苦虫を噛み潰すように呟いて、帽子の中に手を突っ込んで髪を掻き回す。
それがこの人の癖なんだなと気付いた時に、見上げた空が紫に染まっている錯覚を得た。
結界のせいで、視界が揺らぐ。がしん、とフェンスに背を預けても、幸いなことに二人に気付かれはしなかった。
「だからもう帰れ。ここにいると、あいつみたいになる。あれ以来、空気が悪いんだ……。全く、勘弁してほしいな。仕事に差し障る」
「ここに就いて、長いんですか」
「あんたに言っても仕方ないだろう。……だが、短くはないよ。ここの人には拾ってくれた恩もあるから、偉いことは言えないが」
鬱陶しそうに振る舞いながら、それでも多くを語ってしまうのはこの人の性格だろう。核心は突けないが、それ以外の情報ならばいくらでも引き出せそうな気がする。
ただ、自殺に関する事実関係を抽出するのは、いくら蓮子でも難しいことのように思えた。死が絡むと、人の口は自然と重くなる。それは、見も知らぬ他人であっても同じことだ。
だが、蓮子は言った。目を細め、見るものの心と身体に訴えかけるように。
「私は、あの事件の全てを知っている訳ではありません」
「……プライバシーとかあるから、仕方ないだろう。なんだ、友達なのか」
「クラスメイトでした。いつも何か悩んでいるみたいで、でも、何もできなかったんです」
「だからといって、話せるわけじゃない。帰りなさい、何度も言ってるがここは危険なんだ。さあ」
「……分かりました」
間の多い会話の果てに、蓮子が辛く顔を歪めながら妥協する。
情報の量、その質が適切なのかどうかは、私には判別できない。十分に足りているようで、決定的な部分だけがぽっかりと抜け落ちているような。
俯いていた蓮子の顔が上がり、少し涙ぐみ、唇を噛み締めながらも凛々しく告げる。
「でも、もう少し調べさせてください。まだ何か、見落としていることがあるかもしれないんです」
目薬は、蓮子のポケットに収まっているはずだ。
でも、あれが偽りの涙であるようには見えない。それは、警備員さんも同じだと思った。
彼は一旦蓮子から目を逸らし、気まずそうに屋上を見渡した。それから、お決まりの溜息を吐いて。
「もうじき、陽も暮れる。親御さんを心配させるんじゃないぞ」
「分かりました」
力強く首肯する蓮子の姿を見、返す言葉を失って口を噤む。結局、最後に漏れた言葉も同じ。
「……はぁ、全く……」
その言葉が容認を意味するのだと気付いたのは、警備員さんが帽子の中に手を突っ込み、苛立たしげに靴を鳴らして屋上を去ってからだった。かつん、かつんと梯子を降りる音が響く。
助かった、と気付いた途端、情けない溜息がこぼれる。
「はぁぁ……。本当、危なかったわね、蓮子……。て、蓮子?」
「……ん?」
何回か呼び掛けてようやく振り向いた蓮子の頬には、拭い切れずに流れている涙があった。それでいて、悲しむでも悼むでもなく、全くいつも通りの表情をしているものだから、困る。
ひゅおん、と屋上に吹き込む風が、私たちの帽子を飛ばそうとする。蓮子は帽子のつばを押さえる振りをしながら、密かに両方のまぶたを擦っていた。彼女が何に涙しているのか、今の私では知りようがない。でもきっと、そのうち話してくれるだろう。そんな根拠のない確信が、私の中にはある。
うん、うん、と何度も頷き、首の骨を左右にこきこき鳴らす蓮子。
「……よし。光明は差したかな」
「そうなの?」
「なんとかね。とは言っても、あの子がここから自殺を図った、てことしか分からなかったんだけど」
それが分かっただけでも僥倖だと思うのだけど、蓮子はその先も見込んでいたらしい。具体的には、私に憑いているものの祓い方などを。
フェンスに預けた背中が、高所の風を受けて小刻みに震えている。後ろ手に網目を握り締めても、この不安定な城砦から墜落する幻想だけは、どうしても拭い去れなかった。
「んー……これは、どうしたもんか。メリーは、なにか打開策ある?」
「そう……ね。身体は、だいぶ軽くなった気がするんだけど」
「それじゃあ、さ。これで確認してみて」
蓮子が背中から取り出したのは、それ自体に守護霊が宿っていそうな年代者の手鏡だった。ほい、と差し出してくる手を突っぱねることもできず、フェンスから離れて仕方なくそれを受け取る。
なんとなく、こっちが北東だろうなと思う方角に鏡を向け、内側のガラスに自身の面差しを写す。
じ、と見つめて三秒ほど経って。
「……」
ふ、と過ぎるひとつの首。
「見えた?」
「いきなり来ないでよ! びっくりするじゃない!」
「うわ、なんだか私に似てるね」
「……本気でも冗談でもいいから、さっさと撤退する」
「はいはい」
取り付くしまもないことを知り、蓮子は最後に私の肩を叩く。
「お次はメリーの番。でも、無理と油断は禁物よ。いいわね?」
