むしのね
「あぢー……」
じとじとと暑い夏、湿っぽくて、爽快さのひと欠けらも感じられない夏。
秋の虫、時節がらその本領を発揮できない妖怪も、茹だるような熱気に顔をしかめていた。
木陰に潜み、流れる汗を拭い取る。項垂れた触覚が太陽に土下座しているように見え、負けてたまるかと気を引き締める。
「……でも、あぢー……」
すぐにぐにゃりと項垂れる。仕方ないから、そのまま前に進む。
魔法の森に、普通の人間は住めない。棲めるのは妖怪か何も考えていない動物か昆虫か、それくらいなものだ。好き好んで棲み付くのは自由だが、責任は自分で取れというのがここの流儀である。
樹木の上を飛んでいれば、まだまだ青臭い枝葉を掻き分けながら突き進む必要もない。が、それでは変化が読み取れない。
劇的な変容は、多大な犠牲を招く危険性がある。起こるべくして起こった事件なら、一介の妖である自分にどうこう言える問題ではないが。
「……ふん」
鼻で息をしてしまうのは何故だろう。口内に虫や菌が入り込まないようにするためだと、言い訳気味に納得させる。
見慣れた森を歩く。途中、すれ違う羽虫に目を配り、足元を這う百足に道を譲る。
虫は人語を解さず、脳も極小であるために大した意志疎通が出来ない。
が、彼女は頭部に備わっている触覚により彼らの存在と思念を知覚し、ある程度の理解と助力を得ることが出来る。
彼女は、虫の王ではない。
友人だ。
「……ん。いた」
普通の人間だった。先頃、森に居付いた奇妙な魔法使い連中ではない。
大樹の根元に突っ伏し、薄い麻の服が所々擦り切れている。だが、致命的な傷は見当たらない。出血はなく、ただ意識だけが無いようだった。
「……ふーん」
人間は、男だった。
長身痩躯、それ以外に特徴と呼べるものはない。腰に巻き付けた革の帯と、その端にくくり付けられた年代物の袋が印象的ではあった。これといった武器も見当たらない。警戒は、必要ないだろう。
虫は、時折人を喰う。
五尺を越える蚊に血を吸われれば、大概の人間は死に瀕する。便宜上それらは妖怪と呼ばれるものだが、虫であることに変わりはない。
一応、声は掛けてみる。
「死ぬよー」
反応は、ない。放っておくことも出来ずに、人間の正面にしゃがみこんだ。
夜はまだ遠いが、安穏と午睡を貪っている余裕がないのも事実だ。虫である自分が、食料である人間に逃走を促すのも奇妙な気はするけれど、人間など喰わなくても彼女たちは十分に生きていけるし、人間を敵に回すと後々厄介になる場合もある。例えば、あちらとこちらの境界に棲む、紅と白の傍迷惑な巫女だとか――。
「……ぅ」
「あ、起きた」
呻き、額に手をかざしながら上半身を起こす。
彼は、何度かまぶたを擦り、目の前にしゃがんでいる何者かを確かめる。リグルは、己の触覚を何度か撫でつける。男が、そこに注視していることに気付いたからだ。虫には珍しくもないが、確かに、人にはこういった分かりやすい機能はない。訝しむのも当たり前だ。
男の目線が徐々に下がっていき、リグルの容姿を捉える。リグルもまた、目を離さない。
緊張感のない睨み合いは、十秒ほど続いた。その間に、リグルは彼に致命傷を与えることも出来たし、彼は一目散に逃げることも出来た。だがいくばくかの間が空き、互いが互いの存在を認識してしまった。これではもう、どちらか一方のみが行動を起こすことは出来ない。
次に動けば、どうやったって相手も動く。
リグルにはどうでも良いことだが、人間にとってはどうだろうか。
ただ、だからこそ彼の動きに興味を惹かれる。この人間は、妖怪を目撃して、認識して、それからどう行動するのだろう。
――面白そう。
不謹慎ながら、彼女はそう思ったのだ。だから。
両手は顎の下に置き、見詰めるまま、見詰められるままに濃緑の瞳で視線を交わす。
「……あ、あんた」
「なに?」
土に膝を付き、肩の擦り傷を押さえながら、震えた声で尋ねてくる。
そこでようやく、合っていた目が逸れた。
「……誰なんだ、一体。あんたみたいなの、この近くには……」
「あぁ、見たことないんだね。妖怪」
「……妖、怪」
「そ。妖怪妖怪」
あっさりと人外の存在であることを認め、何度もその言葉を繰り返す。男は、信じられないといった表情でリグルの触覚と容姿を交互に窺う。まさか、伊達や酔狂で頭に触覚を生やしている人間と思われている訳ではないだろうが、リグルは少し心配になった。
「信じられない? てか、珍しいね。妖怪を見たことないなんて」
「し、仕方ないだろう。いることは知っていたが、うちの近くには、ほとんど現れないから……」
「ふーん。随分と平和なんだねぇ、あんたの住んでるとこ」
「……そうかもしれない」
口調は、いささか重い。
気軽に言った後で、彼の身体が心なしか小刻みに震えていることに気付く。恐怖か、病か、それとも先天的なものか。いずれにしても、興味深い。
今一度、彼の姿を一瞥する。
生気に満ちた、というには疲れた顔をしているものの、成人を迎えていないだろう。若く、瑞々しい。容姿の良し悪しは分からないが、適当に整っているように思える。体付きも逞しく、力だけなら押し負けるかもしれない。そう考えてみて、意味のない想像だと切り捨てた。
人間と妖怪は違う。
彼らにとっての恐怖の象徴であるものが、力のみで屈するはずがない。
でなければ、妖怪が存在する意味などない。
「それで、どうするの?」
「……何が」
お互い、白々しい問答だと感じたに違いない。
人間と妖怪が相対して、行うことはそう多くない。思慮ある者は逃げるだろうし、慢心している者は闘うだろう。時に話したり語らったりすることもあるが、それは、力のあるものにのみ許された権利だ。
リグルが思うに、彼にそんな力はない。
妖怪と対しながらも、我が道を貫くだけの意志がない。
それが、残念と言えば残念だった。
「どうする? 折角だから、道はあんたに選ばせてあげる」
「……道?」
知らない振りをしたまま、問い返す。
仕方ないから、リグルは彼が選ばなければならない道を言葉にして示す。
ため息が出てしまったのは、少なからず失望があったせいかもしれない。
「そうだね。そんなには多くないよ。逃げるか、戦うか。それとも、諦めるか。番外として、しばらく話すってのもあるけど、そうそう余裕こいてる時間もない。何故なら――」
「話す」
――何故なら、逢魔ヶ刻が近いから。
と、言おうとした喉は、矢継ぎ早に返された彼の声に詰まらされた。
それでも、惰性によって残された言葉が吐き出される。
「――んだけど、も」
「話す。逃げるのも、戦うのも、性に合わない……なら、他に道はないじゃないか」
「そりゃー、そうかもしんないけどさ……」
肩に触れていた手が離れて、膝に付いた草を払う。臨戦態勢、というよりは、場所を移そうという意思表示に思えた。
