燕尾

 

 

 

 鏡を覗き込んでみる。
 少女の頃は形に残らなかった目尻の皺が、微かにだけれど明確に刻まれている。鴉の足跡は決まって三本、笑い皺と思って心を慰めようとしても、時間は停止すれども逆行せず。
 不意に、溜息が十六夜咲夜の口から漏れた。
 彼女は今年、三十を迎える。



 燕が低い空を飛んでいく。
 明日は雨が降るだろう。
「もう、そんな季節なんですねえ……」
「何をぼんやりしているのよ」
 紅魔館の正門前、堂々と地面に胡坐を掻き、美鈴は大きく伸びをする。それをいつもの調子で叱責するのは、言わずと知れた十六夜咲夜である。頬も綻ぶ陽気に誘われてか、エプロンドレスも長袖から半袖に切り変わっている。
「ほら、咲夜さん。燕ですよ」
 美鈴が指差した方向には、地面すれすれを滑るように飛ぶ燕がいた。ひとたび上昇したかと思えば、目を離した隙に地面を這うように飛行している。
 一羽のみならず、数羽の燕が空を切り裂く様子を見ても、咲夜の表情に大した変化はない。
「そんなの、珍しくもないじゃない」
「でも、季節を感じますよねえ。ああ春が来たんだなあ、とか思いません?」
「春は来るわよ。なかなか来なかった年もあったけど、結局は来たし」
「ありましたねえ」
 足首に手を置いて、美鈴は懐かしげにまぶたを閉じる。耳を澄ませば雀の鳴き声も心地よい。が、仕事を怠けていることには違いない。
 咲夜は気の抜けた門番の額を手の甲で打ち、美鈴の奮起を促す。当の門番は、悪戯を窘められた子どものようにバツの悪い顔をするばかりだったけれど。
「そういえば、咲夜さん何か御用だったんですか?」
「いいえ。ただ、あなたがきちんと仕事しているかどうか確認しに来ただけ」
「やだなあ、ちゃんとしてますよう」
「だったら」
 言うが早いか、咲夜は太もものホルダーからナイフを取り出し、美鈴は地面に手を付いて胡坐を解く。
「迎撃、お願いね」
「うへえ……」
「何その返事」
「黒焦げはやだなあ……の略です」
 二人の視線は、燕よりも遥か高い空を飛ぶ一人の魔法使いに集まっている。いつものように年季の入った箒に腰掛け、敵陣を正面から突破するべく堂々と二人の前に姿を現す。
 霧雨魔理沙。
 白黒のツートンカラーに、膨らみのある金髪がよく映える。彼女からも少女の面影は徐々に失せ始めているが、生来の活発さは今もなお彼女を前進させる原動力になっている。
 急制動、一迅の風を巻き起こしながら魔理沙は地面に降り立ち、吹き飛びそうな帽子を押さえて「ふう」と一息吐く。どこか危なっかしいのは相変わらずだ。
「よ。退屈してると思って来てやったぜ」
「そ。退屈してる門番はいるから、是非相手をしてあげてね」
「うへえ……」
 美鈴の嘆きをよそに、咲夜は手に持ったナイフをホルダーに戻す。魔理沙の視線が「トシ考えろよ」と訴えているように見え、我ながら自己嫌悪に陥る。あまり肌を露出するのも良くないか。冷え症も酷くなってきたことだし。
「じゃ、またね」
「おう。またな」
 咲夜は開きっぱなしの正門を潜り、律儀に門番と対峙している魔理沙に手を振る。特に会う約束をしていたわけではない。ただ、彼女は例外なく美鈴を下して紅魔館の中に足を踏み入れるだろうから、咲夜が忙しく仕事をしていれば、そのうち屋敷の何処かで出くわすこともあるだろうと判断した結果に過ぎない。
「ぎゃー!」
 歩き始めて十秒もしないうちに、壁を揺さぶる光と轟音が炸裂する。門の陰には燕の巣も幾つかこしらえてあるだろうに、傍迷惑なものねと咲夜は苦笑した。
 今日もまた、騒がしい一日なりそうだ。
 遠く、空に白雲が掛かっている。



