夢落ち
悲しみが癒えることはない。
だが、今はそれすらも心地良い。
傷跡に唾を付けることも、ありふれた習慣になってしまったから。
茶碗が掌から落ち、板張りの冷たい床に吸い込まれ、あえなく割れた。
ただそれだけのことなのに、酷く損をした気がした。
だから、客とも呼べない客に茶は出さないでおいた。
お気に入りの塗りだったのに、とぼやく白黒は放置した。
いつの間にか、太陽が西に傾いていた。
今日が終わる。
明日もまた来るに違いない。
良いことだ。
夕陽が綺麗だから、洗濯物を干そう。
明日はきっと晴れるだろう。
蛙が掌から落ち、湖の冷めた湖面に吸い込まれ、滞りなく沈んで消えた。
氷付けの状態から蘇ったかどうかは分からない。
今日は引き分けにしておこう。
仲の良い友達は、そんなことやめようよと口を酸っぱくして言う。
その度に、こんな面白いことどうしてやめなきゃいけないの、と笑う。
彼女は、どうして友達でいてくれるのだろう。
怒っているはずなのに、自分から離れることはない。
疑問に思っても、自分から尋ねることはない。
当たり前のものは当たり前のこと。
蛙が氷精に凍らされるように、氷精が大蝦蟇に懲らしめられるように。
当たり前のものは当たり前のように。
氷精の羽根によって飛沫が立っていた水面から、更に大きな波紋が浮かび上がる。
引きつった顔を晒す寸前、だから言わんこっちゃない、と嘆息する友人の影があった。
落ちた。
その財布を拾うために身を屈めたら、伸ばした手が誰かの手の甲に触れた。
顔を上げると、兎の耳をした妖怪がいた。
笑っていたので、こちらも笑った。
兎が先に財布を拾って、丁寧に差し出して来る。
ありがとう、そう言って受け取る。中身は全て入っている。
お礼は一割で構いません、とこれまた丁寧に両手を突き出す。
申し訳ない、君と僕の価値観が異なる以上、お互いが思い描く一割の価値を共有する存在など無いに等しいんだ。
そう簡潔に述べると、ならあなたの価値観で判断すればいいよ、と残念そうに言った。
残念ながら、僕はこの財布に一片の価値も見出していない。だからお礼は出来ないよ。
そう完結させると、ならいいわ、勝手に迷えばいいじゃん、と詰まらなそうに踵を返した。
親切な兎が居なくなった後、ここが背高のっぽの竹林だと気付く。
兎の親切に対して何らかの対価を支払えば、道に迷うこともなかっただろうに。
後悔は遅く、もう日が暮れようとしていた。
そのくせ、底冷えするような暑さが竹の群れから染み出ているようだった。
掌から雫が落ち、冷徹な井戸水が起き抜けの寝ぼけた顔を洗い流した。
良い朝だ。
今日も晴れている。明日も晴れるだろう。
雨も必要だが、光もまた必要だ。
言うなれば、全てが全てのために必要なのだ。
故に、どれが欠けてもままならない。
深呼吸する。
朝靄の中に、見慣れた里の景色が朧気に映っている。
幸せすぎると不安になる。
幸せに慣れることはないから、まだこれを幸せと感じられる。
だから、今も幸せなのだ。
おはよう、と誰かが口にした。
同じように、毎朝繰り返される挨拶を飽きることもなく繰り返す。
日が昇っていた。
今日は良い日だ。
紅い弾丸が胸を貫き、燦々と照り付ける太陽を背に墜落する。
痛い、辛い、暗い、苦い。
何もかも紅くなってしまえ。
そう願い、幾千幾万の日々を通り過ぎたろう。
まだ、太陽しか紅くなっていない。
まだ、望みは尽きていない。
太陽に紅く染められた地面を背に、紅く染め上げられた空を仰ぐ。
ちっぽけだ。
太陽の、空の、血の紅と比べて、自分はなんて矮小な生き物なのだろう。
笑ったが、敵は笑わなかった。
訝しげに見下ろすだけで、追撃する様子もない。
都合が良い。おまえも紅く染まってみないか。
誘ったが、敵は頷かなかった。
ただ、心底可笑しそうに笑っていた。
それが癪に障ったので、また泥のように紅く染め抜いてやろうと決めた。
この手はまだ、日輪の真紅を真似ることは出来ないけれど。
その光を浴びていられるのなら、まだまだ紅くなりようはあると思った。
夢に落ちる。
彼女しかいない世界で、彼女はまさに英雄だった。
倒すべき敵も、守るべき味方もいない。
仕方ないから、相手をしてくれる誰かを探す旅に出た。
とても、とても長い旅だったように思う。
歩み続けた旅路の果てに、後々になって掛け替えのないと思える誰かを見付けた。
そんな錯覚を得ながら、夢は夢として雲散霧消する。
乱れた布団とずれた枕、なだらかに流れる金の髪を自らの五指で梳く。