不意に、ため息がこぼれた。
諦めるという道を選んでしまったのは、どうやら自分の方だったらしい。
夜は妖怪の世界である。
珈琲に一滴のミルクを垂らしたところで、その漆黒は色褪せない。人間が夜の世界に好んで飛び込むのは、闇に取って食われる覚悟があってのものだと理解される。
夜を好み、夜を行き来する妖怪たちには。
だから、異様と言えば異様ではあるのだ。逢魔ヶ刻の最中、妖怪に嬉々として話しかける人間がいるというのは。
「どうして、人間みたいな姿をしてるんだ」
「知らないわよ、そんなこと。生まれた時からこの形だからね。あんたもさ、どうしてそういう体してるんだって言われても、困るでしょう?」
誰かと話す時は、相手の目を見るべきだ。そう言われたのは何時で、誰からだったろうか。今はもう、思い出すことさえできない。
彼も、覗き込まれるまま、リグルを見詰め返した。
「それも、そうか」
「そうそう」
頷き合う。
だが、こういう人間もいるのだと知っているリグルには、この程度の異常など異常に値しない。変わった人間もいるんだなぁ、と思って、明日には忘れる。それくらいささやかで、他愛もない変化に過ぎないのだ。
また少し、心の中の虫がざわつく。
変化や異常を思う度に、胸の奥がざわざわと蠢く。妖怪は、変容を望んではいけない生き物なのかもしれない。それは、人間の特権だから。
「そういや、震えなくなったね」
「……ん、あぁ。そうかもしれない」
些細なことに思い煩うのが嫌で、隣の人間に話しかける。
「怖かった?」
橙色に染まった横顔が、縦に動くのを見た。それから、しばらく押し黙る。
リグルと彼がいる場所は、沼と呼ぶには広く、湖と呼ぶには狭い水場だった。見晴らしがよく、奇襲を受ける心配もない。いざとなれば、すぐにでも逃げられる環境だ。だが、彼は逃げない。逢魔ヶ刻も近いのに、帰る気配もない。
彼は、また口を開いた。
「……探し物をしていた」
「こんな森の中を?」
彼は頷いた。覗き込んだ瞳に、恐怖や狼狽を越えた意志の光が宿っている。
リグルは、ほんの少し気圧された。
「絶対に、見つけないといけない」
「ふうん。見つかるといいね」
何の気なしに、彼を応援する。まさか妖怪から激励されるとは思っていなかったのか、彼の眼に驚きの色が浮かび、次第にその色が柔らかいものに戻っていく。
「……ありがとう」
「手伝わないけどね。ま、いざとなったら、骨くらいは拾ってあげるよ」
「縁起でもない……」
うなだれる。
その情けなく丸まった背中を見て、リグルは笑う。彼は笑わなかった。あまりにも薄い反応だったものだから、リグルは少しむっとする。
「無愛想だねー。そんなんじゃ、女の子に嫌われるよ?」
「……妹にも、よく言われた」
呟く。
「ほら。今からでも遅くないよ、ヒトの命は短いんだから、ちゃんと子どもを増やさないと」
「そうだな」
妖怪といえば妖怪らしい、虫といえば虫らしい思考に短い言葉を返し、彼はようやく重い腰を上げた。
その視線の行き着く先を辿っていると、自然、リグルと彼の目が合う。
「世話になった。妖怪でも、あんたみたいのもいるんだな」
「ま、なんでもかんでもヒトを喰うのばっかりじゃないからね。味の好みもその日の気分も、時の流れもありますから」
やれやれとばかりに肩を竦め、リグルもマントを翻して岩の上に雄々しく立ち上がった。
「じゃあね。夜は思うより足が速い。妖より先に、夜に食って喰われないように」
それだけを言い残し、黄昏の空に舞い上がる。
森の外まで付き添っても、彼の背中を見送ってもよかったのかもしれない。だがリグルは、ここで線を引かなければならないと思ってしまった。人と妖と、その境界が曖昧になる逢魔ヶ刻に、異なる生き物がふたり並んで話を続けるのは、あまりよくないことのように思えた。
眼下に、蛍が寄り添いあう水辺が見える。
そのほとりに彼の姿を確認しようとして、結局、どこにもいないことを悟ってから、リグルは胸に突き刺さっている棘のような痛みを感じた。
「あれ……、なんだろ……」
左の胸を押さえながら、顔をしかめる。
遠く、蛙の鳴き声が木霊する。視界を行きかう虫の数はそれこそ無限に等しく、それら全ての存在と意志疎通できるほど、リグルの力も強くはない。
触覚が、ぴくりと動く。
一度、二度、風に揺らされたわけでもないのに、ぴくりぴくりと蠢く器官に疑問符を浮かべたまま、リグルは己の寝床に帰る。
森の夜は足が速い。
妖ですら、夜に喰われることもあるのだから。
「こわい、こわい」
冗談めかして、リグルは苦笑した。
彼は、その後も森に姿を現した。
リグルも、しばしば彼と遭遇し、暇があれば話をした。忙しければ、声もかけずに通り過ぎた。
「探し物、まだ見つからないの」
「あぁ、まだ」
話す時は、決まってお気に入りの水辺に誘った。人間は水を甘いと思わないそうだが、それでも水を求める感情は同じだろうと思った。
会話は一言二言で終わることもあったし、小一時間話し込むこともあった。甲論乙駁することもなければ、感情を吐露することもない。
リグルは彼が何を探しているか尋ねることはなかったし、彼はリグルの名前を聞くことさえなかった。
「見つかるといいね。探し物」
「必ず見つける。誰が何と言おうと」
「ま、思い詰めるのもよくないよ。眼はふたつしかないんだから、カッカしてちゃあ、見えるものも見えなくなる。触角のない人間の辛いところだね」
「……そうだな」
彼は、独り言のような返事をすることが多かった。
何度会っても、服装も髪型も瞳に灯る鈍い輝きも変わらない。腰のベルトに引っかけている袋は、会うたびに少しずつ膨らんでいた。きっと探し物に関係するものが入っているのだろうと、リグルはそれについて尋ねることはなかった。
時折、彼は身体に傷を付けて現れることがあった。
大きなものはなかったが、彼があまりに頓着していないものだから、リグルは少し心配になった。
「傷」
「すぐに治る。それに、大して痛くもない」
と、彼はにべもなく答える。
こうなると、リグルも返す言葉がない。
「そりゃー、そうかもしれないけどさ……。あんまり感心しないね。血の匂いは妖を惹きつける。わざわざ、自分から身を危険に晒すこともないじゃない。ま、死にたいっていうんなら話は別だけど」
彼の頬に刻まれた切り傷から、一筋の血が垂れている。顎まで垂れた血の川を、リグルは人差し指で拭い取る。彼は抵抗しない。今更、リグルを恐れてもしょうがないというふうに。
実際、リグルの中にも彼を襲うという選択肢は存在しないのだが、こうも気が緩んでいると、リグル・ナイトバグの妖としての格が下落しているような気さえする。
彼は、手の甲で重く下がったまぶたを擦りながら、言う。
「その妖というのは、あんたのことかい」