 魔法図書館には一人の魔女が棲んでいる。齢百年を越えた正真正銘の魔女で、魂と引き換えに願い事を三つほど叶えてくれそうなオーラを纏っている持ち主だ。
 パチュリー・ノーレッジは、音も無く図書館に侵入してきた何者かの存在など気にも留めず、椅子に座って机に肘を突き、閉じかけたまぶたの奥に暗い光を灯している。
 ページをめくる柔らかい音だけが響く。きっとそのうち、何処かの魔法使いや暇を持て余した吸血鬼が図書館にやってくるだろうから、平穏を愛でられるのも今のうちだけかもしれない。
 そして、足音など一回も聞こえなかったのに、その気配はいつの間にかパチュリーの私書室に滑り込んでいた。
 独り言のように、パチュリーは呟く。
「咲夜。趣味が悪いわね」
「申し訳ございません」
 十六夜咲夜は、手を前に組んで佇んでいる。パチュリーの背後、薄暗い部屋の片隅に立ち、雑然とした部屋を片付けるでも給仕をするでもなく、するべきことを躊躇っているような姿勢で口を噤んでいる。
 振り返りもせず、目線は紙面に落としたまま、パチュリーは言う。
「飲み物を頼んだ覚えはないのだけど」
「申し訳ございません」
 反省しているかと思えば、その声色に焦燥や悲哀の類はない。「実は」と一言付け足して、咲夜は猫のように丸まった魔女の背中に語りかける。
「お聞きしたいことがございまして」
「ふうん。美容と健康に関することなら、私に尋ねても無駄だと思うけど」
 言葉を続けようとした咲夜の喉から、声にならない音が漏れる。核心を突かれたらしい。詰まらなそうに、パチュリーは鼻を鳴らす。
「仕方ないわ。年は重なるものよ」
「パチュリー様が仰っても、説得力に欠けますね」
「仕方ないわよ。好む好まざるに係わらず、こんな身体だったんだもの」
 参るわね、と嘆息する。途中に咳が混じらないのは、喉の調子が良い証拠か。
「にしても、珍しいわね。あなたが時間に対して泣き事を言うだなんて」
「いえ、泣き事では」
「あれかしら。博麗霊夢が結婚したから?」
 否定しかけた台詞の続きは、パチュリーの言葉に邪魔をされて、消えた。
 自分でも解っていたことではあるが、やはりぐうの音も出ない。霊夢の結婚が、咲夜に少なからぬ影響を与えたのは確かだった。更に言えば、魔理沙に対しても。
「図星のようね」
「動揺もします。あの霊夢ですもの」
「そうね。あの霊夢だものね」
 本人が聞いたら激昂しそうな会話も、正鵠を射ているから悪気は感じられない。
 『博麗の巫女結婚す』の話題は瞬く間に幻想郷を駆け抜け、この世界に生きる人妖たちに多大な衝撃を与えた。相手の詳細、結婚に至る仮定、動機、家族計画、将来設計、博麗の継承者、子どもの名前。その全てを霊夢は適当にはぐらかし、不用意に旦那に近付く者があれば彼女が不似合いな激情をもってこれを排除した。
 そして、結婚。式場は無論、博麗神社である。
 波乱に満ちた結婚式から、既に三年が経った。今となってはあの喧騒さえ懐かしく、思い出せば顔が綻ぶ。
 羞恥に頬を染めていた霊夢も、今や娘を持つ母である。
 霊夢が、子どもを。
 霊夢結婚の衝撃から立ち直りかけていた幻想郷に、再び衝撃が駆け巡った。博麗神社地下の要石がすっぽ抜ける可能性すら無視できなかった。
 だから、咲夜は思う。
「……私は、どうなのでしょう」
 質問の内容も、求めようとしている解答もはっきりしない。けれど、パチュリーは大して間を置かずに淡々と答えを告げる。
「綺麗だと思うわよ。掛け値なしに」
「ありがとうございます」
「それを、私や美鈴の口から言わせるのは卑怯だけどね」
「……申し訳ございません」
 返す言葉もない。
 健康とは言い難いが、外見は咲夜が生まれる前から変わっていないパチュリー。そのパチュリーが生まれる遥か昔から、同じ容姿のまま生きている美鈴。彼女たちが咲夜を見てどんな感想を抱いたところで、一体何の意味がある。
 不変を持つ魔女、妖怪の目をして、「美しい」と言わしめるだけの容姿。
 そんな、つまらない評価を首から下げて生きていくだけだ。
「ま、いいわ。人間だものね」
 パチュリーは余裕である。嫌がらせのように、シワひとつない自分の目尻を撫でる。咲夜の表情は変わらない。不用意な発言をしたのは咲夜が先である。多少の皮肉は、耐えて然るべきだ。
 パチュリーは、ようやく本から視線を外し、その焦点を咲夜に合わせる。眠りが浅いのか、浅く隈の刻まれた瞳からは生気が感じ取れない。だが、所詮は寝れば埋まる溝だ。底意地の悪い感想を抱き、咲夜は自己嫌悪に陥る。
「咲夜。仕事よ」
 細い指先は、軋む蝶番の真下を指し示していた。
 チョコレート色をした重厚な扉の向こうから、薄明かりに照らされた魔法使いが姿を現す。つばの欠けた三角帽子を胸に抱えて、擦り切れた頬を撫でながら微笑みを浮かべる金髪の女性。
 少女と呼ぶには年を重ねすぎ、おそらくは、咲夜と似た焦燥を抱いている人物。
 霧雨魔理沙。
「よ。また会ったな」
「どうしたの。その擦り傷」
 ん……、と答え辛そうに口を噤み、魔理沙は先程まで頬に触れていた自分の指先をじっと見る。彼女が口ごもっているのは言い辛いことがあるからだ。そのことを、パチュリーも咲夜も十分に悟っている。
 だから、魔理沙もすぐに観念した。
「美鈴に、な。……たく、三十路相手に本気出しやがる。大人げないったらないぜ」
「手を抜かれたら激昂するくせに」
「当たり前だ。妖怪に手心加えられた日にゃ、悔しくてパンも喉に通らん」
「年のせいで?」
「そこまで老け込んじゃいねえよ」
 互いに三十路と知りながら、痛いところを突付き合う。パチュリーは、早く追い出せと言わんばかりに魔理沙の方を手で払い、咲夜はその仕草を見て苦笑する。普段なら、パチュリーも嫌な顔をしながらも邪険に扱うことはないのに。
 奇しくも、魔理沙も咲夜と似ているのだ。
 霊夢が結婚し、子どもを産んで以来、霊夢に構ってもらえなくなったのか、柄にも無く気を遣っているのか、ともあれ博麗神社に赴く回数は減り、代わりに紅魔館に足を向ける頻度が増えた。なればこそ、最も大きな被害を受けているであろうパチュリーの心労も推し量れるというものだ。
「つれないなあ。悪魔の館の魔法使いさんは」
「時間は有限よ。あなたたちが悶々としている間にも、多くのものが手のひらから零れ落ちていく。最後に残されたものが、絶望の残りカスでないことを祈っているわ」
「酷いぜ」
 話は終わり、とパチュリーはまぶたを閉じる。このまま立ち話を続けていても、恐らくは何も言われまい。が、無言の弾丸が本棚から飛来したり、図書館に潜む悪魔の襲撃を受けたりするかもしれない。
 やれやれと肩を竦めるのは魔理沙の役目で、咲夜はパチュリーの猫背に頭を下げる。景気付けにと指を鳴らして、有限と称された時間を止め、手早く紅茶を用意してパチュリーの机に置く。
 時間停止が解除されると、傍らに上る湯気にパチュリーは眉を潜めた。
「……要らないって言ったのに」
「それでは、失礼致します」
「また来るぜ」
 嫌がらせのような台詞を残して、二人の人間は私書室を後にする。
 静かな部屋に、ゆっくりと紅茶を啜る音が響く。
 つられて、それを嘲笑う小悪魔じみた女の声も。



