あんまり変わってないんじゃない

 

 

 

 魔理沙がサイボーグになったということで、霊夢は霧雨邸にお見舞いにやってきた。
 正直、サイボーグって何のことかしらといった状況だったのだが、境内にも香霖堂にもその他諸々の活動可能地域にも出没せず、家に閉じこもりきりというのはそうそうあることじゃない。魔法の勉強とか魔導書の解析とかいろいろやるべきことはあるのだろうけど、それにしても音沙汰がなさすぎる。
 霖之助にしても、サイボーグうんぬんという噂を聞きつけたのは昨日のことで、それも魔理沙から直接ではなく数少ない顧客の一人から耳にしたものらしい。その客もサイボーグの意味については詳しく知らなかったようで、霖之助が独自に考察した結果、『身体の一部あるいは全体が機械化している状態を指し、身体が破損しても部品の交換によって修復が可能になる』という結論に達した。
 要するにまたろくでもないことしたんだろうと霊夢は思い、適当に煎餅でも籠に詰めてお見舞いに来たという次第である。意気軒昂であれ満身創痍であれ、結局は自業自得なのだろうから霊夢がわざわざ対策を考える必要もない。そう思えば、サイボーグだろうが何だろうが気楽に構えられるというものである。
 そして、魔法の森。霧雨邸。
 この無駄に蔦が絡まりまくっているあたりが非常に鬱陶しい。
 燃そうかな。
 ちょっと冷えるし。
「……て、御札が足りないわ」
 仕方がないから、普通にドアをノックする。郵便受けに溜まっている大量の文なんちゃら新聞が哀愁を誘う。
 ノックをしても返事はない。この程度の無愛想さは慣れたものである。むしろドアを蹴破るくらいの勢いでないと、何かに没頭している魔理沙を玄関に引きずり出すのは難しい。というようなことを以前アリスらへんがぼやいていた気がする。
 霊夢もそれを試そうとしたのだが、かなり高い確率で足を挫きそうだから断念した。ああいう手法は蹴り慣れている者が行うべきだと霊夢は思う。
「まりさー」
 なので、しばらく呼びかけを続ける。
 声は虚しく魔法の森に響き渡り、薄暗く陰湿な空間に身体が押し潰されそうな錯覚を抱く。日当たり良好、水はけも良く四季折々の恵みに満ち溢れている神社の境内とは大違いだ。
 こんなところに好き好んで棲んでいる魔法使いってのもろくなもんじゃないなと思いながら、しつこくノックを続ける。それでもやはり反応はない。いいかげん霊夢も飽きてきた。煎餅もしける。濡れ煎餅っていう手もあるけどそういう問題じゃない気もするしなあ。面倒だ。
「燃やすわよー」
 業を煮やした霊夢は、それ用の御札を懐から一枚抜き出し、寸勁っぽい動きで板チョコっぽいドアの中心に御札を叩きつけ、
「おお、霊夢」
「あ」
 ようとしたら、いきなり開いたドアの向こう側に立っていた魔理沙の中心にそれ用の御札が吸いこまれた。
「ああー」
 大炎上。

 

 