子どもを諭すように言い残して、鏡の枠から姿を消す。
いつもと変わらない気遣いが、やけに胸を締め付ける。いけない、この空気に魅せられてはいけないのだと言い聞かせていても、感傷的な雰囲気から抜け出すことはできなかった。
気を引き締める。風のわななきには耳を塞いで、雲間から漏れる光は鏡に反射するもうひとつの世界に閉じ込める。
見ることで、活路は見出せるのか。答えは見えない。そこに霊が映っても、それだけで何か具体的な解決策を講じることは難しい。
だとしても。
「……見る。見える。私には見える」
単純で、心底偽りのない暗示を掛ける。思い込みに敵う魔法はない。こんな簡単な自己改変でも、自分が秘めている全ての力を惜しみなく発揮できたりもするのだから、気休めだろうと馬鹿にできない。
結界の境目を見れることは、結界に干渉できる可能性が含まれているということだ。
一回は成功した。あれは単にあるべき影を睨み付けただけだったから、似たような方法で成功するとは限らない。失敗する確率の方が高いだろう。
だが、それがどうした。
見る。
たったそれしかできないのなら、それで全てを調伏してみせよう。マエリベリー・ハーンに与えられた二つの眼は、見えざるものを見、在らざるものを暴く兵装なのだから。
「――……お願い」
することと言えば、鏡を睨み付けることくらい。低い空に掲げた腕は、そろそろ軋みを上げ始める。こんなことなら、蓮子の提案通り駅前のジムに週一でも通っておくべきだった。
「――痛」
じり、と瞳の奥から妙な音が発せられる。焼け焦げ、爛れ落ちてしまいかねない不快な音を切り捨てながら、ただ、じぃと鏡の中に視線を埋没させる。
比喩でも妄想でもなく、確かな紫の光が満ちている。結界を越え、境目を窺う時に見える忌まわしい色が、私の限界と向こう側の極点に近いことを教えてくれる。もうすぐ、もうすぐだ。じり、ばち、と喚き散らしているお転婆な眼球を、空いた左手がまぶた越しに押さえつける。
倒れるのが先か、見えるのが先か。壮絶なせめぎ合いは、おそらく蓮子には伝わっていない。全て私の内側で発生している現象だから仕方ないけれど、せめてこの辛苦だけは、唇を引き結んだ形相を見て察してほしい。
じり、ばち、ぎり、ぶち、がり、ぎり、ぎり。
あんまりうるさいから、左手で左の耳を塞ごうかとさえ思った。
そうして。
「――……い、たぁ……」
一分か、十分か。一時間ということはないと思うけど、三十分と言われれば納得したかもしれない。
曖昧な時間の感覚を忘れ去ってしまうくらい確かな虚像が、はっきりと、私の後ろで立ち竦んでいた。
登場人物は二人。
屋上にある影は、かなり細身の女の子。それでも、彼女が私に憑いていた霊だと理解する。私の後ろに立っている影は、振り向いても確認できない。鏡の向こうは全て虚像だ、実像の私からは鏡を通さなければ見ることもできない。
鏡の向こうは紫がかっていて、褪せて琥珀色に滲んだ写真を思わせる。音も気配もなく、ただ視覚だけに訴えかけてくる衝動のような劇画を、私は息を殺して見守っていた。
女の子が動く通りに、鏡を誘導する。ふらふら、ゆらゆらと頼りなく歩く女の子の足は、想像していたように、絶縁体が剥げて鉄本来の冷たい色を晒したフェンスへと向かっていた。
もうひとつの影は、梯子を上って現れた。見覚えのある制服は、先程の警備員と同じものだと気付く。俯いた女の子を認めると、苛立たしげに帽子の中に手を突っ込む。
――。
彼が走り出す前に、女の子は破けたフェンスを潜り抜け、わずかに残された足場の上に陶然と立ち尽くす。その目にどんなものが映っているのか、私にも、彼にも分からなかったに違いない。
――。
叫んだのは彼の方で、彼女は初めて彼の存在に気付く。再び駆け出そうとする彼を制止するように、短く、何ごとかを呟いた。
――。
何度か言葉に詰まりながらも、丁寧に、ゆっくりと彼女は話し続ける。彼はそれを黙って聞き、時折顔を歪めながら、それでも彼女の訴えを遮ることはなかった。そのやり取りは長くても五分程度だったのだけど、彼らには、もっと冗長に感じられたのだろうと思う。
音がなくても、過去の風は彼らの髪と服をはためかせる。きっと、トンビの鳴き声も聞こえただろうし、運がよければ川のせせらぎなんてものも耳に届いたかもしれない。
それとも、張り裂けてしまうような心臓の鼓動が、世界からの訴えを遮っていたのか。
――――。
長い台詞が終わり、女の子が空を仰いだ。
墜落死を希望するものは、すべからく地獄に落ちなければならない。
そんな、聞いたこともない閻魔の箴言が、耳朶を貫いた。
彼が手を伸ばし、がむしゃらに床を蹴るのと時を同じくして、女の子の靴が悲劇の舞台を蹴り、一瞬の浮遊を経て、しかる後に、墜落した。
――――――――。