 咲夜が命じられた仕事は、図書館の書物を守ること。即ち、美鈴との戦闘で疲弊した魔理沙を中庭に引きずり出せば、目的は果たしたも同然である。
 魔理沙もろくな抵抗を見せず、あーれーとか言いながら可憐な花が咲き誇る中庭に連行される。日当たりが良すぎて、太陽光を吸収しやすい彩色の洋服ならば瞬く間に汗だくになりそうだが、魔理沙に選択の余地はなかった。見通しだけは素晴らしいベンチに座るよう指示され、唇を尖らせて不平不満を露にしているうちに、咲夜がその隣に腰掛ける。
 さぼりか、監視か、いずれにしても雑談する用意はあるらしい。
「よっこらしょ、と」
「すっかりおばさんね」
「うっさいなあ。おまえだって、座るときに膝ぱきぱき鳴らしてたろ」
「うっさいわね」
 骨身に染みる話ばかりで、気が滅入る。溜息の数も、少女の頃より増えた気がする。自分には無縁と信じ、訪れるにしても遥か先のことだと高を括っていた未来。
 徹夜が辛くなってきたのは、咲夜の仕事に係わる大きな問題である。今はまだ、身体を休めれば疲れは取れるが、徐々に無理が利かなくなっているのは確かだ。
 どう足掻いても、咲夜は人間だった。
 吸血鬼の主に仕える、瀟洒で特殊な能力を持つ、人間。
「お悩みのようだね」
「お悩みよ。あなたと同じく」
「今日の夕飯何にしよう」
 知ったこっちゃなかった。
「……別に一日食べなくても生きていけるわよ。魔法使いなら、それくらい簡単でしょ」
「そうは言うがな」
 魔理沙の横顔に、少しばかり影が差す。無邪気が服を着て歩いていたような少女の頃も過ぎ、今はわずかに憂いを宿せば未亡人かと見紛うほどの艶やかさを放つ。ただし、その瞬間を見れるのは本当に稀なのだが。
 あちらこちらに跳ねた金髪の毛先を弄り、魔理沙はぽつりと呟く。
「……参るよなあ」
 膝に置かれた三角帽子は、魔理沙が少女の頃から愛用していたものであり、あちらこちら綻んではいるものの、被る分には問題はない。彼女と共に、彼女が見たものを見続けてきた帽子は、今も彼女の膝の上で愛しい彼女の溜息を浴びる。
「もしかして、また霊夢?」
「またとは何だよ。まあ、そうなんだけどさ」
 頬杖を突き、眩しげに目を細める。
「私の歩く道は、全て私が決めてきたつもりだったんだよ」
「あなたらしいわね」
「でも……悔しいが、わかっちまった。私はだいぶ影響を受けてる。受けてきた。その証拠に、今はあんまり捨虫だの捨食だのに興味がない」
「興味あったの?」
「人並み、魔法使い並みには、な。ただ、今の霊夢を見てるとな。些か、軸がぶれる」
「……軸、ね」
 反復する。
 魔法の傾向からして、真っすぐに突き進んでいた霧雨魔理沙の軸を揺るがすもの。
 霊夢の結婚。そして出産。
 変わるはずがない、と根拠も無く思い続けていた友人が、あっという間に自分の手の届かない領域に達してしまった。
 目を逸らしていた、というより、その選択肢が視界に入っていなかったという方が近い。結婚だの、出産だの、教育だの、老後だの、全て遠い先のことだと思っていた。まるきり無関係ではないけれど、自分に近付いてくるのはもっと後のことなのだと。
 理由も無く。
「ま、子どもは欲しいとは思わんけどな。うるさいし」
「どうかしらね。あなたみたいなのが、将来子煩悩になったりするのよ」
「何だそれ」
 軽口を叩き、胸にわだかまっていた不安を少しだけ晴らす。その場凌ぎに過ぎないけれど、避けられないのならば騙し騙し付き合っていくしかないのだ。時間は有限である。人にしろ、妖にしろ。
「わたし」
 言葉を区切り、魔理沙は華やかな庭園を眺めながら、呟く。
「あいつがあんなふうに笑うの、初めて見たよ」
 霊夢の笑みは、三年前を境にその意味合いを大きく変えた。
 夫と話すときに浮かべる笑みと、子を抱いたときに浮かべる笑み。そのどちらも、魔理沙や咲夜が見ることのなかった笑みだった。長い付き合いを経た二人でさえ、引っ張り出すことが出来なかった笑みの形。
 それは、衝撃だった。
「あんなに、幸せそうに笑うんだな。霊夢も」
「……えぇ。羨ましいわ。少し」
 少しだけね、と咲夜は繰り返す。自分に言い聞かせるような響きがあって、少し情けなく思う。
 羨ましいと感じるのは、今の生き方に不満があるからだろうか。魔理沙の言うように、軸がぶれているせいか。自分が選び取ったと思っていただけで、本当は、誰かが垂らしていた釣り針に引っかかっただけの哀れな運命を、おこがましくも自分が切り開いた人生と思っていたに過ぎないのか。
 十六夜咲夜は、何処から来て何処へ行くのか。
「……参るわね」
「全くだ」
 さりとて二人は人間だった。自問自答は死ぬまで続く。
 ベンチに背中を預けて、ジグザグに空を飛ぶ燕の姿をぼんやりと眺める。仕事は完全に放置している。美鈴のことは言えないな、と門の向こう側にいるはずの赤髪を想い、咲夜は苦笑した。