「……うぇ?」
考え事をしていたせいで、名指しされていることに気付かず、変な声が出てしまう。その姿こそ気の抜けている証拠だというふうに、彼は、初めて表情を緩めた。
リグルは、きょとんと目を丸くしていた。
「あ、私のことか。いや、私は何となくで」
「わかってる」
「……何よそれ。虫だから、ヒトの形をしてるからって、舐めてもらっちゃ困るわね。これでも、ヒトを根絶やしにするくらいの力はあるんだから」
「そうかい」
威嚇するリグルにも、彼は動揺する素振りさえ見せない。よっぽど、腕の肉でも噛み千切ってやろうかと思ったリグルだが、岩に腰掛けたまま、ぴくりとも動かない彼を見、彼が疲労困憊していることを察すると、軽口を叩くことも出来なくなった。
一体、何がここまで彼を突き動かすのだろう。
わからなかった。
けれど、彼にそれを聞くのも躊躇われた。
所詮、妖にはわからず、人にしかわからない動機なのだとすれば、リグルはもう何も言えなくなるのだから。
「傷、塞いで」
「大丈夫」
「ダメ。塞ぎなさい」
この場を立ち去ろうとする彼を、強い眼差しで遮る。渋々、彼は再び岩に腰掛ける。リグルは、水辺からきれいな水を掬い、傷口を縫うように優しく塗る。
手のひらが、彼の頬を覆う。
袖口から滴る水が、リグルの腕にじわりと染み込み、浅く冷たい感覚を得る。
「よし、治った」
「……本当に?」
「信じたくなきゃ、別にそれでもいいけどね。傷口から虫を寄生させたかもしれないんだし」
「……それは、ないかな」
リグルが触れていた頬を、彼はそっと撫でる。血は止まっていた。たったそれだけでも、妖の目を騙すことは出来る。たったそれだけのことが、森においてこれ以上ない気遣いであることを、彼も、リグルも、自覚してはいなかった。
彼が立ち上がる。
「……あんたには、世話になりっぱなしだ」
「いいのよ。暇潰しの相手が誰かに喰われちゃ、面白みがなくなるわ」
「それもそうか」
口の端を歪め、浅く笑う。
それにつられて、リグルも小さく微笑む。
逢魔ヶ刻。
彼と別れて、彼の背中を目で追いながら、世界を染め直す斜陽に思いを馳せる。
水辺は橙に染まり、空はいずれ湿った暗黒に塗り替えられる。
彼も、この夕焼けを見ているだろうか。
そして、自分と同じように、暮れてゆく空におぼろげな恐れを抱いているのだろうかと、リグルは夢想した。
森には多くの虫が棲んでいる。
それは羽虫や毛虫、昆虫の類に留まらず、人間の常識を超えた巨大な虫が存在することを意味する。
たとえば、六尺ほどもあるカマキリ、墓石と見紛うばかりの蜘蛛、大木を噛み砕く顎を持つ蟻など。
リグルは、例の水辺に素足を浸し、傍らに巨大なカマキリを携え、独り言のような会話を続けている。無論、カマキリは何も語らない。ただ、無機質な複眼が時折リグルの顔を覗き込むだけである。
「そう、変わりないのね。ならよかった」
カマキリは、頷くでもなく、巨大な鎌を水面に付ける。その行為に何の意味があるのか、あえて追求する意味もない。当人でさえ、何故そうしているのかわからないかもしれないのだ。
「子どもは?」
カマキリの横顔を見る。顔色、などという便利なものはなかったが、カマキリが何を伝えたいのか、それだけはリグルにもわかった。言葉にはできないけれど、わかる。感覚として理解できる。その証拠に、リグルの触覚と、カマキリの触覚が同期するように、小さく揺れていた。
「そっか。ちゃんと、ごはん食べてるんだ」
よかったー、と胸を撫で下ろす。爪先で蹴った水は、少し離れたところに穏やかな波紋を作る。カマキリが、浮かんでは瞬く間に消える波紋を見据える。
この冬は、ひどく長引いた。
春に目覚めるはずの生き物も目覚めず、覚醒した頃には既に春の恩恵に預かれないものも多かった。それ故、虫たちの食料が不足した。虫の数は、ヒトと比較にならないくらいに膨大である。そして六尺を越えるカマキリともなれば、食べる量も尋常ではない。その分、生命力は通常のカマキリに及ぶべくもないが、それでも限度はある。
だから、リグルは彼らのことを心配していたのだ。どこかで朽ち果ててはいないかと。
通常、カマキリに親と子の情はないとされる。が、このカマキリには、それがあるのだ。少なくとも、リグルはそう捉えている。あまりに大きな個体だから、彼自身が妖に近い存在と化し、その子もまた妖に等しい個体となっている可能性もある。
カマキリは何も語らない。
伝えるべきことは終わったとでも言うように、カマキリはリグルに背中を向け、鈍重な足取りで森の中に消えていく。そのすらりと伸びた緑の背中を見送りながら、ふと、リグルは吐息を漏らす。
「よかった」
滞りはない。多少の問題を孕んでいても、森は常に安泰である。自然の中に生きるものは、自然の流れに沿う。雨を憎まず、日照を憎まず、雪を憎まず。繰り返す季節の変化に戸惑いこそすれ、その枠から逸脱することはない。
自然に生き、自然に生かされている。
その自覚を、彼らは常に抱いているのだ。
「……ん」
気配を感じる。
ちょうど、カマキリが消えた方向に目をやると、そこに例の男がいた。腰に袋を提げて、疲れた足取りで、生きているのか、死んでいるのか、それさえ判然としない瞳を光らせて。
「……ああ」
リグルに気付くと、彼は呻き声のような挨拶をした。
何か、様子が違う。
疲弊しているのは相変わらずだが、今日は、瞳の焦点が合っていない。あの袋は、以前見た時よりも大きくなっている。決して大きくはない袋の底に、滴るような濁った染みが見える。あれはなんだろう。
だが、今はそれより憂慮すべきことがある。
「だ、大丈夫……? 何だか、今にも死んじゃいそうな顔してるけど」
「……違いない」
自嘲する。
自嘲して、地面に膝を突いて、そのままうつ伏せに倒れ込む。
受け身も取らず、口をきつく縛った袋も投げ出して、それこそ死んだように倒れ込んだ。
「……え?」
冗談かと思った。
死んだふりでもしてからかっているのかと、彼のぼさぼさ髪を爪先で突いてみる。けれど、何の反応もない。耳を澄ましても、呼吸の音さえ聞こえない。
無音。
死。
「嘘」
それを自覚した瞬間、リグルは彼の身体を引っ繰り返して、心臓のある場所に耳を添えていた。
弱々しく、それでも確かに脈打つ鼓動に安堵する。
だが、予断を許さない状況であることには変わりない。
息を呑む。
「……ちくしょう。変なの背負い込んじゃったな」
一体誰が畜生なのか、それについては考えない。究極的には、どちらも同じ生き物だ。
そして、今しなければならないことに思いを巡らせ、リグルは彼の身体を力強く背負い込んだ。
リグルの棲み処は、妖精たちと同じく樹の上にある。