ひときわ大きく響いた絶叫は、私の世界から響きわたった、気楽なトンビの鳴き声に掻き消された。
取り落としそうになった手鏡を、もう片方の手で支える。
あの光景が、網膜の裏側に焼き付いていた。こっちの空は綺麗に澄んでいて、空気こそ濁っているけれど呼吸するには申し分ない。ぎりぎりばちばち軋みを上げていた眼球も、あっちの世界が見えなくなってからは、だいぶ落ち着いている。
ひとつ、ふたつと深呼吸をした後。
蓮子が、心配そうに私を眺めていた。
「見えた?」
うん、と首肯し、手鏡を返却する。蓮子は何度か鏡面を覗き込んでいたが、彼女の期待するものは見えなかったようだ。残念そうに、溜息を吐く。
――それじゃあ、うん。仕方ないけど。
覚悟を決めよう。
本当は、実害がなければ取り憑かれたままでもいいのかもしれない。無理に祓おうとすれば、それだけ痛い目を見る確率も増える。代償なしに何かを得ることはできないという。けれど、代償を払ったところで何かを得られるとも限らない。難しいものだ。
実を言うと、ただ指を咥えて事の進展を見守っている立場にいる自分が、どうしても気に入らなかったのだ。たったそれだけの、子どもじみた英雄願望なのだ。
だから。
今の私に必要なのは、さしずめ、愛と勇気とひとかけらの希望と言ったところか。
――うん。でも、悪くない。
「蓮子ー」
「はいはい」
「ちょっとさ、梯子の辺りに立ってみてくれない?」
「いいわよー」
何の疑いもなく、スカートを翻しながら梯子がある地点まで走っていく。
その背中がやけに遠く感じられてしまうのは、私に後ろ暗いものがあるせいだ。でも、胸の片隅に燻っているざわつきも、しばらくは忘れよう。
私の足取りは、蓮子と同じようで、実際は少し異なる。
梯子の袂に佇んでいる蓮子をよそに、私はあの女の子が歩いた道程をなぞる。蓮子は気付かない。見えていなかった蓮子には、知る由もない。ならば、これは私が負う役目だ。
「……メリー?」
蓮子の声に、かすかな怯えが含まれていた。
俯きながら、破れたフェンスの向こう側を目指す。補修されずに残っている自殺現場は、顔を上げるまでもなく鮮烈に、禍々しい光を放っていた。それは誘蛾灯さながら、安直な死の誘惑に溺れてしまう人間を、くすくすと嘲笑ってでもいるかのように燃え盛っていた。
「……ちょっと、メリー!」
今昔の絶叫が重なり合う。
合図はそれ。もう後戻りはきかないから、やるだけやって全てを運に任せよう。
帽子を剥ぎ取り、いざ足を踏み込もうとする蓮子に、言うべきことはひとつ。
「来ないで」
蓮子が走り出すその前に、私は原型を留めていないフェンスの外側に立ち、下を見る前に上を見、蓮子を見る前に下を見た。
一歩間違えれば、否応なしに転落する。吹き込む風も、ひときわ強さを増した気がする。
足場はわずかに、靴のサイズとぴったり合っていた。掴めるだけの外枠が、フェンスに残されていてよかった。本当に何にも遮られていなかったら、私は蓮子に言葉を残す余裕も与えられず、かつての志願者と同じ末路を辿っただろう。
「ねえ、冗談でしょう……?」
搾り出された声は、普段の蓮子からは及びも付かないほど、か細く小刻みに震えていた。
彼女も分かっている。これ以上近付けば、私がここから飛び降りてしまうことを。知識でも経験でもなく、この廃棄されたビル、そして屋上を取り巻く空気がそう告げていた。
――ねぇ。死ぬのかな、私。
私であって、私ではない誰かが言う。それは、ここから飛び降りて死に至った人たちの思いや、私も、蓮子も必ず持っている、生と死に対する渇望に他ならない。創造と破壊が人間の本能と言い切ったのは、一体どこの啓蒙家だったか。
人間が死んだ。その場所に立って、呼吸をしている。あるいは、回収されずに残ってしまった彼らの魂の残骸を、私たちは知らずに吸っているのかもしれない。
だから、こんな憂鬱に魅せられているのだろうか。
憧れてしまう。
くだらない思考や明日の展望、劣等感、人間関係、大嫌いな自分、それら全てをなかったことにできる。ここから飛び降りて、叩き付けられるように天へ昇るのだ。終われる。短かろうが長かろうが、生きているだけ人は苦しむ。
だったら、終わってしまっても。
それはそれで、きりがいいんじゃないか。
よくやったよ、私は。こんな身体とこんな性格で、よくぞここまで生きてこれたもんだ。もういいだろう。人間はたくさんいる。側にいた誰かが悲しんだって、自分が楽になるためなら関係ないし。それに、死んだ後なら覚えちゃいない。まして後ろがつかえているのだから、私だけは早く死んでやっても。
生まれるときが選べないなら、死ぬときくらいは選ばせてくれ。
――さぁ、どうだい。
下を見る。
地獄の門はまだ見えない。
どうする。
さぁ。
さぁ。
さぁ――――!