 興が殺がれた、と負け惜しみの台詞を残し、魔理沙は壁に立て掛けていた箒に跨って、燕よりも高い空に飛び上がって行った。咲夜は静かにそれを見送る。同世代と話すのは気が安らぐけれど、そろそろ仕事に戻らなければならない。
 殊更に強く足跡を響かせながら、花畑から少し離れた地面に突っ伏している女性に近付いていく。正門から続く道の延長線上に倒れていることから、魔理沙との戦闘によるものと推測される。が、いちいち同情もしていられない。
「お疲れね」
「うへえ……」
 黒焦げらしい。
 だが、埃を被っている他は浅い擦り傷と切り傷のみで、黒焦げなのは心情の問題らしい。大分余裕がありそうなので、咲夜は特に手も差し伸べずに踵を返した。
「ま、待ってくださいよぉ……」
「生憎と、あんまり暇じゃないのよ。掃除もしなきゃいけないし」
「呑気に駄弁ってたのに……」
「あ、手が滑った」
 ――とすッ。
 取り落としたナイフが、瞬時に寝返りを打った美鈴の脇腹を掠める。
 やればできるものである。
「惜しい」
「こッ、殺す気ですか……!」
「殺す気だったら、もっと本気でやってるわ」
「ですよね。そういうひとですよね、咲夜さん」
 服に付いた草を払い、美鈴は渋々と起き上がる。腕を上げて伸びをしているあたり、冗談抜きで熟睡していた可能性が高い。それか、失神していたのか。不思議と後者の事態を想定しづらいのが、紅美鈴という妖怪である。
「仕事に戻りなさい。時間は有限よ」
「咲夜さんが言うと重いですねえ」
「あまり言いたくはないのだけどね。私にも重いから」
「心中お察しします」
「嘘おっしゃい」
 地面に刺さったナイフを、冗談交じりに美鈴に放り投げる。どう受け取ろうか逡巡し、結局人差し指と中指の間で挟む。その頃にはもう、咲夜は美鈴に背を向けて歩き始めている。
「咲夜さん」
 少し声音を変えた美鈴の呼び掛けに、咲夜は律儀に反応して足を止めてしまった。微笑ましげな、あるいは年端も行かない幼子をからかうような口調。
「私は、綺麗だと思いますよ。咲夜さん」
 振り返る。美鈴は含みのある笑みを浮かべている。
 パチュリーの話を聞いていたとは考えにくい。咲夜は、強張っているであろう自分の頬を撫でて解し、他人に揶揄されるほどわかりやすい表情を晒してしまった己を恥じる。
「あ、お世辞じゃないですよ?」
「……付け足さなくていいから」
「了解です」
 にやけ面で敬礼する美鈴に、すかさずナイフを投げつける。苦もなくナイフの刃を指に挟めて、美鈴は手を傷付けないよう二本のナイフを片手に纏めた。
 深々と嘆息し、美鈴に仕事に戻れと手を振って指示する。美鈴も頷き、名残惜しげに踵を返そうとして、ふと目線が屋敷の方角に留まる。
 美鈴の顔色が変わった時点で、視線の先に誰がいるのか自ずと理解できる。だから咲夜は、溜めを作ってゆっくりと振り返り、そこにいるであろう人物に焦点を合わせた。
「私もそう思うわ」
 みずから日傘を差し、太陽の光をものともしない一人の吸血鬼。
 レミリア・スカーレット。
「光栄です」
「お世辞じゃないわよ?」
「付け足さなくていいですから」
 こうも畳みかけられると、咲夜としてもあまり良い気分ではない。ふくれっ面を意識してレミリアの隣に並ぶと、従者の複雑な心境を察してか、主は可笑しそうにくつくつと笑う。
「人間も大変だわね。魔理沙はともかく、あなたがその手の悩みを抱えるなんて」
「人間ですから」
 主の挑発を切って捨てる。レミリアはふふんと鼻を鳴らしてそれに応える。忍び足で持ち場に戻る美鈴を、今更咎める者もいない。
 何も言われずとも、咲夜はレミリアから大きな日傘を受け取り、彼女に代わってそれを差す。
「咲夜」
「はい」
 燦々と降り注ぐ太陽の光の下、ふたりは並んで中庭を散歩し始める。レミリアは本当に気まぐれで、長年仕えている咲夜が想像も付かないことを気軽に提案する。基本、咲夜はそれに翻弄される役割だった。
「これから、霊夢のところに行くわよ」
「お眠りになるのでは」
「眠いけど、明日は雨が降るじゃない。パチェが言ってたわ」
 ほら、と低空飛行の燕を指差す。燕は藤の花に突っ込む直前で方向転換し、門の向こうに飛び上がって消えて行った。
 湿度が高くなると、餌である羽虫が低く飛ぶため、燕もまた低く飛ぶようになる。珍しいことに、パチュリーはレミリアに正確な知識を与えたようだ。
「子どもに悪戯してはいけませんよ」
「誰がよ。あんなぎゃーぎゃー泣き喚くのには興味ないわ」
「そうですか」
「でも、霊夢はあんなのが大事だという……解せないわね」
 気難しげに腕を組み、人間の営みについて思い悩む。
 眠気を押して会いに行くとは、余程レミリアも暇をしているのだろう。当の霊夢は育児に忙しく、レミリアが出向いても門前払いを喰らうのがほとんどだった。その最大の原因は、霊夢の旦那や子どもに要らぬちょっかいを出すことなのだが、特に反省する様子もない。婚姻や育児という人間の文化に全く触れてこなかったレミリアにとって、霊夢一家の存在は非常に貴重な存在なのだ。
 無論、咲夜にとっても。
「さ。参りましょうか」
 延々と唸らせておくわけにもいかないので、咲夜はレミリアに目配せをし、行動を促す。レミリアもようやく一息つき、ふと思い付いたように咲夜を見上げる。
「ねえ」
「はい」
「咲夜は、おっぱい出る?」
 むせた。