「死ぬかと思った」
 いや私は一度死んだんだ、だからもう死ぬのは怖くないぜ、でもやっぱり怖いから私の家を燃やそうとするのはやめてくれないかなあ、と魔理沙は多少焦げながら霊夢に説いた。
「燃そうとしたのは家じゃなくて蔦だったんだけど、ごめんね」
「蔦も私の家の一部だからなあ……」
 胡坐を掻き、うんうんと唸りながら魔理沙は揺れる。
 霧雨温泉からあがり、霊夢は魔理沙の髪をわしわしと拭いている。大炎上したかに見えた魔理沙であったが、実際は服が焦げて若干肌の露出が過激になる程度で事無きを得た。
 炎には水、あるいは冷気ということで、コールドインフェルノが魔理沙を窮地から救った。だが季節は冬、寒がりの魔理沙はむしろみずからが解き放った冷気によって死にかけたのだ。そしてなかなか瀕死な状態に陥った魔理沙を、霊夢は機転を利かせて温泉に投げ入れた。浮き上がってこなかったらどうしよう、としばらく不安げに観察を続けていた霊夢だったが、結構早く浮いてきたので安心して温泉に入った。
 いい湯である。
 以下、いつもの流れに戻る。
「はい、終わり」
 髪の上に置いたタオルをぽんぽん叩き、霊夢は鏡の中の魔理沙に告げる。当の魔理沙はどこか不満そうだ。
「なんだ、梳いてくれないのかよ」
「なんでもかんでもやってもらえると思わない」
「ちぇー」
 魔理沙からタオルを取り上げ、霊夢は自分の髪を拭く。いちいち新しいタオルを使うのは面倒だし、細かいことを気にする仲でもない。魔理沙はぶちぶちと拗ねながら髪を梳いている。赤色の櫛が金色の髪をなめらかに流れ、毛先に残っていた亜麻色の雫を丁寧にすくう。
 背の高い姿見の前に胡坐を掻き、それでも丹念に髪を梳いている霧雨魔理沙は、やっぱり女の子なんだなあと霊夢は思う。そこでようやく、自分が魔理沙の家に足を踏み入れることになった、そもそもの理由を思い出す。
 二人の身体から生あたたかい湯気が立ちのぼり、鏡をゆっくりと曇らせる。乳白色に染まる姿見の中に、一人の巫女が立ち、一人の魔法使いが座りこんでいる。布切れひとつ纏っていない状態だけれど、それについて何か思うこともない。
「そういえば」
「……ぅん?」
 温泉に入って高揚しているのか、やや上ずった声で魔理沙は答える。ほんのすこし紅潮した頬は血色がよく、お風呂あがりということも相まって少女らしからぬ艶やかさが窺える。
「霖之助さんから、『魔理沙がサイボーグになった』って聞いたんだけど」
「香霖が?」
「ところで、サイボーグって一体何なのかしら」
「そりゃあ……私もよくは知らないが」
「知らないんだ」
「ちょっとは知ってるぜ」
「ちょっとなんだ」
 二人は姿見の中に視点を合わせ、直接瞳を合わせることはない。だからといって別に大した意味はなく、魔理沙は髪を梳かすのに忙しく、霊夢は髪を拭くのに忙しいだけなのである。
「なあ、霊夢」
「なに、魔理沙」
 櫛が置かれ、程よく梳かれた金髪の毛先が背中に垂れる。脱衣所と温泉を隔てた曇りガラスの向こうから、冬の弱々しい日差しがほのかに舞いこみ、少女の髪をわずかに輝かせた。
「もし仮に、私がサイボーグになっていたとして」
「唐突ね」
「霊夢が言い出したことだろ」
 真剣なようでいて、軽口を叩いているようにも聞こえる。不思議な感覚だった。
 それも全てお風呂あがりの少女が成せる業なのだとしたら、それを魔法と呼ぶことになんら抵抗はない。
「まあ、そうね」
「うん、だから――どうして、私が火傷のひとつも負っていないのか」
 不意に、魔理沙は霊夢の目を覗きこむ。鏡の中に佇んでいる少女の分身ではなく、ただそこに立っている博麗霊夢の瞳を、ただそこにある霧雨魔理沙の眼差しで。
 魔理沙の裸身に、これといった火傷の痕はない。霊夢の御札は確かに魔理沙の服を焼き、炎を上げた。すぐさま鎮火したといえども、その熱波は何故魔理沙の柔肌を焼き焦がさなかったのか。言われてはじめて、霊夢の頭に疑問符が浮かぶ。
 もし、魔理沙が言うように。仮に。
「機械の身体だったのなら、納得がいくとは思わないか」
 魔理沙は唇の端を歪める。その動作が笑みを意味していると気付くまで、すこし時間がかかった。
 自嘲しているようにも見える魔理沙の態度に、不審なものを覚える。仮の話であるはずなのに、どこか念が入っている。あるいは、冗談ひとつにも命を賭けるような人種でなければ、魔法使いなど務まらないという証左なのかもしれないが。
 それでも。
「アリスくらいなら、あの程度の炎でもピンピンしているような気もするけど」
 別の人物の名前を挙げる。魔理沙が職業としての魔法使いなのだとしたら、アリスは種族としての魔法使いだ。寒暖に強く、栄養を摂取せずともよく、老化もしない。死を越えられるか否か、それはまた別の問題であるにしても。
 魔理沙は、腕組みして考える。
「あいつは根っからの魔法使いだからなあ……見方を変えれば、一種のサイボーグみたいなもんだが」
「魔理沙もそうなったってこと?」
「うんにゃ」
 首を振って否定する。金色の髪がかすかに跳ねる。
 濡れた身体をタオルで拭えば、素っ裸でも特に寒さは感じない。むしろ、温泉からあがった直後であるから、しばらくはこうして熱を逃がしていたい気持ちもある。
 ちょうど、この益体もない話が終わるまで。
「私の場合、なりたいからそうなったって訳じゃないんだぜ」
 みずからの胸の中心を、親指で突く。
 それから手のひらを開いて左の胸に乗せ、その鼓動を確かめるように、手に力を込める。
「そうだな……新しい魔法の実験をしている最中にミニ八卦路が暴走して、私は瀕死の重傷を負ってしまった……ていうのはどうだ」