「……さぁ、じゃないっての……!」
音がするくらい、舌を噛む。
ちょうど、ビルに入る直前に噛んだのと同じ患部に、楔のような犬歯を捻じ込んでやる。痛い、なんてものじゃない。不埒な誘惑を断ち切る覚悟で打ち込んだから、下手をすると貫通しているんじゃないかと思うくらい、神経に沁みる。
「……ちょっと、本当にどうしたの? メリー……」
「……い、つぅ……。くぅ……うん、だいじょうぶ、大丈夫だから……ね?」
「そうは見えないんだけど……」
蓮子は不安で、私は激痛で泣きそうだ。痛みの残る口を押さえていると、いつの間にかフェンスの枠から手を離していることに気付く。
風が流れて、私の髪を丁寧に梳いた。
「私は、これから飛び降りる」
ようやく、蓮子に宣言する。
「だから、それは本気にしなくていいって……!」
「最終的には、私が決めることだから」
「でも……だけど、やっぱり」
言い淀み、堪えきれずに縋り付こうとする蓮子は、十分前の彼女とは比べ物にならないくらい痛々しい。
私はこの足をしっかと地面に根付かせ、首を振っても目をつぶっても、名前も知らない誰かの意志で飛び込んだりはしない。そういうものは、舌を噛んで全て打ち消した。
それでもなお、外側から語りかけ内側に染み込ませんとする呪いを感じる。
さしあたっては、あの女の子が飛び降りたときと同じ心情を、私に投影しようとする。
「追体験、て言うのかな。こういうの」
蓮子は私の話を遮らない。
あの彼と女の子に似て、うら寂しく、物悲しい光景だった。
――生きるのが嫌だって、思ったことない?
ない、とは言えない。けれど、生きている喜びを感じたこともある。
「ロールプレイング、でもいいかもしれない。あの子は誤った。でも、私は失敗しない。必ず生き残ってやるんだから」
そんな保証はどこにもない、と蓮子の尖った瞳が告げていた。
こんな時、カラスやトンビの鳴き声がほしい。馬鹿にされているのでもいいから、この空気をほぐすことができる鶴の一声を。
でも、それは難しい注文だ。
――死んでも、いいじゃない。
黙れ。
「私が保証する」
どこの誰かは知らないけれど、あなたの言うことも尤もだ。
生まれるときを選べないなら、死ぬときくらいは私が選ぶ。
だから、愚痴ることしかできない外野は、さっさと彼の世に下るがいい。
私は生きる。
「マエリベリー・ハーンは、私が諦めない限り絶対に死ぬことはない。これは、私と蓮子の間に交わされた、嘘偽りのない盟約です」
「……」
ほう、と吐息を漏らした蓮子は、つばがもげるくらい強く掴んでいた帽子を、再び被りなおす。
――、――。
あなたたちは、そこで黙って見ているといい。
大空を仰いでも、飛行機雲が腰を振っている情景しかお目にかかれない。でも、綺麗だと思う。この世界がどれほど穢れていても、ひとかけらの輝きがあることを知っていれば、そこに雫をたらし、波紋をきたすことはできる。
それからは、私たち次第だ。
――本当に?
「本当に……信じるわよ。私は」
胸に手を合わせ、乙女のように目を輝かせる蓮子。いつもこうだったら、どんなにか救われるだろう。けれど、それはそれで物足りなく感じてしまうかもしれない。やっぱり、蓮子は蓮子で元気にはしゃいでいてほしい。
それが、今の私の願いだ。
「うん。安心して、見守っていて」
凛々しく笑う。今だけは、弱音を吐いてはいけない。これがロールプレイングならば、私は最後まで勇者で居続けなければならない。
蓮子から視線を外し、着地するポイントを見計らう。
ここから見ても、あからさまなコンクリートの塊だ。下手をしようがするまいが、あんなものにぶつかったら怪我どころではすまない。でも、生きると決めた。その誓いを忘れない。嘘吐きと、裏切り者と罵倒されるのは、仕方がなかったという言い訳だけでは少々耐え難い。
「……はぁ、ふぅ……」
深呼吸を二度繰り返し、瞳を凝らし、声を殺す。
蹴るように飛び立ち、浮くように落ちる。墜落による死を希望する者がすべからく地獄に導かれるのなら、そこに活路を見出す者にはいかなる罰が与えられるのか。答えはもうすぐ、エレベーターのような無重力感は一秒にも満たず、しかる後に、ジェットコースターのような風音がわなないた。
最後、引き結んだ口元から、一滴の血が垂れる。
さぁ。
――――飛べぇ――――!