 五百年生きているわりに人体の構造に無頓着なレミリアに対し、咲夜が胡乱な知識を披露している間に博麗神社はふたりの眼下に迫っていた。
 とりわけレミリアが食い付いたのは、母乳の本質は血液であるという点で、口には出さないがそのほくそ笑んだ表情から察するに、何か良からぬことを企んでいるのは明白だった。
 適度に釘を刺しながら、雄々しくそびえる鳥居の前に降り立つ。朝よりも雲が増し、吸血鬼にとっては過ごしやすい天候になっている。だからといって、傘を避けてはレミリアの具合も悪くなるのだが。ましてや、本来は眠っているはずの時間帯なのだ。
「いるわね。霊夢」
 くんくんと鼻を鳴らして、レミリアは頬を緩める。期待に足を速めるレミリアが傘から抜け出さないよう、咲夜は心持ち先行して歩く。
 律儀に鳥居をくぐり、境内を回って裏の社務社に向かう。今の時間なら、子どもを寝かしつけている頃合いか。いずれにしろ、子どもに付きっきりの霊夢がレミリアを邪険に扱うのはわかりきっているのだが、レミリアは知ったことかとばかりに鼻息を荒くしている。
 困ったものね、と保護者じみた心境に立って、咲夜は縁側に腰掛けている霊夢に軽く会釈をした。
「……げっ」
 隠しもせず、霊夢は顔をしかめて舌を打つ。
 腕に抱いているのは、生後半年にも満たない赤子である。正真正銘、霊夢がお腹を痛めて産んだ子どもだ。古くから彼女を知る者にとって、到底信じがたいことではあるが。
 しかし、そういうものかもしれない、と咲夜は思う。
 絶対に変わらないと信じていたものさえ、いとも容易く変わっていく。永遠のような不変の日々を期待していた、自分たちを置き去りにして。
 唯一、永遠の幼さを宿す吸血鬼が、一介の母になった霊夢を茶化す。
「ご挨拶ね、霊夢。わざわざ私から出向いてあげたのに」
「来てくれなんて言った覚えはないわよ。用があるならこっちから行くわよ、殴りに」
「マタニティーブルーね」
「あんたが来たからブルーになったの。わかれ」
 しっしっと手を振られても、レミリアは動じる様もない。次第に霊夢の顔も諦めの色が濃くなり、勝手にしなさいと言いたげに腕の中の赤子をゆっくりと揺すり始めた。
 縁側はちょうど日陰に入っており、咲夜が傘を翳さなくてもレミリアは縁側に座れる。咲夜はまず主のための座布団を用意し、霊夢とレミリアの少し後ろに自分の座布団も敷く。
 レミリアが腰を落ち着けるのを見届けて、咲夜は座布団の上に正座をして待機する。その無駄のない動きに、霊夢は相変わらずねと息を漏らした。
「……にしても、変な顔してるわねー」
「つつくな」
 赤子の頬を興味深げにぷにぷにと突くレミリア。熟睡する赤子の代わりに、レミリアの頭頂部へと手刀を繰り出す霊夢。微笑ましいやり取りを見守る咲夜。
 たとえ長くは続かない日常だとしても、麗しいことに変わりはない。
「確か、母親は子どもに子守唄を歌うものなんだってね」
「誰から聞いたのよ」
「パチェと魔理沙」
「またあいつらは余計なこと吹き込んで……」
 期待に満ち溢れたレミリアの視線から必死に逃れようとする霊夢だが、いざ逃げれば今度は子どもが標的になる。狙われたが最後、切りのいいところで観念する方が何かと都合がよい。
「ねえ。歌って」
「やだ」
 霊夢は諦めが悪かった。
 照れくさいやら恥ずかしいやらで、頬が赤らんでいるのもご愛嬌である。
「えー。じゃあ、子どもにおっぱいあげるところ見せて」
「絶対やだ」
「えー。けちー」
「まさか、そのためだけに来たんじゃないでしょうね……」
 あんたも止めなさいよと鋭く睨まれ、咲夜は申し訳なさそうに俯く。けれど積極的には主の暴走を止めはしない。霊夢の口から吐息が漏れる。
「……はぁ、しょうがないわね」
「おっぱい出すの?」
「誰が出すか」
 軽く握った手の甲で、すかさずレミリアの額を叩く。
「子守唄よ、子守唄。……たく、この子が眠ってるのに子守唄も何もないでしょうに」
「ちぇー。噂に違わぬ吝嗇家ね、世も末だわ」
「ところ構わずおっぱい出すような世なら末で結構」
 少し咳払いをし、腕に抱いた幼子を優しい眼差しで見下ろして。
 長い黒髪を頭の後ろで束ねた霊夢は、母であることを除いても随分と大人びて見える。年齢相応の落ち着きを得、笑みには慈愛が、仕草には緩慢さが窺えた。
 そして静かに、霊夢は歌い始める。