「どうだって言われてもねえ」
「まあ、そんなこんなで死にかけた私は、偶然にも家にやってきたアリスの手によって一命を取り留める。だが、永遠亭の門を叩く前に私の命が尽きると知ったアリスは、私の身体を改造することを決意した」
「へえ」
「それが礎だ。機械仕掛けというより、ゼンマイ仕掛けという方が正しいかな。私の身体は人形のようなものなんだ。アリスが望んでやまない自立人形の理想形は、もっと別の次元にあるみたいだが」
「ふうん」
 生返事しか返さない霊夢に、魔理沙はすこし声のトーンを落とす。
 霊夢は、冷笑も微笑も何もこぼさず、ただぼんやりと魔理沙を見ている。ありのままの魔理沙の言葉を聞いている。嘘か真か、本気か冗談か、そういう瑣末事は問題にならない。
 その向こう側にあるものを、霊夢は知りたいと思った。
 知って、どうするのか。それは、また後で考えるとして。
「正直、ね」
 魔理沙は喋り始めた。すこし、震えているようにも見える。
 寒いからじゃない。
 怖いから、か。おそらくは。
「事故を起こしたときのことは、ほとんど覚えてないんだ。ただ、研究記録にそう書いてあったから、そうなんじゃないかって推理しただけで」
 心臓から手のひらを離し、力なく床の上に腕を落とす。それがまるで糸の切れた人形のようで、ひどく示唆的だった。
「アリスは言ってたよ。『あなたにこれを突きつけるのは酷かもしれないけれど、あなたは、もう人間じゃない』――って」
 身体を支えている右腕を、左手で握り締める。
「なあ」
 魔理沙は霊夢を見上げる。
 霊夢は魔理沙と同じ目の高さまでしゃがみこもうとして、やっぱりやめた。それをすることは、あまり意味のないことのように思えた。
「霊夢は、どうしようと思ったんだ?」
 お互いに、ごく近い距離で見つめ合う。体温がほのかに伝わるような距離で、それでも、魔理沙の言葉が真実なら、彼女にはもう温もりと呼べるものは存在しないのかもしれない。
 青と黒の瞳の色が、お互いの虹彩に等しく映りこむ。
 霊夢は髪を拭く手をとめ、魔理沙の言葉を吟味する。じっと瞳を覗きこんでくる魔理沙にただならぬものを感じないでもないけれど、とりあえず、霊夢は丁寧に梳かれた魔理沙の髪を撫でた。
 くしゃっとする。
「あ、なにすんだ」
 むずがゆそうに霊夢の手を払いのけ、くしゃっとされた髪の毛を手櫛で整えようとする。拗ねた顔で。
 あまりにも予想通りの反応がすこしおかくして、霊夢は笑う。
「……なんだよ」
「ほら、あんまり変わってないじゃない」
 二秒ほど、時間が停止する。
 まばたきを一回、そして小さく息を吸う時間を足して、ちょうどいいくらいの間。
 小さなまつ毛に触れようと指を伸ばせば、ぼうっとしていた魔理沙がびくっとしてすこし離れる。驚いた表情を見られたのが悔しいのか、霊夢から目を逸らす。拗ねたように。恥ずかしがるように。
 またすこし頬が緩んだけれど、魔理沙が何も喋らなくなると困るから、ひとまずこのくらいに留める。
 それからしばらく髪を整える作業が続き、言葉を交わすこともなくなった。のぼせた頭も徐々に冷め、熱っぽく語っていた与太話がまるで嘘のように感じられる。
 もぞもぞと鏡の前で服を着る魔理沙から、悲哀や絶望といった感情は読み取れない。いつもどおり、何も変わらない。そう思えたからこそ、霊夢は言った。
「魔理沙」
 呼びかけても、答えはない。魔理沙はじっと鏡の中にいる自分と睨めっこをしていて、霊夢などいないかのように振る舞っている。
「もし、あなたがサイボーグでも」
 魔理沙は着替えを続けている。霊夢はまだ、タオルを身体に巻いたままだ。
 すこし寒い。
「私はお見舞いに来たんだから、お見舞いはするわ。家から出られなかった理由が、風邪でも、糸が切れていたからでも、ゼンマイを巻いていなかったからでも、きっと同じことなのよ。魔理沙の具合が悪いっていうのは、どれも共通することでしょ」
 セーターに首を通そうとして、髪の毛が引っ掛かる。もがいて、うんうん唸って、ようやく首が抜けた。ほっとして、やや赤らんだ顔が鏡の中に映る。
「だから」
「――ッひゃぅ!」
 魔理沙の首筋に、冷えた指先をわざと這わせる。完全に油断していた魔理沙は素っ頓狂な声をあげ、更に赤くなった頬を小さく膨らませて、霊夢を睨みつける。
「おぉ、おまえなあ……!」
「感度は良好ね」
「馬鹿にしてるだろ」
 にんまりと笑う霊夢に、魔理沙は怒る気も失せてため息を吐く。それを見て、霊夢はもう一度魔理沙の頭を撫でる。
 ふあ、と魔理沙が変な声を出した。
「魔理沙の身体が機械になったくらいで、私が態度を改めるとでも思った?」
 なでなで。
「……とりあえず、撫でんな」
「はいはい」
 急にしおらしくなった魔理沙に、母親のような笑みを浮かべる。
 手のひらが離れても、魔理沙の頭に、霊夢の手のひらに、その温もりは残されている。
「……ちぇ」
 慈愛に満ちた笑みを前に、魔理沙は悔しそうに舌を打った。
 魔理沙の頭から離れていく手のひらが、すこしだけ、大きなものに感じられたから。
「そうだったな」
 思い出したように、魔理沙は呟く。
「霊夢は、そうだったんだ」
 そして、納得したように頷く。
 霊夢はきょとんと目を丸くしていたが、勝手にさせておこうと着替えを始めることにした。
 いいかげん、服を着ないと身体に響く頃合だ。と。
「くちゅん」
 ……ああ、寒い。
 言わんこっちゃない。
「お。かわいいくしゃみ」
「うるさいな」
 からかわれ、照れくさくて、冷えるはずなのに、すこし頬が赤くなっていた。