あぁ。
天にも昇るような、素敵な空だった。
綺麗な人がいる、私とは全く違う髪の色と「帰れよ」嫌だ。どうしてこんなこと「やめて、私は」いろんな人を迷惑を掛け「悩みがあるんだったら、誰でもいいからちゃんと」「無理だって言った」んでこんなことをしてるんだろ「帰れって言った」からない。分からない。
綺麗な人がいた、私もあんなふうに「殴られないと分からな」「お前は、何をしてるのか分か」らない。痛いから、お願いだからやめてほしい。でも、なんで「こんなことになっ」てしまったのだろう。教えてほしい。贅沢は言わないから、せめて、せめて。
綺麗な人だ。
でも、私は醜い。
空はとても綺麗で、空に昇ったら、私もあんなふうに「初めから、大嫌いだったんだ」のかな。もういいかな。いいのかな。うん、もう「警察に行」いいんだよ。ごめんなさい。ごめ「気味悪いんだよ」なさい。ごめんなさい。
ああ、でも。
昨日も、今日も。たぶん、明日も、明後日も。
綺麗だな。
綺麗だなぁ……。
……綺麗な、とても綺麗な空だった。
少し紫がかって見えるのは、空の端に太陽が落ちているせいだろう。橙や紅の世界にはよく出会えるけれど、紫の夕暮れというのは珍しい。此度の冒険の証として、胸に刻み込んでおこう。
はぁ、と吐いた息は、天に昇るでもなく空気に溶ける。
途絶えていた意識が回復して数秒、慌しい足音が部屋の方から聞こえてきた。
「メリー……!」
空っぽのオフィスに、蓮子の叫びが高らかに響く。割れたガラスと剥げた壁紙の地雷群を瞬く間に駆け抜けて、蓮子は大の字に寝転んでいる私に縋り付いた。
ちょっと、強い。
結構、痛い。
「蓮子、痛い。痛い。身体とか、あと、具体的には、身体とか、あと身体」
「こっちは心臓が止まるかと思ったわよ! 全く、どんだけ心配してるかも知らないで、このメリーはもう……!」
「蓮子、苦しい。うん、首とか、頚動脈とかね、絞めるとよくないと思うの、よ。うん、う……」
かなり本気で揺さぶっていることから、蓮子の不安が如何に大きなものだったかが分かる。
私には確信があったのだけど、蓮子が立っている場所からは分からなかったかもしれない。詳しく説明することを避けた理由は、これが一種のロールプレイングである以上、被験者と目撃者の心理がわずかでも重なっていなければならない。これが出来レースであることが知れれば、蓮子は元より、私もまた手を抜いていたかもしれないのだ。
蓮子は、私に代わって溜息を吐いてくれる。ありがたい、正直、呼吸をするのも辛くなってきたところだ。
「どうして忘れてたのかしら……。そうよね、バルコニーがあったんだ」
彼女が見渡したスペースは、私一人が寝転んでいてもまだ余りある面積を誇っている。
これがタネ。
私は、屋上から一階に落ちたのではなく、屋上から五階のバルコニーに降りただけ。それでも2m強の高度は伊達じゃない。歩けば三、四歩の距離でしかないものが、立て掛けるだけで恐怖を誘う死地になり得る。降りる位置、蹴り出す力、着地の姿勢など、それらの条件が全て揃わなければ、脚を挫くどころでは済まされない。
結局、ジャンプした直後に意識が唐突に途切れて、次に目覚めたときには、寂れたコンクリの上に倒れていた。全く、情けのない話だと思う。稀代の英雄が聞いて呆れる。
でも、女の子はここに降りることが叶わなかった。それ以前に、死ぬつもりならバルコニーのある位置からは飛び降りないだろう。あるいは、事件が起こってからバルコニーを作ったのかもしれない。手擦りや床を眺めても、この足場が新しいかどうかは分からなかったけれど。
「今更だけど……。黙ってて、ごめんね」
「絶対に許さない。……て、本当は言いたいところなんだけど」
適度に潤んだ瞳を拭いながら、呆れ混じりに言う。たまには、蓮子も私がいつも感じている気分を味わってもらいたい。
肩と背中を支えられ、力なく身を委ねている私は、よくある映画のクライマックスを演じているようだった。もしかしたら、蓮子の涙さえも演技の一環ではないのかと、不謹慎なことを考えもする。
それも、全てが終わった故の安堵からくるものならば、それ以上の楽観はないのだけど。
蓮子は私の目を見ながら、嬉しそうに言う。
「でも、無事だったからなんでもいいわ」
「そう……。それは、よかった」
敵を欺くには味方からというが、そう簡単に騙せるような蓮子ではないし、そもそも騙すことに抵抗があった。打ち合わせなしのぶっつけ本番でも、蓮子が私を信じてくれたことが、嬉しくて仕方ない。
蓮子は、静かな歓喜に浸る私を変な目で見てはいたが。
「どう? 身体の調子は」
ぎしぎしと軋む手足を動かして、肩をほぐしてみる。正直、屋上にいたときと今の違いは分からない。けれど、私にもし霊が憑いていて、その人が私のことを見ていたのだとしたら、愚直な願いかもしれないけれど、どうか未練を断ち切ってほしいと。
飛び降り損や、同情とか憐憫などではなく、ただ単純に、救われてほしいと願う。
たった一人の無力な人間にできることは、馬鹿みたいに、生きていく姿勢を見せることくらいしかないのだけど。