長いせいか知らないが、やはり上手くいかない。
仕方ないから、手馴れたふうにぱちんと指を鳴らす。
音もなく、彼女の式神が現れる。
髪を梳いてちょうだい。承知しました。
淀みのない会話が心地良い。
丁寧に整えられる髪の毛と、それに触れる式神を思う。
夢の中にいたもう一人の自分は、相手をしてくれる誰かを見付けたろうか。
見付けただろう、と適当に決め付けて、彼女は無用心に欠伸をした。
終わりましたよ。ご苦労さま。
淀みのない会話は、ほんの少し寂しかった。
葉が落ちる。
庭師は落ち葉を掃いている。
亡霊はお茶を飲んでいる。
穏やかで、静かな空間だった。
それでも、彼女たちは動いている。
昨日も動いた。今日も動き、明日もまた動くだろう。
それでも、彼女たちは正式に生きていない。
次から次へと落ちて来る落葉を、空いた掌で苛立たしげに掴み取る。
飲み切った湯呑み茶碗の中に、風に煽られた一枚の紅葉が落ちる。
死んだ世界に、朽ちた葉の色はよく似合う。
死んだ世界なればこそ、瑞々しさを失った葉はよく落ちる。
あくせくと、羽箒を動かしては嘆息する庭師。
羨ましいわね、と亡霊が言い、庭師はやはり勘違いする。それを聞き、亡霊はやはり笑う。
羨ましいのは、何に対してか。
恐らくは、掃き掃除のことではないのだなと気付いてはいたが。
結局、成仏しない彼女には何を言っても無意味だと諦めた。
ここは冥界、一切合財の未来が閉ざされた、酷く穏やかで、酷く静かな空間。
吸血鬼に、堕ちる。
血を吸い切れない吸血鬼は、今日もまた新鮮な血液を零す。
それを丁寧に拭い取る、瀟洒な従者は人間だった。
グラスをテーブルに戻し、不自然に昂揚した意識が収束するのを待つ。
血を吸い切れないのが嫌なのですか、と従者は言った。
胡乱な脳が導いたのは、見当外れの答えだったような。
飲み物としての血ではなく、縁としての血を求めたのよ、と吸血鬼は言った。
傍らに立つ従者の顔は、彼女の視界には入らない。
従者は、かくあるべきだ。
吸血鬼も、かくあるべきだろう。
故に、従者の血を吸うことはない。
席を立ち、自室に帰る。
音もなく控える従者は、主の回答に満足したようだった。
何故なら、それ以上余計な口を叩くことがなかったからだ。
船の縁から落ちるような馬鹿は、初めからいないものだと思っている。
だから、落ちても心が痛むことはない。
なんてことは、ない。
溜息を吐いた。
それは、閻魔も同じだった。
押し問答の時間は終わり、今は気まずい沈黙が支配している。
溜息に限りはなく、寿命すら定かでない彼女たちが老けることもない。
あなたに出来ることは、心を痛めることではない。
非情な宣告をくべるものは、己が非情であることを強いている。
それは、閻魔も死神も同じだった。
舟を漕ぎなさい。それが。
罪悪感は何処に行くのか、それは死神にも分からない。
裁断に関わるものたちが持つ罪悪感は、いつか誰かに裁かれるだろうか。
重苦しい沈黙の果て。
魂の重さと罪の重さと掛け合わせて、その重責に耐え兼ねた船が沈むことになれば。
それは、紛れもなく自身の罪だと死神は思う。
昨日、床に落ちて割れてしまった漆塗りの茶碗は、葛篭に捨てた。
今朝そこを覗いてみたら、がらくたは庭に埋めるまでもなく消えてしまっていた。
こんなことが、ごくたまにある。
特に気にも留めず、無限に晴れ渡った空の下に布団を晒す。
布団叩きで布団を叩く。祓い串でやる時もある。その方が、ご利益がありそうな気もする。
今日も良い日だ。
明日もきっと良い日だろう。
そんなことを、いつも思っている。
友人の視線が、白いテーブルに落ちた。
今日、懐かしい夢を見た。
良い夢だった。
昨日は悪い夢だった。
一昨日は、よく覚えていない。
ただ、どの夢もどこか懐かしい。
自分だけがいない世界だったけれど。
心の底から、そう思える。
これ、どこから拾って来たの。
訝しげに、友人は問う。
彼女の視線は、白いテーブルの黒い茶碗に落ちている。
きっと、どこか高いところから落下したのだろう。
分からないわ、でも。
でも、今はそれが心地良い。
不思議そうに割れた茶碗を撫ぜる彼女の五指が、夕焼けの煌びやかな紅色に染まっていた。
酷く幻想的な風景にあって、何とはなしに二人ともが外界の景色を仰ぎ見る。
日が暮れようとしていた。
今日は良い日だった。
明日もきっと良い日だろう。
OS
SS
Index
2005年11月13日 藤村流 |
東方project二次創作小説 |