 

 

 霧雨邸。玄関。
 冬の夕暮れは短く、山裾を吹き抜ける北風が霊夢の素肌を撫でる。魔理沙は玄関の扉の前に佇み、去り行く霊夢を見送ろうとしている。寒がりだから、すこし外に出るだけでもマフラーとコートは欠かさない。
 もし魔法の森に雪が降り積もっていたら、雪だるまのように丸くなった霧雨魔理沙を拝むことができたかもしれない。その姿を想像して、霊夢は暮れなずむ空を仰いだ。
 まだ、星は見えない。
「冷えるわねえ」
「明日は降るかもな」
 ポケットに手を突っこんだまま、ぶるっと身体を震わせる。
「なに、機械なのに寒いの苦手なんだ」
「甘いな、機械の方が寒暖に敏感なんだぜ。凍ると動かなくなるし」
「それは人間も同じなんじゃない」
 それもそうか、と感慨深げに頷こうとする。けれども、マフラーを強く巻きすぎてあまり首が下がらないようだ。苦しくないのか思ったが、彼女があまり気にしていないようだから、霊夢もあまり気にしないことにした。
 あれから、一時間ほど経った。
 温泉からあがり、着替えを済ませ、居間で紅茶を何杯か頂き、魔理沙の部屋で適度にくつろいだ。とてもお見舞いに来た人間の態度じゃなかったが、魔理沙も元気な様子だから、あまり気に掛けるのも不自然なような思えた。
 手のひらで熱を確かめても、脈拍を取ってみても、さして平常時と変わりない。五感も正常で、あるいは第六感も正しく機能している可能性が高い。魔法も、コールドインフェルノを使用できたことから察するに、問題なく使えると考えられる。
 だから、しばらくだらだらしたのち、霊夢は帰ることにした。
 することもないし。
 ごちゃごちゃしてるし。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
「うん。気をつけて帰れよ」
「うっかり爆発しないようにするわ」
「どんな状況だよ、それ」
「うんまあ、魔理沙みたいな?」
「ああ、うん」
 ふわりと浮き上がる霊夢の髪はもうとっくに乾いていて、冬の風にもたおやかに優しくなびいている。魔理沙は深く帽子をかぶっているものだから、風が吹いても滅多なことでは髪が揺れることはない。
「身体、壊さないようにね」
「心配性だな。アリスの腕は確かだぜ」
「あ、その設定まだ引っ張るんだ」
「設定とか言うなよ」
「そうね。言い出しっぺは、最後まで貫き通さなきゃいけないもんね」
「ま、そういうこった」
 やれやれ、と肩を竦める。自分から言い出したくせに、勝手に疲れているのだから世話はない。
 霊夢の身体が地面から浮き、一陣の風が二人を包む。温泉の残り香をかき消すような冬の風に、魔理沙は顔をしかめ、霊夢はまぶたを閉じた。
「またね」
「ああ」
 まぶたを開ければ、何も変わらない魔理沙がいる。
 ありきたりな別れの言葉を残して、霊夢は空に舞い上がった。蔦の絡まった家から遠ざかり、樹木の間隙を抜け、雲が近くなる。次第に強くなっていく風の中に身を躍らせ、ふと下を見れば、雪だるまのような少女がこちらを見上げていることに気付く。
 手を振ろうかと思い、別に二度と会えない訳でもないのだから自重する。魔理沙も、コートに突っこんだ手を冬の刺すような空気に晒す気にはなれないようで、ただぼうっと突っ立って霊夢を見ているだけだった。
 それでも、見送られるのは嬉しかった。
「もしかして、寂しいのかしら」
 身を翻し、魔理沙の家を後にする。
 風の音に耳を澄ませ、視界の端を行き過ぎる鳥の影にふと心を奪われそうになる。雪虫が空から舞い降りる。そんな季節か、と物思いに耽り、そして瞬きをしている間にきっと春が訪れる。早いものだ。何もかもが移り変わり、虚しく色褪せてはにわかに色付いていく。
 変わるものも変わらないものも、全てその輪廻に組みこまれているのなら、変わることそのものに善悪の概念を当てはめるのは無粋であるとさえ思う。
 けれど、この短い行き道において、変わっていくことの恐ろしさは確かにある。