それはそれで、無駄なことじゃないと思うのだ。
「そっか。それじゃあ、やることはやったわけだし。さくっと帰りましょうか」
うん、と頷きを返し、見つめ合ったきり幾数秒。
先程から、身体はぎしぎしと軋んでいるのである。
骨折には至っていないだろうけど、捻挫や挫傷は覚悟すべきだろう。蓮子もまた、私が味わっているであろう激痛に顔をしかめる。
「……メリー、立てる?」
「無理」
即座に否定する。
決死の墜落飛行は実現できても、まだまだ先のある身体を酷使させることはできない。ただでさえ明後日明々後日の筋肉痛は確定的なのだから、これ以上身体的なストレスを加えることは健康によろしくない。そんなことは分かりきっている。
なので。
「蓮子。折り入ってお願いがあります」
「なーにー」
「背負って」
「私一人じゃ、背負って行けないから……」
「それさっきも言った」
えー、と口を尖らせる蓮子の頬を抓りながら、私の肩の荷も随分と軽くなったもんだなあ、と軽く郷愁の念に誘われてみたりした。
流石に、女一人を背負ったまま階段を下りるのは酷だということで、一階までは蓮子の肩を借りるに留まった。
砕けた扉をくぐり、複雑な思いを抱いたまま廃ビルを仰ぐ。
結界の基点からは遠ざかっているものの、効果範囲の内側に留まっている現在では、まだ重苦しい空気は拭い去れない。それでも、来訪した直後よりか、陰鬱な重圧は薄まったように思える。そう思いたい。
「それじゃ、蓮子よろしく」
身体に負担が掛からないよう、四つんばいのまま蓮子に催促する。
当の蓮子はこの期に及んでも及び腰なのか、腕を組んだ状態で眉をひそめている。
「さすがの私も、この背中に関取を背負う日が来るとは思わなかッ……!」
「一名様よろしくー」
何やら世迷言を吐き出しかけたから、口止めの意味も込めて蓮子の背中に思いきり抱きついた。
うぐぇ、と聞き捨てならない悲鳴をあげつつ、それでも何とか私をおんぶしてくれるから偉いものだ。私だったら、きっと一回は振り落としている。
「さぁ、出発ー」
柔らかくも頼りがいのある背中に顔を埋め、くぐもった声で懇願する。彼女は、あからさまに嘆息した後。
「はいはい、それでは参りますよ。メリーお嬢様」
「うむ。徐行運転でお願いね、爺や」
首の後ろから両腕を回し、蓮子の胸の前でぎゅっと組み合わせる。
うむ、と私に似た台詞を返し、軽快に靴を鳴らして歩き始める。
「でも、そこはせめて婆やにしてほしかったなあ……」
「文句言わないのー」
はいはい、と執事のように穏やかな台詞を返し、陽が落ちかけた家路を辿る。
二人だけの帰り道でも、話すべき題目はさして見当たらなかった。目新しい話題こそ、振り返ったならいくらでも拾い上げることはできただろうけど、今、それをネタにするのは躊躇われた。
こういうものは、一週間くらい経った後に思い出して、こんなこともあったねと小さく笑っていればいい。
そういうものだ、と思い始めた川縁の道。夕暮れ時の涼しい風が吹いて、蓮子が帽子を押さえたとき、不意に蘇ってくる違和感があった。
訊くべきか訊くまいか、悩んだのはほんの数秒だった。蓮子の足音が、まるで子守唄のような優しい音色に聞こえてしまったから、私の中にあった本来の緊張感が失せてしまったのかもしれない。
あれから、一時間も経っていないというのに。
私は問う。
「ねえ、蓮子」
「んー」
正面からやや左、広い川幅と細い清流に太陽が沈む。
紅々と焼け残る太陽に追い付こうとして、歩き続けてもきっと届かない。
「あの警備員さん、どうして私たちが屋上にいるって分かったんだろうね」
「そりゃ、建物の中から見れば、誰かが入ってきたってのは分かるでしょう」
「そもそも、なんで廃棄されたビルを警備してたのかしら。もう、取り壊されることが決まってたんだし」
やっぱり、浮浪者や家出少女がたむろすと問題なんだろうか。そう訊こうとしたら、蓮子は一度よいしょと私の太腿にあった手の位置を直した。一瞬、私の視界が上下にぶれる。
「ちょッ、蓮子……!」
「あの警備員さん、やっぱり気になって見回りしてたんだと思うよ」
私から、蓮子の表情は窺えない。声色から、どうにかして彼女の心境を推し量ろうとしたけれど、その目論見は蓮子の台詞で見事に頓挫した。
夕陽が綺麗で、その上を飛び去っていくカラスの群れがやけに睦ましく見えた。
見下ろした河川敷に、野球をして遊んでいる子どもたちがいる。もうそろそろ帰る時間だから、最後にボールをどこまで遠く投げられるか、という他愛のない競技に夢中だった。
何もかもが、美しく輝いて見えた。
「およそ一年前、あのビルで殺人事件があった。事務所に勤務していた男性を撃ち殺した警備員の男は、殺害後間もなく、自身のこめかみに銃口を押し当てて――自殺したそうよ」
私は、蓮子を抱いていた片方の腕を外し、身体を反らしながら後ろを振り返る。重い重い、と蓮子が苦しく唸り出すまで、もう米粒のようにしか見えない建物を眺めていた。