それほど豪奢でもなく、森の中に溶け込み、一度通りすがっただけならまず気付かない。寄らば大樹の陰、木の葉の中に隠された小さな家を探し出すのは、探索能力に秀でた妖怪でも困難を極める。
虫は自然に擬態する。
木の葉に化ける蝶、木の枝になりすますナナフシ、彼らの力をほんの少し借りるだけでも、身を隠すには十分すぎるほどの効果がある。
部屋の中に目立った物はなく、ただその身を横たえるための簡素なベッドだけがある。無論、布団など敷いた日には湿気と熱気で瞬く間にカビの餌食になるから、昔、里の職人が作ったそのままの姿でどかんと置いてあった。
リグルは通常、外でも楽に寝れるから問題はない。が、たまに平らな場所で眠りたいと思うこともある。贅沢だが、それも妖怪なりに文化的な思考なのだろうと自分を納得させていた。
その場所に、今は人間の男が眠っている。
息は低く、耳を澄まさなければ呼吸をしているかどうかさえ怪しい。リグルはベッドの傍らに、膝を抱えて座り込んでいた。
やるべきことは、全て尽くした。
薬は飲ませた、体勢も楽にしている、これ以上静かな場所もないだろう。あとは、彼が目覚めれば問題はない。
問題はないのだ。
「……暇だなあ」
呟く。
逢魔ヶ刻の支配を脱し、リグルの家にも宵闇の影が落ちている。暗闇に慣れた瞳は、彼の様相を完璧に把握していてる。昼と夜と、光の量に差があろうとも視力には何の影響もない。
今や既に妖の刻、人間は、家に帰っていなければならない。
でなければ、妖に攫われても文句は言えない。
「私のことかー」
似合わないと知りながら、自嘲してみる。
「……う」
呻き声がする。
リグルはすぐさま立ち上がり、ベッドに寝転んでいる彼の側に駆け寄った。
しっかりとまぶたを開けて、彼は目覚めた。疲れがあるのはやむを得ない、それでも、意識はある。
リグルは、安堵のため息をつく。
「よかったー……」
ベッドの端に手をかけて、項垂れるように首を下げる。その姿がどことなく謝っているように見えたのか、彼は少し申し訳なさそうに口を開く。
「……迷惑をかけた」
「あ、うん。ものすごく迷惑だった」
何か予定があったわけでもないが、人間ひとりに激しく振り回された。それは間違いなく迷惑なことだったし、ある程度の時間と労力を消費したことも確かだ。
けれども。
「まあでも、無事でよかったよ。あれで死なれでもしたら、何だか私が殺したみたいで立場が悪くなるもん。目覚めも悪いし後味も悪い。だから生きててよかったわ、うん」
薄く、まぶたを開けている彼に、あっけらかんとした調子で語りかける。口を引き結んでいた彼も、リグルのさばさばとした態度に毒気を抜かれて、強張っていた表情をふっと緩めた。
深く、長く吐き出された息が、部屋の天井近くに昇っていく。
「疲れていたんだ」
「それは、見りゃわかる」
「あんたがいなかったら、きっと死んでいたと思う」
腰に手を当て、年長者ぶった態度を取っているリグルに、彼は至極真剣な眼差しを送る。
「あんたがいてくれてよかった」
間を置かずに、彼は感謝の言葉を告げた。
きょとん、と目を丸くするリグルをよそに、彼は瞳を閉じる。それから程無くして、小さな呼吸が一定のリズムで鳴り響き、彼が眠りに就いたことを知らせてくれる。
リグルはまだ、彼に何を言われたのかよくわかっていなかった。
「へんなの」
とりあえず、そう結論付ける。
変な人間と取り合いになったものだと、けれども暇潰しにはなるから、退屈しないですむかもしれないと心の片隅でほくそ笑む。
窮地を脱し、気の抜けたリグルは大きく欠伸をする。
両手を伸ばし、首を鳴らしてぐるぐると回していたとき、視界の端に薄汚れた袋が目に留まる。
初めて会ったときから、彼がずっと持っていた袋だ。
会うたびに少しずつ膨らんでいき、初めは拳ほどもなかったそれは、今や人の頭ほどの大きさになっている。こうなると、持ち運ぶのも一苦労である。
リグルは、これが彼の探し物に関係していることを何となく理解していたから、その袋も一緒に家の中に運んでいたのだ。ベッドの横に置いてあるその袋は、先程と同じように、底の部分が黒く汚れている。
あれはなんだろう。
「なんだろなー……」
一歩、足を前に出して、床を踏む前に、止める。
人のすることに深く踏み入ってはいけないのだと、妖の部分が警鐘を鳴らしている。所詮は違う生き物なのだと、食べるものも、考えることも、共に生きることさえ滑稽な、時間の感覚さえ異なる存在なのだと、誰に教えられたわけでもないのに、そう信じ込んでいた。
リグルが彼の名前を知らないのも、彼がリグルの名前を聞かないのも、お互いに、人と妖の隔たりを自覚しているからだ。
逢魔ヶ刻を越えてはならない。
だのに、この夜の中、彼は妖の巣の中にいた。
「それ、私のことじゃんね……」
独りごちる。
「ま、いいや」
あまり深く考えないことにする。
二歩、三歩目を簡単に踏み出し、袋の傍らにしゃがみ込む。彼の寝息が耳に近い。ぎしぎしと軋む床の音にも反応しないのだから、多少、紐を解く音がしたところで目覚めはしないだろう。
そう思った。
「では」
ご開帳、とばかりに紐に指を掛ける。気がつけば、紐も黒く汚れている。よほど乱暴に扱ったのだろうかと、首を傾げる。
袋の感触がずしりと重くのしかかり、緩んだ袋の口から何かの匂いが漂い始める。何の匂いだろう。嗅いだことのある匂いなのに、何故だかすぐさま思い出せなかった。
疑問ばかりが頭をよぎる。
それでも紐を解く力は緩めず、袋の口が完全に開き、重心が傾いた袋は、先程の彼と同じように、力なく床に倒れた。
ばらばら。
「あっ」
リグルが慌てて手を伸ばしても、袋を支えることはできずに、中身が一斉にばらまかれた。
これはなんだろう。瞳を凝らす。嗅いだことのある臭い、見たことのある物体、ばらばらと崩れ落ちたばらばらの部位。
袋の底には赤く黒ずんだ染みが出来ていた。
掻き集めて、ジグソーパズルみたいに組み合わせれば、一刻も早く組み合わせれば、ちゃんと元通りに動き出すんじゃないだろうかと、青ざめた表情で、他人事のようにリグルは空想した。
ばらばらの脚を見る。
頭部もある。複眼もある。鎌もあれば腹部もある。何もかもだ。それはカマキリの部品であって、亡骸で、死骸だった。中には腐りかけているものもある。一匹をばらしたところで、これほど多くの死骸は生まれない。何十、何百、いずれにしても膨大な数のカマキリが殺された。
殺されたのだ。
「……ううぅぅぅ!」
ようやく、口を押さえる。
畜生、畜生と、跪き、何かに対して呪いの言葉を吐き続ける。吐きそうで、涙が出る。気持ちがわるい。感情が入り乱れ、意味のある言葉を吐き出せそうにない。居の中に溜まっている何かしらの液体なら、すぐにでも吐き出せるのに。
……彼は。
数百ものカマキリを殺し、その死骸を袋に詰めていた。