 ――いや、私は一度死んだんだ。

 覚えている。
 何気ない軽口の中に、否定しきれない真意を見た。それも含めて、嘘吐きの彼女が計算した冗談なのかもしれない。それでもいい。嘘か真か、それすらもきっと些細なことでしかないのだ。
「冷えるわねえ……」
 呟く。
 視界が開け、大きな湖に出た。枯れ木が生い茂る山はそれでも凛と佇み、雪が積もれば幻想郷の屋根となって世界を支えるのだろう。
 魔理沙は、この寒さを感じているのだろうか。それとも、生身の身体を思い出して、凍えている振りをしているだけなのだろうか。
 あるいはアリスが作り上げた身体にはきちんと神経が繋がっていて、寒暖のみならず、痛覚や五感も備えられているとしたら、今までと同じように過ごせていてもおかしくはない。
 解剖してみても、人間と同じ構造をしている可能性がある。そうなったらもうお手上げだ。いちいち差異を挙げ連ねていくのも面倒くさい。
「やれやれ」
 口調を真似る。
 ……唯一、明確な違いがあるとすれば。
 生身でなくなったことに対する、自分と、他人の認識。
 人でなくなれば、人と接することは難しくなる。本人はそう思っていなくても、他人から拒まれることもある。逆もまた然りで、他人はどうでもいいと思っていても、本人は頑なに心を閉ざす場合もある。
 けれど。
 直接言うのは恥ずかしかったから、誰も聞こえない、自分にすら聞こえないくらい小さな声で。
「安心なさい」

 ――霊夢は、そうだったんだ。

 誰がどう変わろうとも、霊夢は何も変わらない。
 人も、妖も、霊も、神も、魔も、何に対しても、同じように接することができる。そんな霊夢だから、魔理沙がどんなふうに変わったとしても、その変化を受け入れていける。
 用意周到な冗談なら、また髪でも撫でてあげよう。
 もし性質の悪い真実なのだとしたら、それでもやっぱり、髪を撫でようと思うのだ。
 きっと魔理沙は嫌がるだろうけど、その様子を想像すると頬が緩んだ。寒さに引き締まっていた顔が、ほんのすこしだけ綻ぶのを感じる。
「……ふふ」
 加速する。
 温泉から得た熱はもうとっくに冷めてしまったから、早く家に帰って炬燵に潜っていたい。どっさり置いてあるみかんでもついばみながら、今日のこと、明日のことでも考えていよう。
 鳥居が見える。その上にはどこぞの妖が呑気に座りこんでいて、酒でも飲んでいるのか右に左にふらふらと揺れている。忙しない。ゆっくり休もうと思ったのに、どうやら思い通りにはいかないようだ。
「やれやれ、だわ」
 ため息をつく。
 真っ白に染められた息は、吐き出した瞬間に跡形もなく消え失せる。
 気が付けば、小さな雪が降り始めていた。

 

 

 

 



SS
Index

2008年3月3日 藤村流 @ O−81

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