そろそろ人の目も増えてきたから、自主的に蓮子から降りることを決意した。ありがとうの意味を込めて肩に触れ、振り向いた首を正面に戻そうとする。
「死亡推定時刻は」
言われて、もう一度あの場所を顧みる。
蓮子は、陰り始めた空を仰いでいる。遠く、星が点々と輝いていた。
「五時、三十分――」
山の方から、どぉん、と地鳴りのような音が轟く。
カラスが一斉に飛び立ち、上空を大きく旋回していた。
前に向き直ると、解放された蓮子が両肩をほぐしている。肩をお揉みしましょうかと申し出ても、間に合ってますと素っ気なく断られた。間に合っているのなら、確かにしょうがない。
しょうがない。
帰ろっか、と蓮子が言い、帰ろう、と私が言った。
いつの間にか、太陽が大地の下に隠れていた。
家に帰ってすぐ、体重計に乗った。
その日は気持ちよく眠ることができた。
そんな些細なことが、涙しそうなくらい嬉しかった。
翌日、二日後、三日後と筋肉痛の魔の手に侵され続けた私の身体は、一週間後にしてようやく普通に歩行する自由を得た。その記念すべき日に、秘封倶楽部の部室兼喫茶店で蓮子と会えたらいいな、と思いながら馴染みの喫茶店に赴く。バスで。
浅い痛みはまだ私の身体を蝕んでいるが、私がしたことだから文句を言っても始まらない。蓮子には、今日大学に行くということを伝えてあるので、休憩時間になればここに来てくれるだろう。そう信じているが、私が相手を信じることと、相手が私を裏切ることとは何の関係もないのだと、前にテレビか何かで言っていた気がする。
お気に入りのテーブルに着き、全体重を背もたれに預ける。荘重なクラシックが耳に軽く、一人分の重みがやけに心地良い。誰かの重さを一身に背負うには、私はまだ幼い。せめて、その重荷を分かち合うことができれば、共に歩くこともできたのに。
彼女はただ憑くことしかできず、私のことを見ることしかしなかった。
彼女がいなくなったから、彼女が救われたとは限らない。あの方法が最善だったとは思えないし、下手をすれば強制的に祓ったという形になる。でも、最善でも最高でもなかったけれど、あれは私に相応しい解決策だったと思う。
いろいろと考え込んでしまうのは、蓮子だけでなく私にも言えることだ。そして、考えすぎるとおなかが空く。
「あの、メニューお願いします」
小さく手を挙げる。
「かしこまりましたー」
と、聞き慣れない声が返ってくる。新人さんだろうか。
まだ少し時間がかかるみたいなので、また思索にふける。
あの時、屋上で蓮子が言った「順序が逆」という言葉も、ようやく分かった気がする。
私はてっきり、殺人事件の後に彼女が自殺したと思っていたけれど、実際はその逆。彼女が自殺して、その後に殺人事件が起こった。更に言うなら、彼女が自殺したから、彼は人を撃った。そう考えれば、全ての辻褄が合ってしまう。しょうがないことだとしても、胸の内側をくすぐるものは消えてくれない。
でも、ひとつだけどうしても分からないことがある。
それは、私と女の子の接点だ。夢の中で、とも思ったが、あまりに現実味がない。可能性が零ではないだけに、その説を信じてしまうのも魅力的な案なのだが、それでも。
うんうんと唸っていると、ぱたぱたと忙しない足音が聞こえる。
「申し訳ありません、お待たせ致しました」
店員さんがやってくる。
メニューを持ってきた女の子は、私と同じくらいの年齢で、髪も長くとても綺麗だった。少しふっくらとしているものの、その表情は柔らかく、痩せぎすのままよりは健康そうに見えた。
女の子は私に気付かない。いつもやっていた通りの接客を、私にも同じように繰り返す。それでも、作り物の笑顔だとは思えなかった。
私の時間が、女の子によって奪い去られている間にも。
「ご注文は何になさいますか?」
「――――えーと、紅茶とミルフィーユを二個ずつ」
時間は、私が思っているよりもずっと早く動いている。
それを心の底から痛感しながら、なぜか2セットも頼んでしまった。自分でもよく分からない行動である。
「かしこまりました。紅茶とミルフィーユを2セットですね。それでは、少々お待ちくださいませ」
丁寧に元気よくお辞儀をして、小走りにテーブルを後にする。
その背中が、美しく輝いて見える。何度かまぶたを擦り、その度にあちらこちらのテーブルを身軽に駆け回る姿が映り、はあ、と意味の分からない吐息がこぼれた。
「ごめんメリー! 遅れるつもりで出たらやっぱり遅れちゃったわ!」
反省する素振りも見せず、呆けているのが馬鹿らしいと思わせてくれる蓮子の言い訳が、お昼前の怠惰な空気を振り払う。自分はさっさと向かいの椅子に腰掛け、勝手に店員を呼んでさっさと注文してしまう。応対したのは、さっきの女の子だった。蓮子は気にする素振りもなく、女の子も言葉に詰まる様子など微塵も見せない。
ここまで来ると、本当に全てが夢幻の類なんじゃないかと疑ってしまいそうだ。
女の子が去って、分かりやすく頭を抱えている私に蓮子は問い掛ける。
「どうしたの、また体重が増えた?」
どうしても馬鹿にしたいらしいので、こっちも真剣に切り返す。