 ―― ねむれ ねむれ

 上手か下手か、という評価は無粋に思えた。
 これは母親が娘のために歌う歌で、それ以上もそれ以下もない。だからレミリアや咲夜のような観客は本来いるべきではないのだ。
 単調な旋律を、涼やかな、わずかに震えが混じった声で。
 少し照れくさそうに頬を染め、まぶたを閉じ、腕の中で眠っている我が子を穏やかに揺らしながら、霊夢は羞恥と献身の歌を紡ぎ続ける。
 雲は晴れ、日差しは強さを増していた。
 おおよそ、吸血鬼には似つかわしくない。
「――――はあ」
 息を吐き、霊夢は力無く首を落とす。朱に染まった頬を撫でて、その熱を適当な仕草で宙にばらまいた。
 いやらしい笑みを浮かべて、レミリアは言う。
「どうして、お喋りの声と歌声はこんなにも違うのかしら」
「何が言いたいのよ」
 含みのある物言いに、真っ向から食ってかかる態度は今も昔も変わらない。
「霊夢らしからぬ優しい声だったなあ、と思っただけよ」
「霊夢らしからぬ、は余計」
「人妻らしからぬ……」
「生々しい表現をするな」
 レミリアの手の甲を叩き、可愛らしく舌を出す彼女に溜息をこぼす。古くからの友人というよりか、悪戯小僧に振り回されている新米お母さんといった方が近い。
 ならば、咲夜の立場は何に該当するのだろう。
 それを考える前に、咲夜は唇を開いた。
「でも、素敵だったわ。本当に」
「……よしてよ、恥ずかしい」
 照れる霊夢。これは、レミリアならずともからかいたくなるというものだ。
「お世辞じゃないわよ」
「お世辞にしか聞こえないのよ、そんな澄ました顔で言われると」
「そうかしら」
「咲夜は冷静さが売りだからねえ」
 頬に手を添えて、首を傾げる咲夜。彼女自身、霊夢の子守唄は高く評価していたのだが。もしかしたら、先に素敵なものを素敵だと評することで、それを最終的な結論として位置付けたかったのかもしれない。
 そこに、皮肉や嫉妬、羨望の意図が入り込む前に。
「……可愛いわね。小さくて」
 霊夢の腕に抱かれる子どもを見て、咲夜は呟く。これもまた、自己防衛の一種かと思いながら、可愛いと感じる心も否定しきれない。霊夢は訝しげに睨んでいたが、何かを言い返すことはなかった。
「でも、可愛いのも今のうちよ、きっと。そのうち若い頃の霊夢みたいに、傍若無人な立ち振る舞いの博麗ガールに成長するに違いないわ」
「失礼ね。大体、この子にちょっかい出してるのはあんたなんだから、この子が最初に襲撃するのはあんたの家なんじゃないの」
「ふふん。お生憎さま、我が紅魔館の防御機構は完璧よ。蟻が忍び込む隙間すらないわ、まあたまに鼠は入り込むんだけど」
「誤差の範囲ですわ」
「まあ、蟻も鼠も黒っぽいけどね……」
 呆れた様子で、霊夢は息を吐く。それが溜息に見えないのは、彼女が幸せである証だろうか。今日は何回溜息を吐いただろう。溜息を吐けば吐くほど年を取るというのなら、咲夜も魔理沙も、霊夢とは比較にならないほど老け込んでいることになる。
 隣に並ぶのが怖い、のではない。ふたりが一緒に並んでいるのを、誰かに見られるのが怖いのだ。
 ふと、霊夢を見る。
 彼女はきょとんと咲夜を見返していて、咲夜の心境を推し測っている様子もない。それもそうだ、これは咲夜が勝手に思いを巡らせているだけで、本来ならば他者に打ち明けるのもおこがましい感情なのだ。
 だからパチュリーは、それを卑怯だと言った。
「……どうしたの?」
「いえ……変わるものね、と思って」
 何が、とは言えなかった。全てが、と言いたい気持ちはあった。
 やはり今の霊夢と対すると、妙な感覚に陥る。主人には悪いが、早くに離脱すべきかもしれない。
 気が逸っている咲夜を余所に、霊夢は不思議そうに口を開く。
「何だか要領を得ないんだけど……あんまり変わってないわよ、多分。もし大きく変わってるように見えるんなら、それはむしろ、あんたが変わったんでしょう。……何が、なのかは知らないけど」
 青い瞳を覗き込んで、十六夜咲夜の在り方を問う。
 ごくありふれた言葉であるはずなのに、その台詞は咲夜の心にすとんと落ちた。けれど溶け合うこともなく、飴玉のように転がり続けては、咲夜が傾くたびに内側から彼女を揺さぶるのだ。
「咲夜」
「はい」
 思索に没頭していた咲夜を表に引きずり上げたのは、レミリアの一声だった。睨むとも笑うとも言い難い眼差しで咲夜を牽制して、続けざまに霊夢を窺う。
「すまないわね。来て早々だけど、咲夜の気分が優れないようだから、帰るわ」
「はいはい。お大事にね」
「お嬢様、私は」
「私は我がままなのよ。従者は瀟洒、瀟洒は咲夜。そうでしょ?」
 二の句が告げられない。虚勢を張り通しても、何にもならないことは理解していた。縁側から中庭に降り立ったレミリアの傍らに、咲夜は日傘を開きながら移動する。
 レミリアは腰に手を当てて、霊夢に仰々しく別れの言葉を告げる。
「それじゃ、またね」
「はいはい」
 霊夢は小さく手を振っている。またね、と空気を震わせる声音が届く。
 咲夜は手を振り返せなかった。またね、と唇を動かすことはできたけれど。
 歩き始めて、空に飛び立つ機会を見計らっているうちに、何羽もの燕が足元を翔けていく。空はまだ晴れていて、明日に雨が降るなどとはにわかに信じられなかった。
 道中、レミリアは何も語らず、かといって不機嫌な訳でもなく、鼻歌でも口ずさみそうな緩んだ表情で、咲夜の歩みに付き合っている。決して表には出さず、咲夜は主に感謝した。思考の深みから抜け出すためには、まだしばらくの時間が必要だった。人間らしく、地に足を付けて、空を見上げたり俯いたりしながら、少しずつ現に帰って来なければならない。
 そうやって初めて、隣にいる誰かと有意義な話をすることができる。
 だから今は、失礼と知りながら、主の我がままに甘えて、押し黙ったまま歩き続けていた。



