磔刑 (cannibalism)
空はどんより曇っていて、見上げても星すら見えない。
そも、彼女の身体は薄らぼんやりとした宵闇で覆われているから、星の光などはっきりとは分からない。だが、そこに星があることは分かる。誰かに教えてもらった。
枝に腰掛け、足を投げ出して空を仰ぐ。後ろに体重を掛けても、重心が崩れることはない。飛べるからだ。
「……あ、いたいた」
足元を歩く影に、ルーミアは身を躍らせた。
それは人間だった。
/
それは十字架だった。
磔にされた人間が死んでいる。右手と左手に鉄の杭が刺さっている。足は脛の辺りが折られているようだ。脇腹から流れているのは、ワインではなく血液だろう。
みな、祈りを捧げていた。
ただ、祈りは届かなかった。
聖者はいない。
いるのは、生者だけだった。
空は綺麗に晴れていて、赤かったり青かったりする星が見える。
頭の真上には、まんまるの月があった。それは金色に輝いていたが、彼女の目には薄暗い円にしか映らなかった。
湖に顔を晒せば、何年も前から変わらない幼げな表情が映る。
湖面に浮いた月の形が、空を飛ぶ影によって断ち切られた。
「あ、いたいた」
夜を切り裂くように疾駆するそれを、ルーミアは追いかけた。
それは吸血鬼だった。
それは十字架だったが、吸血鬼が怯むことはなかった。
森の中に打ち捨てられて、妖怪は仰向けのまま空を仰ぐ。
「あー……」
星の色は透明だった。
「吸血鬼だから、十字架嫌がると思ったんだけどなあ……」
誰かに教えてもらった噂を確かめてみたのだが、結果は芳しくなかった。焼けた肌が夜風に染みる。
起き上がり、露に濡れた草むらに座り込んで膝を抱える。夜は寒い。
こんな夜に、外を出歩く者は少ない。人間なら尚更だ。
「……ん」
腹が鳴った。
人間が恋しい季節だ、と思った。
/
たまに、記憶がなくなる。
それでも、恐怖はなかった。人肌が温かかったからだ。
赤いものが身体の表面をのた打ち回っているけれど、それが何の赤なのかは分からない。
とりあえず、ぬめった手を洗おうと思った。
口の中に残っているねばねばしたものを吐き出して、足元のごみを蹴っ飛ばしながら、ルーミアは湖に向かった。
そんなことを、生まれてからずっと繰り返していた。
覚えはないが、きっと、多分。
湖に浸かってみた。
身体にまとわりついていた、べたべたは簡単になくなった。気分が良くなって、しばらく水の中で漂っていた。そこからは、晴れた空がよく見えた。
月の明かりは、ルーミアにこれといった力を与えない。
だから、彼女はあまり月に拘泥しない。まるっきり、自分とは関係ない存在として、不思議だなあと思いながら月を見る。
夜は見るものが少ないから、仕方なく、上に浮いている月を見るのだ。
だから、雲が出ている時は暇だった。
人間が出歩くことも、当然少なくなるから。
そこまで考えて、いつも人間のことばかり考えているなあ、と他人事のように思った。
「……さむっ」
湖に漂いながら、身体を抱き締める。
季節は、秋に入っていた。
/
磔刑を思えば、次に罪悪を思う。
自分はどんな罪を犯し、そして磔刑に処されたのだろうか、と。
簡単だ。
人間がいるから罪と罰があり、善と悪がある。
人間がいなくなれば、全て零だ。
そこに、正邪はない。
空腹を紛らわすために、湖の水を飲んでみた。
不味かった。吐きはしなかったが、気分が悪くなった。
「うぇー……」
赤い舌をべろりと出して、その表面を指ですすぐ。ねろねろと、粘ついたものが指に絡まり、それがまた気持ち悪くて、湖の黒い水で洗ってみる。
夜はとても静かで、目下のところ、ルーミアに干渉するものは何もなかった。
こんな時は、余計なことを考えてしまう。
月に魅入ってしまうのは、やはり、月の力によって生かされているせいなのかもしれない、とも思う。
「……ごはん、ごはんー」
何か、食べるものを。
飢餓状態では、何かを考えたところでろくな結論に達しない。
哲学に踏み込んでも、何も食えない。
それは、よく分かっていた。
「……あ、いたいたー」
もう一度、空飛ぶ人影を見付けた。
それは人間で、年若い女で、とりあえずは生きているように見えた。
死ぬイメージがある。
殺すイメージがある。
それは磔刑だった。
「聖者は十字架に磔られました」
と、ルーミアは言い。
「あっそう」
と、霊夢は言った。
「見た感じ、私は急いでるように見えたと思うけど」
「あなたは食べられる?」
「知らん」
人間は、十字架を模した妖怪の中心に、力強く祓い棒を突き出した。
「いたっ」
右手でそれを受け止めると、血のような黒いものが流れた。
左手でも掴もうとすると、その前に祓い棒は手の中からするりと引き抜かれた。
痛みよりも、空きっ腹が身に染みた。
「……お腹空いたー」
「森の中に茸とか生えてるから。あと湖には魚がいる。藻も苔もボウフラも」
「でも、高級食材ー」
「それが人間だって?」
こくり、と頷いた。
やれやれ、と肩に祓い串を乗せて、霊夢は御札を取り出した。
「本当に、釘付けにされたい?」
「でも、私は聖者じゃないよ?」
「磔にされるのは、磔にされる適当な理由がある全員よ」
「そう?」
難しいことはよく分からない。哲学はもっと分からない。
ただ。
「磔にされるから聖者じゃない。聖者だから磔にされる訳でもない。今で言うなら、私はあんたを磔にしたいから磔にする。妖怪だからじゃない。罪を犯したからじゃない」
この人間は、凄く単純なことを言っている。
「邪魔だから、どきなさい」
「嫌だよー」
と、ルーミアは言い。
「あっそう」
と、霊夢は言った。
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妖怪が人間を食べ、人間が妖怪を退治する。
磔刑のモチーフを妖怪自身が演じるのは、妖怪が罪の意識を感じている象徴と言えるだろう。
などと。
今更どうしようもない答えが、脳裏を横切った。
ならば。
ならば私は、裁かれたいのだろうか。
湖に浮きながら月を見ている。
闇の中で輝いている月は、相も変わらず薄暗い。
身体にまとわりついていたものが、水なのか血なのかよく分からない。
あるいは、自分の血か、他人の血かも曖昧だった。
「う……ん」
まあ、いいだろう。
どうせ、痛みはない。
何だか眠くなってきたので、ふわふわと水に浮いたまま寝ようと思った。
考えるのはもうやめだ。
星がなくなって、月がなくなったのは、瞳を閉じたからだと分かった。
空には十字星がある。
磔刑に処せられた星が、磔刑を望む妖怪を見下ろしている。
OS
SS
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2005年12月22日 藤村流 |
東方project二次創作小説 |