嗚咽を漏らすリグルの横で、彼のまぶたが静かに開いた。
耳鳴りがする。
鼻の奥が焼けただれているような錯覚を抱く。頭が熱い。視界は涙で滲んでしまっていて、正しく物事を把握できない。夜にあっても、妖として正しく動けそうになかった。
だから、後ろに彼が立っていることにも、早々に気付けなかった。
「そうか」
リグルが振り向くと、そこに死相を浮かべた彼が佇んでいた。最悪の事態は脱したといえども、体調が万全でないのは明らかである。身体は常に小刻みに揺れ、瞳は何処に焦点が合っているのかわからない。
それなのに、その眼に灯っている輝きだけは、不気味なほどに眩かった。
ぞっとする。
「見たんだ」
怒っている様子ではなかった。ただ、リグルが袋の中を見た、そのことの確認だけを取っている。リグルが涙を流していても、憤怒や悲哀、絶望のような感情を露にしていても、特に何の反応を返すこともなかった。
彼は、しゃがみこんだリグルを一瞥すると、再び、カマキリの死骸を袋に掻き集める。
しばらく、リグルは何もできずに彼の動きを眺めていたが、突然、機械的に動く彼の腕を乱暴に弾いた。
「触るな!」
頭が熱いのだ。余計なことは何も考えられない。けれども理解してしまったことは確かにあって、それは彼が数多くのカマキリを殺していたことで、そのばらばらの死骸を袋に詰めこんでいて。
その最中に、リグルと他愛もない話をしていたこと。
「……なんでよ」
問う。
腕を振り払われた彼は、相変わらず疲れ切った表情を晒したまま、リグルを眺めている。
「なんで、こんなことをしたの」
声が震えている。
同胞はまだ床に散らばっている。片付けなければならない。弔わなければならない。死んだものは土に還すのが道理だ。ならば殺されたものは一体どこに還ればいいのだろう。親より先に死んだ子は、地獄にすら行けずに賽の河原で石ころを積み続けなければならないのか。
酷い話だ。
「なんでだよ……」
俯き、言葉を繰り返す。
理由を聞いたところで、どうにもならないことはわかっている。時間は決して巻き戻らない。死んだものは生き返らない。懺悔も後悔も反省も改悛も、死んだものを蘇らせる力さえない。
それでも、聞かなければしょうがなかった。
薄暗い沈黙の中、彼が、重い口を開く。
「妹が死んだ」
感情のこもっていない声だった。死んだもののことを語っているのに、リグルのような慟哭も、悲哀も感じられない。感情を殺しているというよりか、本当に、何も感じていないのではないかと思わせるほど。
彼は続ける。
「森の中で、はらわたを食い散らかされて、死んでいた」
背筋に冷たいものを感じる。彼の表情は何も変わっていないのに、何故か、部屋の温度が確かに下がるのを感じた。
彼は続ける。
「見つけたのはおれだった。なかなか帰ってこないから、心配して探しに行ったんだ。そしたら、死んでいた。はじめは、妹に似てるな、と思った。いろんなところが喰われていたから、眼とか、頬とか、腕とか胸とか脚も。でも服だけは残っていた。ああ、これは妹なんだなって、納得した」
この時ばかりは、彼も饒舌だった。低い声で、遥か昔に起こった歴史上の出来事のように、詰まることもなく淡々と語り続ける。
途中、嗚咽を漏らしたり、眼を泳がせることもなかった。冷静そのもののように見えた。彼にとって、妹がどれほど大切な存在だったのか、リグルにはわからない。だが、大切な存在でなければ、彼が危険を冒してまで森の中に足を踏み入れることもなかったろうと思う。
彼は続ける。
「傷痕が、ちょうど、カマキリの鎌に切られたみたいなんだ。里の人も、森で大きなカマキリを見たことがあると言っていた。だから憎いのはカマキリだけだ。ばらばらにしたいのも、その大きなカマキリだけなんだ。でも、探しものがあるから、他のカマキリもばらばらにしなくちゃいけない。見つけなくちゃいけないから、しょうがないんだ」
しょうがないんだよ、と彼は反復する。
理屈が通っているようで、理解できない部分が多すぎる。彼も、わかってもらおうと思って喋っているのではない気がする。ただ、袋の中身がぶちまけられたのと一緒に、彼の中に溜まっていたものが、一斉に溢れ出しただけなのかもしれない。
リグルは思い出していた。
朝、六尺を越える大きなカマキリに会った。
子を持つそのカマキリは、ごはんはたべていた、と言った。
だが、何を食べていたのか、リグルは聞いていない。
巨大なカマキリだ、蝶や蜘蛛をいくら食べてもなかなか空腹は満たされまい。
まして、カマキリは肉食である。
「……なんなんだよ、これ」
これ以上は、考えなくてもいいことだ。考えても、しょうがないことだ。
彼は続けた。
「返してやりたいんだよ。妹の眼と、頬と、腕と脚の肉と、よくはわからないけど、お腹の中の腸を」
不意に、彼は微笑んだ。
「きれいな姿で送ってやりたいんだ。だから、カマキリの腹の中に残ってないかと思って、ずっと探していたんだ。早くしないと、妹が不恰好なまま三途の河を渡っちまう。折角の晴れ姿なんだ、せめて、最期の最期くらい、きれいな姿でいさせてあげたいんだよ」
一歩、彼はリグルに歩み寄った。
リグルは、近付かれまいとわずかに退く。
敵意と恐怖がないまぜになり、ただ彼を拒絶することでしか平静を保てない。よくわからないものに近付くべきではない。あれは自分と同じ生き物じゃない。普通の人間でさえもっと話が通じるのに、彼はこの境に一線を越えてしまった。
本当はもっとずっと前から越えていたはずなのに、リグルはいつまで経ってもそれに気付けなかった。気付こうとはしなかった。
お互いの深いところに触れなければ、あんな甘ったるい時間がずっと続くと信じていた。人と妖の隔たりを自覚していれば、傷付くこともないだろうと高を括っていた。
歯噛みする。
「わからない」
彼に向けて、大きくはない手のひらをかざす。顎を下げ、視線は彼の目線から逸らし、決して目が合わないようにする。
「私にはわからないよ」
彼を止める。殺してでも。
これ以上、同胞を見殺しにするわけにはいかない。
リグルは、虫たちの友であるから。
人と共に在ることを面白いと思うことはあっても、共に生き、その味方で居続けることはできない。
「そうか」
呟く。
「そうだよ」
答える。
リグルは手のひらに弾を生み出す。抵抗すれば確実に撃つつもりでいた。だから彼が懐に手を伸ばしたとき、リグルは目を見開いて驚愕し、一瞬の間を置いて、数発の弾丸を彼に向けて撃ち放った。
彼が懐から取り出したのは、何枚かの呪符であった。
そしてそれを、何のためらいもなく、カマキリの死骸が散らばった地面に叩き付ける。
弾丸は、彼の頬を掠め、脚の肉をわずかに削ぎ、けれども致命的な一撃を与えることはかなわず、その全てが壁に激突して無効化された。
「……あ」