 景色は移り変わり、視界は開けて、紅魔館を望むことができる湖に辿り着く。
 結局、最後の最後まで徒歩だった。散歩程度の嗜みはあるが、長い距離を歩く機会がほとんどないレミリアは、少なくとも疲れを表には出していなかった。途中、何度か鼻歌を口ずさんでいたから、退屈こそすれ、不満を感じていた訳ではなかったようだが。
 こんがらがった思考が整えられていくに従って、咲夜は自分がレミリアに対してどれだけの非礼を行っているのか自覚してしまい、羞恥に俯いて顔が上げられなくなってしまった。本当は、主を前にだらしなく顔を下げていることさえ、情けない立ち振る舞いなのだけれど。
「顔を上げなさい」
 はッ、と声にならない返事をして、咲夜は弾かれるように顔を上げた。
「失礼致しました」
 レミリアは、くすくすと可笑しそうに笑っていた。恥ずかしさはあったが、それを顔には出せなかった。
 湖の上で遊ぶ妖精は、真昼間に出歩く吸血鬼の存在など知らずに漂い続けている。レミリアも特に邪魔をする様子はなく、穏やかな散歩は最後まで続くかに思われた。
 が。
「でも」
 声を弾ませて咲夜に喋りかけるレミリアが、その沈黙を許さなかった。
「主に気を遣わせるなんて、咲夜も偉くなったものだわね」
「……申し訳ございません」
 逃げ出したい。冗談で言っているとは思うが、その引き金を作ったのは咲夜だ。何もなければ、従者の品格を疑われることもなかった。時を止めて、再び心が冷えるのを待つべきかとも考えたが、これ以上レミリアを待たせるのは躊躇われた。
「いいのよ。私は寛大だから」
 それに、と付け加えて、下唇に指を当てる。年端もいかない子どもが、何か面白い悪戯を思い付いたような仕草だった。
「人間、年齢を重ねるとみんなそうなるものだと言っていたわ。パチェが」
 ――あの魔女。
 心中で、咲夜はパチュリーに毒づいた。なまじ、正鵠を射ているから余計に。
 肯定も否定もしないかわりに、足は止めない。レミリアは話を続ける。
「霧雨魔理沙もそう。たまに、咲夜と似たような顔をすることがあるわ。でも、不思議と霊夢がそういう顔をしているところは見ないのよね。どうしてかしら」
「……それは」
 あえて、咲夜に答えさせようとしているのはわかった。この主は、昔から瀟洒で通していた従者が、最近になってようやく隙を見せ始めてきたことを嬉しがって、わざと咲夜を困らせるべく立ち振る舞っているのだ。そうして零れ落ちる従者の隙が、レミリアの最上級のおやつなのである。
 我がままなのは相変わらずだが、厄介さと面倒さは比較にならない。
 かといって、真に咲夜を追い詰めようとしている訳ではないと知っているから、なおさら性質が悪い。
「それは、霊夢が結婚して、子どもができたからではないでしょうか」
「そうね。そう考えるのが妥当だわ」
「……あの、お願いですから、そこで私を見ないで下さい」
 気が滅入る。
「ああ、すまないわね。人間も見る目がないものだと思ってね、こんなに良い女を放っておくなんて」
「光栄です。けれど、私が棲んでいるのは、吸血鬼が治める悪魔の館ですから。声を掛けるのも、ただの人間には酷な所業でしょう」
「そうね。そう考えるのが妥当、と思いたい気持ちもわかるわ」
 微妙に言い回しを変え、平静を装う咲夜の瞳の奥を覗き込む。
 好奇心の域を越えた、咲夜の本質を抉るような鋭い眼差しに、一瞬足を止めてしまいそうになる。
「でもね」
 咲夜の鼻っ柱に触れるくらい指を近付けて、レミリアは口の端を歪めて微笑む。
「それ以前に、あなたはどうしたいの?」
 言った後に、咲夜の鼻の頭を人差し指で押す。
 一連の冗談めかした仕草に、咲夜はついに足を止めた。大して強い力を掛けられた訳でもないのに、押された感触がずっと鼻の中に残っている。
 歩みが止まってしまえば、咲夜はレミリアの視線に囚われざるを得ない。木の葉のざわめき、鳥の鳴き声、水面を跳ねる妖精の喧騒、そのどれもが咲夜の耳を貫き、何の感傷ももたらさずに何処かへ消えていく。
「変わりたいのかしら。変わりたくないのかしら。本当は変わりたくないけれど、霊夢のように美しく変われるのなら、そう在りたいと思っているのかしら」
 畳みかけるような口調で、それでも責めるような調子ではない。
 変わらない妖怪から、変わっていく人間に対する、純粋な疑問であり、挑発であった。理解しがたいものを理解しようとする、ともすれば人間らしい行為ともいえた。
 いずれにしろ、一度立ち止まってしまったのなら、動き出すための言葉が必要だった。
「わたし、は」
 木漏れ日を遮る傘の下で、レミリアは咲夜の答えを待っている。
 木漏れ日を浴びる咲夜は、額にじんわりと汗が浮かぶのを感じていた。
「……わかりません」
 嘘は吐けなかった。虚勢を張る意味もなかった。
 正直に答えなければ、主の追求は紅魔館に着くまで続いただろう。でなくても、向こう数日はこのネタでからかわれることは明白なのだ。ならば、このあたりで一区切りを付けておきたい。そして、ひとつの結論を出しておきたい。
 わからないのなら、わからないという答えを。
 それで主が納得すればよし、納得されなくても、それ以上の答えなど捻り出せはしないのだし。
「幼い頃は、早く大人になりたいと願っていました。若い頃は、この時が永遠に続けばいいと思っていました。今は、変わってしまうことが恐ろしく、変わらずにいることが無慈悲に感じられます」
 目を瞑る。まぶたの裏に過ぎ去った昔日の情景が映し出されるほど、湿っぽい性格ではなかったけれど。
 夕焼けの赤。海の青。森の緑。真っ白な雪。傾いた壁。果てなく続く細い道。
 嬌声、罵倒、喧騒、逃走。闘争。走馬灯の如く通り過ぎる過去を想い、何かを感ずる前に遠ざかっていく記憶。記録には残らない十六夜咲夜の断片と、十六夜咲夜に辿り着く前の吹けば飛ぶような寂しい思い出。
 積み上げて来た全てを抱き、選び切れなかった多くを取りこぼして、十六夜咲夜は此処に立っている。幻想郷の、紅い色をした悪魔の館に、小さな根を張って生きている。
 ……目を開ける。
 先程と変わらず、興味深げに咲夜を見上げているレミリアの姿がある。
「人間は我がままね」
「恥ずかしながら。私も、その人間ですわ」
 微笑む。我ながら、自然に笑えたと思う。
 レミリアは、幼子のように小さな手のひらを差し伸べて、咲夜に言う。
「あなたが望むのなら、永遠を与えることもやぶさかではないけれど」
 咲夜の答えを聞いてなお、レミリアは大手を振って咲夜の運命を揺さぶる。
 運命の魔の手を振り払うのに必要なものは、いつだって人の意志だ。もし、レミリアと出会うのがもう少し早ければ、もう少し早くこの問いを掛けられていたら、咲夜は柔らかい手のひらを嬉々として握り締めていただろう。
 だが。
 ふたりの間を、一羽の燕が翔けていく。
 あの燕も、高い空を知っている。雛鳥も、いつか空の高さを知る。
「私は、身の程を知っているつもりです。もし仮に永遠を手に入れてしまったのなら、きっと堕落してしまうことでしょう」
「そうかしら」
「そうですよ」
 レミリアはあっさりと手を下ろし、腰に手を当ててふんと鼻を鳴らす。予想通りだったのか、予想外だったのか、拗ねたような不満げな様子が見て取れる。
 若干、申し訳ない気持ちもあるが、こればかりは譲れなかった。レミリアに吸血鬼としての矜持があるように、咲夜にも人間としての誇りがある。誇りと呼べるほど大層なものではないにしろ、後ろを振り返り、歩んできた道程を思えば、それを無碍にすることはあまりにも無慈悲に感じられたから。
「それに」
 ふと、思いつく。下唇に人差し指を添えて、悪戯っぽく。
 意地悪な答えだなと自分でも苦笑するが、今まで散々からわれていたのだから、少しくらいはお返しをしても構わないだろう。
「永遠なんて手に入れてしまったら、私が死んでしまう時に、お嬢様の泣き顔が見られなくなるじゃありませんか」
 案外、これが正答なのかもしれなかった。
 老いて、身体の自由が利かなくなるのは好ましくないが、年老いたなりに楽しみはある。それが周りを困らせる不埒な娯楽だとしても、笑えるのならば、それ以上のことはない。
 そしてレミリアは、どう反応すべきか真剣に悩んでおり、珍しく困惑した様子で咲夜の顔を覗き込んでいた。
「……え、ここ、泣くところ?」
「いえ、笑うところかと」
 咲夜に促されると、レミリアも「そうよね」と頷いて、少しずつ頬を緩ませていき、やがてくつくつと笑い出す。お腹を抱えて、顔を俯かせ、笑い声を隠そうともせず、大笑する。
 のどかな森に響き渡る笑い声は、湖に漂う妖精たちの耳にも届き、それが吸血鬼の哄笑と知れた瞬間に湖から妖精の姿が掻き消えた。
 歩き出すための言葉を得て、後は主の気が済むまで付き合っていればよい。その分、今後はまた別の話題でからかわれるのだろうなと、予想はできるけれど。
 博麗神社のある方角を振り返っても、当然、その姿は影も形も見えない。
 そのかわり、木の葉に遮られた空の端に、明日の天気を予感させる、不穏な雲が窺えた。