「蓮子、正直に言いなさい。あの女の子」
「……笑ってたでしょ?」
先手を打ったつもりが、思いもよらない逆襲を受ける。蓮子は笑っていて、その向こう側で、女の子も笑っていた。愛想笑いでも、心から笑えたらそれは立派な笑顔だろう。そういうふうに笑える人は、過去はどうあれ、今が幸せである証拠だ。
なら、よかった。
「あの子、一年前からずっと休んでてさ。私はメリーと出会う前もずっと通ってたから、顔と名前くらいは知ってたのよ。もしかしたら、メリーも会ったことあるのかもね。でも、メリーが通い始めるようになってから、欠勤も増えてきて」
蓮子が、不意に窓の外を見る。無断駐車をしている乗用車が、颯爽と飛ばす軽自動車の排気ガスに塗り潰される。
「怪我そのものは、そんなに酷くなかったみたい。バルコニーに一回当たったから、その分だけ勢いが殺されたんでしょうね。でも、怪我が治っても塞ぎ込みっぱなしだった。本当に最近になって、ようやく外に出られるようになったんだって」
よかった、と小さく呟いて、背もたれに身体を委ねる。私はまだ、外の景色から目を離せない。
あのビルは、ここからでは影も形も見えない。来年には、空気と水と地面に溶けてなくなるだろう。勿論、あそこで起こったことはなくならないし、私たちにも、あの子にも深く沈み込んでいる記憶だ。
でも。
あの建物は、ただ死を映しただけの墓標ではなかった。
それが無性に嬉しかったというのは、ちょっと不謹慎に過ぎるだろうか。
「まぁ、なんでもかんでも細けりゃいいってもんじゃないわね。あの子も前はガリガリだったんだけど、うん、今は滅多なことじゃ倒れそうにない身体してるわ」
あの子が聞いたら突き飛ばされそうなことを平気で言って、蓮子はそこいらの店員に早くしてくださーいと催促する。呑気なもんだと唇の端で笑ってみたが、いきなり脈絡もなくテーブルに伏せる蓮子を見て表情が変わる。
「ど……どうしたのよ、蓮子」
「なんて、人にはよく言えるんだけどねえ……。ダメだわ、やっぱり。ちょっと増えたら、世界がぐだぐだに変わっていくー……」
あぁぁ、と儚げに手を伸ばし、天上の雲を掴もうとする。が、その前に嵌め殺しのガラスに阻まれ、ぐきりと生々しい破砕音を立てる。声を殺して煩悶する蓮子を見ていると、本当に飽きない。
「増えたって……どれくらい?」
「ざっと、二倍……」
「二倍!?」
どこかで聞いたような話だ。立ち上がりかけて、周りの目もあるからテーブルの裏に膝の皿を打ち付ける程度で我慢する。痛くない痛くない。
「うん……。そうなの、そうなのそうなのそうなの」
「多い多いから」
本格的にぐだぐだになってきた。このまま放置するのも面白そうだが、調子を合わせるのが大変だから早めに復帰してもらうとしよう。
「……で、肝心の振り幅は」
言い辛そうに口を開いたり閉じたりして、一分程度。
「25キロから、50キロ……」
とりあえず、世迷言を構築するその額に向けて、鋭く重い拳をお見舞いしてあげた。
ぐぉぉ、と頭を押さえて苦悶する蓮子に呆れていると、さっきの女の子がシルバートレイを持ってやってきた。何故かは知らないけど、やたらめったら馬鹿でかい。
「お待たせ致しました。紅茶とミルフィーユ、あわせて3セットお持ちしましたー」
1セット増えた。
そりゃ、イタリアのピザ職人かって突っ込みを入れたくなるような巨大なトレイも必要である。うん。
「……お客様?」
「て、なんで増えてるのよ!」
納得してる場合じゃない。蓮子も何やら不敵に笑っている始末で、なかなか収拾が付かなくなりそうな気配がぷんぷんと漂っている。今のうちに、やれやれ参ったなと心の中で肩を竦めておく。
「メリー……。さては、全部ひとりで食べるつもりね!」
「食べるか!」
「え、そのために痩せたんじゃなかったっけ?」
「だから最初から太ってないっての!」
「お客様、できればもう少しボリュームを落として頂けると……」
「ボリュームが多いのはそっちでしょうが!」
というかどこで1upしたんだ。
確かに2セット頼んでしまったのは私だけど、それにしても増やすこたないだろう。
それとも何か、太れと言いたいのか。痩せろと言ったり太れと言ったり、全く近頃の神様は我がままで困ったもんである。やれやれ。
「あ。折角だから、あなたも一緒に食べない?」
「あ……。でも、今は勤務中ですので」
「じゃ、勤務外ならいいのね。いいこと聞いたー」
はあ、と呆気に取られながらも、カップと皿を並べていく。
だとしても、それまで待っていたらお茶は冷めるしお菓子も傷む。と、横槍を入れるのも無粋だ。ここは静かに、紅茶とミルフィーユのカロリー侵攻を甘んじて受け入れよう。なに、私なら何とかできる。蓮子もそう保証してくれた。
ただ、私が相手を信じることと、相手が私を裏切ることに何の関係もないのだと、かなり前から知っている気がした。
……あぁ。本当に今更だけど、今日は。
天にも昇るような、綺麗な空――。
OS
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