轟音と共に、床が崩れ落ちる。
あの呪符にどれほどの力があったのか、今はわからない。それでも、ひ弱な彼でも家を壊せるほどの効能を秘めた呪符なら、もしかすれば、彼は願いを叶えてしまうかもしれない。
崩壊する家の中に立ち尽くし、飛び去る気にもなれず、力なく落下する。彼の姿は、材木の陰に隠れて確認できない。それでも、彼がいるであろう方向に、何発も、何発も弾丸を送り込む。
「……畜生」
木屑の雨から離脱し、大樹の上に飛び上がる。
上空から見下ろした現場は、土煙が激しくてしばらく何も見えなかった。その中に、何発か撃ち込む。
地面に降り、視界が晴れ始めた頃、また何発か。
土煙が夜風に流され、瓦解した家と、巻き添えを喰った枝や木の葉、カマキリの死骸が月の光に照らされて、彼がどこにもいないことを悟る。
下唇を噛む。
「なんなんだよ……」
苛立ちが募る。
涙の跡は乾いてしまった。もう、誰のために涙を流せばいいのか、よくわからない。
無数の死骸を前に立ち竦み、このまま土に還るのを待つべきか、土を掘り返して弔ってやるべきか、少し悩む。
その後で、後者は人のすることだと考え直す。
虫は虫らしく、野ざらしにされて死んでいこう。
たとえ、惨たらしく殺されても。
殺されてもだ。
「…………」
瞳を閉じる。
ぐちゃぐちゃにされた頭の中を整理して、今、何をしなければならないのか、冷静に考える。
けれども、何をどうすればいいのか、どうすればよかったのか、何が正しいのか、誰が正しいのか、そんなことなど、リグルには何ひとつわからなかった。
夜は更ける。
逢魔ヶ刻は、もう戻らない。
森は、普段と変わらない風景が続いているようにも見える。遥か昔から、現在に至るまで。芽吹き、茂り、実り、枯れ、散る、その流れを脈々と受け継ぎ、この険しい自然を作り上げてきた。
とても、とても大きな流れだ。
蛍から妖に至り、人の形に成った彼女でさえ、その潮流においてはちっぽけな石ころでしかない。
幻想郷は、生まれて幾つの子どもなのだろう。
成熟することのない世界は、それでも、絶えず循環し続けている。生きるものを育み、死したものを地に還し、空に還す。
全てを受け入れることの残酷さを、彼女はまだ実感として理解していない。
人の形をした虫が、どちらの命に属するのかも、まだはっきりとわかっていないのだ。
「……いない」
感覚を鋭敏に、触覚に全神経を集中させ、リグルは森の中を歩き回る。木の根に躓き、蔦に爪先を引っ掛け、ギザギザの葉に腕の皮を裂かれながら、彼と、あのカマキリを捜している。
事態は急を要する。
リグルはすれちがう虫たちの力を借り、彼らの捜索を手伝ってもらっている。けれども、朝からずっと捜し続けて、逢魔ヶ刻に迫ろうかという頃においても、どちらの姿も見つからない。
森は広い。
だが、虫は森の全域に存在するのだ。その網に一度も引っかからない、ということは考えにくい。
意識せずに、舌打ちがこぼれる。
「誰か、匿ってるのか……それとも、隠してるのか」
確証はない。けれども、根拠は少なからずある。
ひとつ、リグルが彼と親しげに話していたこと。
ふたつ、彼がカマキリを虐殺していたこと。
みっつ、リグルが、彼とカマキリのどちらの味方かわからないこと。
これだけあれば、虫たちに信用されないのも頷ける。寂しいけれど、理解はできる。理解はできるのだ。
「時間がないってのに……!」
身を預けた木の幹に、拳を叩き付ける。そして幹から落ちてきた虫たちを慌てて受け止めて、ごめんねと謝罪する。
彼らを幹に戻し、深呼吸をして、手のひらを幹に添え、傍らにそびえる大樹を見上げる。
木漏れ日は燦々と、疲れた表情をさらすリグルをも平等に照らし出す。束の間の風に木の葉が揺れ、まるで海の中に漂っているような妄想を抱く。
「……涼しいな」
決して良い汗ではないけれど、汗が乾いたあとに風を感じると、気持ち程度は身体が涼む。弱音を吐きそうになる心に活を入れ、また一歩、足を踏み出す。
胸に秘めた決意の色は黒く、お世辞にも褒められるような類のものではないけれど。ぎゅっと強く握り締めた拳の強さは、その選択に対する誇りのようなものを窺わせた。
「ふう……はあ……」
息が切れる。
飛べば早いのに、飛ぶ気にもなれない。高い場所から、地面を這っている虫たちを眺める気分にはなれない。眉間に皺を寄せながら、暑さに額を拭いながら、とうに失われた何かを探し続ける誰かを見下すことはできない。
突如、痛烈な痛みが走った。
「ッ!」
ささくれ立った木の枝が、リグルの腕に突き刺さる。考え事をしながら歩いていたせいで、前後不覚に陥っていたようだ。後悔する。
幸い、深くは刺さっていない。破片が傷の中に残っていないことを確認し、傷痕を押さえながら後退り、急にしゃがみこむ。
手のひらに、血が流れていく感覚を得る。
熱い。どくどくと脈打っている。致命傷ではないのに、ふと、気が遠くなるような気がする。首を振り、意識を取り戻したあとで、自分はよほど疲れているんだなと悟る。
「痛い、ね……」
痛みを感じる精神は、リグルにも、虫にも存在する。ただ、虫にはそれを伝える術がない。リグルはおのずと彼らの叫びを聞くことができるけれど、普通の人間に、その声は聞こえない。
もし、その虫の音が聞こえていたのなら、彼は殺すことを思い留まっていたのだろうか。
それは、誰にもわからないことだけれど。
「……ん」
顔を上げてまず目に入ったのは、腕に突き刺さった木の枝だった。先端が、リグルの血で赤く色付いている。虫の、妖の血も赤色なのだと、変なところで納得する。
だが、気になることがもうひとつある。
枝の折れ方だ。
「……そうだ。これ、誰かが折ってるんだ」
呟くと同時に、確信する。
表皮が剥がれ、剥き出しにされた枝の中を見、そこから360度全ての視界を確認する。
そしてひとつの方向に、同じく枝が折られている木を発見する。高さも、折れ方も同じ。腕からこぼれる血は一向に止まる気配を見せないけれど、死に至る傷ではないのだから、そんな些細なことよりも、もっと優先すべきことがある。
見つけた。
「……よし」
傷口から手を離し、赤い血が染み込んだ手のひらを、再び硬く握り締める。
嗅いだことのある臭いがする。
外に出た血はみんなこんな臭いがするんだな、と自嘲する。妖も虫も人間も、それは変わらないらしい。
流れる血はそのままに、リグルは進む。
一歩一歩、見慣れた景色を確かめながら、ほんの些細な変調も見逃すまいと前進する。
――見つからなければいいと、心の奥で誰かが囁いていた。
何も、自分が手を汚すことはないのだと。
暇潰しと思い、馴れ合ってきた人間を殺すこともない。その役目をカマキリに押し付けて、自分はさも当然のように、何もできなかった後悔を抱いて、悲劇に浸っていればいい。