 外の世界を覆い尽くしている雨の音も、図書館の中にまでは響いてこない。静寂を求めるならうってつけの場所である。
 薄暗い図書館の中央、大きなテーブルの一角を陣取って、パチュリーは静かに本を読んでいた。飲み物が欲しければそう訴えればよい。新しい本が読みたいのなら手を叩けばよい。ここにいれば全てが事足りる。優秀な部下に支えられた自堕落な生活だという自覚はあるが、今更修正する気にもなれなかった。楽だし。
「咲夜。喉が渇いたわ」
「畏まりました」
 無論、必ずしも咲夜の声が返ってくる訳ではないが、今回はちょうど図書館に待機していたようだ。昨日の今日だから、パチュリーに何か聞きたいことがあるのかもしれない。あるいは、何か言いたいことが。
 声が響いて数秒もしないうちに、テーブルにはティーセットが用意されていた。紅茶を入れる準備を始める咲夜は、パチュリーの目からしても、普段と何か違って見えた。
 その違いが何か、決して短い付き合いではないパチュリーも、すぐには思い浮かばなかったけれど。
 咲夜があまりにも自然に振る舞っているから、口に出して質問するのも無粋に思えてきた。
「お待たせ致しました」
「ありがとう」
 差し出された紅茶からは芳しい湯気が立ち上り、その香りに読書の手も止まる。尤も、咲夜自身が発する違和感のために、パチュリーの集中力は幾分か減じていたのだが。
 目尻の皺は健在で、特に若返った様子もない。要は気の持ちようだから、昨日の外出が気分転換になったのかもしれない、とパチュリーは結論付けることにした。今は読書に集中したい。雨宿りには最適の場所であるから、いつ邪魔が入るかわからないのだ。昨日の今日で、とこぞの濡れ鼠が忍び込んで来ないとも限らないのだし。
「あら」
 咲夜が、不意に図書館の扉を見る。
 パチュリーは憂鬱を隠そうともせず、大きな溜息をこぼす。
 巨大な扉の古風な蝶番が、これまた重厚な音色を奏でながら堂々とした侵入者を招き入れる。彼女は昨日よりも小奇麗な格好をしており、表情にも若干の余裕が見て取れた。
 どうやら、今日は門番に完勝したらしい。
「よ。暇だから遊びに来たぜ」
 霧雨魔理沙は正直者である。屈託のない笑みは昔と変わらず、少しぐらい色褪せた方が味わい深いのではないか。パチュリーが他人事ながらそんなことを考えていると、一瞬、魔理沙の表情が固まるのを目撃した。
 彼女の視線は、咲夜に固定されている。昨日と違い、要領を得ない質問を投げかけたり、目尻の皺を必要以上に気にしたりといったこともない、けれどもそれ以前の咲夜とも異なる瀟洒なメイド長。
 理由のひとつは、当人の開き直りで。
 あとのひとつは、おそらく、魔理沙の口から導き出されることだろう。
「咲夜」
「何かしら」
「スカートの丈。長くしたんだな」
 肯定するかのように、咲夜はスカートの端を摘まんで持ち上げてみる。可愛らしさを演出するその仕草が、却って厭らしく見える。
「あぁ、成る程」
 パチュリーは、納得の声を上げた。
 春夏秋冬、咲夜のスカートの丈はほとんど同じだった。が、今はほんの少しだけ長くなっている。本当に気付くか気付かないか程度の違いだから、パチュリーにも差異がわからなかった。魔理沙がそれに気付けたのは、同じ世代の、同じ人間だった故か。
 もう一度、パチュリーは頷く。
「……パチュリー様?」
「何でもないわ」
 ――まあ、そのあたりは、ねえ。
 当事者同士、好きなように語り合えばよい。喘息仲間がいれば、パチュリーも気を許して語り合うことができるのだが、それも贅沢な悩みではある。
 納得してしまえば、後はすっきりとした心持ちで読書に戻れる。邪魔者の存在は意識の外に置いておけばよい。紅魔館の防衛機能は万全であり、紅茶を用意してくれるメイド長は、紅魔館の住民にとって面倒な外敵をも排除してくれる。彼女はとても優秀であり、そんな人間であり、そして瀟洒であった。
 咲夜は指にナイフを挟み替えて、魔理沙に対して不敵な笑みを浮かべてみせる。魔理沙も三角帽子のつばをくいっと押し上げ、綺麗な歯を見せつけるように笑ってみせた。
「冷え症は身体に響くからな。老体に鞭打って仕事するのも大変だ」
「少女らしさより実用性を選んだのよ。実際、少女でもないものね。私も、あなたも」
「私を巻き込むなよ。まあ、少女でもないけどさ」
 お互いに、痛いところを突き合いながら、それでも嘆いている様子はなく、文字通りに笑い飛ばして話のネタとして噛み砕いている。人間、昨日と今日で大きく変わるものだ。見た目は全く変化がないように見えるのに、交わす言葉も、発せられる雰囲気も、その色合いを小刻みに変える。
「行くぜ」
「来なさい」
 直後、両者は鋭く飛翔する。あっという間に影も形もなくなり、弾幕の喧騒さえ既に遠い。
 弾幕の音色をバックグラウンドミュージックにする程度の素養は、パチュリーも心得ている。咲夜も魔理沙も、観客にすらなっていない背景を巻き込むような真似はすまい。
 パチュリーは、穏やかな気持ちで頁をめくり始めた。

 魔法図書館に、可愛げのない弾幕の雨音が響く。
 それに混じって、無機質な紙をめくる音と、時折紅茶を啜る音。
 それから、ほんの少しだけ寂しげな、とても小さな咳の音。

 

 

 

 



SS
Index

2011年3月4日  藤村流
東方project二次創作小説





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