そうして、次の日にはよくあることだと笑っていればいいのだと――
「……痛い」
舌を噛む。
血が出たかどうかはわからない。けれども、痛みに涙がにじんだ。それだけで十分だった。
余計なことは考えるなと、自分に強く言い聞かせる。
甘い囁きも、その実、辛く厳しい現実を強いる結果にしかならない。何をどうしても、必ず誰かは傷付かねばならない。
たったひとりだけ、逃れる道が残されたにしても、その道を選ぶことはどうしてもできなかった。
腕の傷が痛むのだ。
「……はッ、ふ……」
呼吸が荒い。血は十分に足りているから、その臭いに酔ったのかもしれない。
森を掻き分け、人が通った獣道を行く。
その先に、何があるかはしれない。それでもなお、手のひらを硬く握り締め、そこかしこに出来た傷口をさらし、痛みを抱えながら。
視界が開ける。
――――あ。
リグルは、うずくまる彼の背中にたどりついた。
ざく、ざく。
虫を切り裂く音が聞こえる。
人を切り裂く音もまた、同じように響いたのだろうか。
わからない。わからないのだ。
なのに、耳を塞ぐこともできない。
彼はいちいち斧を振り上げて、無造作にそれを切断していた。そこに憎しみが混在しているのか、カマキリの中から妹の破片を見つけるためだけの作業に過ぎないのか、結局何もわからなかった。
嗅いだことのある臭いがするから、リグルは自分の腕を見たのだけれど、どうもこの臭いとは違うみたいだ。
切り分けられて、散らばっているカマキリの破片は、眼であったり、鎌であったり、お腹であったり、脚であったりした。その全てに、赤々とした鮮やかな血がへばりついている。昆虫の体液は赤くないのに、どうしてここはこんなにも赤に溢れているのだろう。
また、彼が斧を振り上げる。あの音が響く。繰り返される。何度も。何度も。
やめろ、と、ひどい、と、殺してやる、と、喉元まで、言葉が出掛かっていた。その代わりに、胃液を吐き出してもよかった。けれど、変わり果てた姿といえど、同胞の姿に吐き気を催すのは、あってはならないことだと思い直した。
深呼吸をする。
「……は、あ」
こんなときでも、光は大地を煌々と照らし、風は涼しげに森を満たす。皮肉なものだ。それとも、こんな凄惨な光景でさえも、時の流れを遮ることもできないほどの、ちっぽけな岩でしかないのか。
だとしたら、そんな岩にことごとく躓いている自分たちは、どんなにか惨めな存在なのだろう。
自嘲する。
息を吐く。幸い、震えずには済んだ。
リグルは、作業を続けている彼の背中に、血塗られた手のひらをかざした。
「――――、」
瞳は閉ざさず、呼吸も止めずに、リグルは手のひらに生み出した弾を撃つ。拳ほどの弾丸は、彼の斜め上に外れ、痩せた木の幹に着弾する。もう一発。力を溜めずに撃ったせいか、眼球ほどの大きさしかない弾丸があさっての方向に飛び、地面に出来た血だまりに不時着して、濁った飛沫を立てながら、乱雑に跳ね回る。二発目。今度は大きく息を吸い、ガチガチと震える歯を上下ともしっかり噛み合わせるようにして、途中で何度か舌を噛みながら、凍える腕の延長線上にある手のひらから、彼の心臓に向けて頭蓋骨ほどの大きさをもった弾丸を、しっかりと狙いを定めて送り込む。はじめ、まっすぐに飛んでいた弾丸はしかし、動いているうちに重力に屈し、彼の手前わずか一尺ほどに墜落した。土埃が上がる。だが、彼が後ろを振り返る様子はない。ぼそぼそと何かを口走っているようなのだが、リグルの位置からは何を言っているのかまではわからない。ただ、不思議そうに首を傾げて、飽きもせず、緩慢な動作で虫を切り刻み続けている。
三発目。
これが最後になることを願う。
「――――、はッ、か」
息が詰まる。
何故、こうも落ち着かないのか。殺すと覚悟を決めたときは、心が冷えはしたものの、これほど震えることはなかった。人を殺す。これは復讐であり、戒めでもある。同胞を惨殺されたことに対する憤りもあり、負の連鎖を断ち、リグルみずからがその業を背負うことも意味している。
口で言うのは簡単なものだ。
カマキリは確かに人を食べたけれど、それは食料とみなして食べたのだ。殺したいから殺したのではない。憎悪や嗜虐心があってのことではない。
殺すなど。
意志を持って、自我を持って、誰かが誰かを殺すなど、森に生きるものなら考えられないことだ。
無論、それはリグルも例外ではない。
「殺させてよ……」
折角、決別すると決めたのだから。
せめて、そんなちっぽけな決意くらいは、貫かせてくれても良いものを。
心と身体は裏腹で、手のひらは震え、瞳は霞み、意識は平静を保てない。
生み出そうとした光は、次第にその輝きを失い、最後には萎んで消えてしまった。
拳を握り締める。
右の腕からは、留まることも知らないままに、赤い血が流れ続けている。
そうだ。
「私がやらなきゃ……」
離れた場所から彼の背中を撃ち抜いても、殺した意識など生まれやしない。これが純然たる殺意のもとに成された殺害行為なら、己の手で、彼の首を絞め、腸を突き破り、息の根を止めなければならない。
そうでなければ、彼を殺す意味がない。そうして罪を背負わなければ、負の連鎖など閉じはしない。
誰も、殺したくはなかったのだと。
誰も、死にたくはなかったのだと。
こんなこと、誰もやりたくなかったんだ。
「――あああぁぁぁッ!!」
駆け出す。
リグルも妖の端くれだ、握り締めた拳のひとつでも、人の身体を貫くほどの力はある。
あのカマキリには子どもがいる。彼の憎悪の矛先が、親だけでなく、子に向かわない保証はない。
終わらせるのだ。
もう誰も、こんな思いをしなくても済むように。
叫んだおかげで、迷いは晴れてくれた。彼の丸まった背中めがけて、一直線に駆けて行く。地面を踏んでいる感覚はない。雲の上を踏み締めているような、不自然にふわふわした感触を足の裏に感じている。
世界が加速しているような錯覚を得る。
次第に彼の背中が大きくなり、鈍器で生き物を殴りつける音も、ぼそぼそと呟いている独り言の内容も、徐々にはっきりと聞こえ出す。それらはリグルの心臓の鼓動に掻き消されながら、それでも、そのいくつかはリグルの鼓膜に到達する。
「ない」
その声を聞いた直後。
リグルの爪は、確かに彼の腹を貫いていた。
あんたがいてくれてよかった。
朝からきれいに晴れ渡っていた空にも、にわかに雨雲が訪れる。茹だるような、爽快さの欠けらも感じられない蒸し暑い夏、その熱気を消し飛ばすような夕立は、まさに恵みの雨といえた。
ぽつり、ぽつりと、瞬く間に暗く曇り、光が失われた地面の上に、小さな雨粒が舞い落ちる。木の葉に当たり、大きな音を立てながら、雨粒は次第にその数を増やしていく。
草が生い茂り、荒らされた形跡のある土の上に、人影が横たわっている。
微動だにせず、身体に雨粒が落ちていても、気付いた様子もなく倒れ込んでいる。頬に掠め、背中が濡れ、雨音が太鼓を打ち鳴らすかのような喧しさに変わっても、夕立が降りしきる森の中に、ずっと倒れていた。
大地は湿り始める。
大樹の陰に隠れても、木の葉から滑り落ちた雨が最後には地面に到達する。森に潤いが満ちる。傍らに散らばっている虫の破片も、地面に染み込んだ赤黒い体液も、惨めに倒れ伏しているものも全て、この激しい雨ならば洗い流してくれるかもしれない。
所詮は、都合の良い妄想だと知っているけれど。
「……ん」
リグルは覚醒する。
手のひらに違和感を覚え、草の中に埋もれている右腕を持ち上げようとする。
直後、激痛に顔が歪む。
「――、くぅ……」
痛い。
恐る恐る持ち上げた右手は、手首から先が焼け爛れていた。皮膚が焼けた気持ちのわるい匂いがする。筋肉の繊維が見えてもあまり嬉しくはない。何より、痛いのは苦手だ。
火傷もこれほど重症となると、雨に冷やされたところで大した効果は認められない。ただ、倒れたまま雨に打たれているという感覚は、今の気分によく合っていた。
しばらく、このままでいようと思う。
「……は、あ」
息をつく。
彼の腹に、爪を付きたてた瞬間のことを思い出す。
その刹那、突き刺した部分が破裂したように見えた。おそらく、リグルの家を破壊したときのような、強力な呪符が作用したのだろう。背後からの襲撃を警戒し、体中に巻き付けていたと考えることもできた。
だがそれは、自爆にも似た行為だ。あれほど間近で、リグルが気を失うほどの爆発が起これば、彼自身もただでは済まない。
顔を上げて、血痕や、足跡を探すこともできた。
しかし、探すという行為そのものがどこか未練じみた感情を想起させて、リグルは湿った土に顔を突っ伏した。
「……見つかる訳、ないじゃんか」
彼の、最後の言葉を振り返る。雨の臭いが鼻をくすぐり、草に触れられる痒みがくしゃみを誘う。若干、眼が腫れぼったい。
結局、彼に妹の破片は見つけられなかった。
考えれば当たり前のことで、カマキリに食べられたのだとすれば、肉片は既に消化されている。それに気付かないはずもなかったろうが、あるいは、気付かないふりを続けていたのだろうか。
彼は。
今も、失われた妹の欠けらを探し続けている。
夢の中で、彼が自分に別れの言葉を告げた気がするのだけれど、どうしても思い出すことはできなかったし、思い出す気にもなれなかったから、無理に記憶を遡ることはなかった。
首を横に向けると、ばらばらにされたカマキリが見える。彼の妹も、同じような状態で彼に発見されたのだろうか。酷いのは、カマキリか、妹か、それを計ることに意味はないとわかっていても。
「ごめんね……」
呟く。
何もできなかった。
彼を止めることも、カマキリを助けることも、彼を殺すことも。間に合わなかった。何もかもが遅すぎた。気が付いた頃には、もう全て失われていたのだ。リグルが彼と遭ったとき、彼の妹は既に死んでいたし、カマキリは彼の妹を食べていた。今年の冬はだいぶ長引いたし、春の実りも少なかった。リグルはそんなことなど知る由もなかった。どうしようもなかった。
だから、しょうがなかったのだと。
「仇、討てなかったよ……」
ぼろぼろ、涙がこぼれる。
自分は一体、何がしたかったのだろう。
一体、誰を助けたくて、誰の味方でいたかったのだろう。
「う、ぁ……」
嗚咽を漏らす。
手のひらを握り締めようとして、痛みが走る。けれども、痛みに身悶えながら、それでも無理やり手を動かそうとした。
涙が出る。
「なんでよ……」
本当に。
痛かったのなら、あんなことしなくてもよかったのに。
辛かったのなら、やめてしまってもよかったのに。
「痛いじゃないか……こんなに、痛いってのに……」
繰り返す。
何度も、何度も、握り締めようとした手のひらは、結局、痛みに負けて草の上に落ちた。
嗚咽は雨に掻き消される。
血の痕は雨粒に滲む。
森には、ただ、雨が降っていた。
翌日。
森の水辺で、彼が大きなカマキリに殺されたという。
そんな、虫の報せを聞いた。
人里の外れ、魔法の森に程近い場所。雑木林を背中に預けた、一軒の家が建っている。
決して豪奢でも堅牢でもなく、簡素といった方が早い造りの家だけれど、そこに住む者の気質を表しているかのように、家の周りには雑草や塵のひとつもなく、壁には汚れや罅割れもない。
上白沢慧音は、そんなところに住んでいる。
その日は静かな雨が降っていた。
夕立のような唐突さや激しさの感じられない、穏やかな雨だった。家の中に居て聞こえる雨音も、土や屋根を叩く苛立たしげな音ではなく、草を撫で、土に染み入るような優しい趣が備わっていた。
慧音は、何をするでもなく外の景色を眺めていたのだが、ふと思い立ったように席を立った。
彼女が玄関の扉を開けると、雨に打たれている少女が目に留まった。
軒下や林の中で雨宿りでもしていればいいものを、何を思ってか、傘も差さずに雨粒を浴び続けている。
居間から見えた人影に、触覚と羽が生えていたものだから、少し気になって様子を窺いに来た。
家に来るのかと思えば、いつまで経っても動く気配がない。かといって、引き返す様子もない。人里にも、森にも行かず、ただ雨の中に突っ立っている。
玄関の軒下に立ち、慧音は濡れそぼった少女に告げた。
「おまえは一体何がしたいんだ」
びくり、と少女の身体が少し震えた。反応らしき反応は、それくらいだった。
慧音は、ため息を静かに吐き出しながら、浅くこめかみを掻く。
「見ているこっちが寒い。来なさい」
少女は目を伏せる。
慧音は腰に手を当てて、傘立てから無造作に傘を取り出す。
「いいから」
無数の雨粒が傘の布を撫で、雨の中を行く人と、妖の間をきれいに避けて通る。
慧音の傘を受けて、少女はようやく顔を上げた。
「……私」
「いいんだ」
何か言いかけた少女を遮り、慧音は家の玄関を親指で指す。
少女は再び深く俯き、それでも、言われたとおりにゆっくりと歩き始めた。
慧音は、少女がこれ以上雨に濡れないよう、その背中に寄り添うように歩いていく。
服を着替え、襦袢を身に纏った少女は、一枚の半紙を前に慧音と向き合っている。傍らには硯、墨、使い古された筆と来れば、何をするつもりなのか、おのずと想像は出来た。
名前を聞かれ、素直に答える。リグルと名乗った少女に、慧音もまた自身の名を教える。
それ以外、何か意味のあることを話すでもない。気が付けば、慧音は自然と墨を手に取り、それを水に付け、黙々と硯に擦り下ろし始めていた。
墨の擦れる音が、静かな雨音と重なり合い、静謐な時間が流れる。
その静寂を破ったのは、リグルだった。
瞳には、わずかに灯火が宿っている。
「……私、知りたいことがあって」
ぽつり、ぽつりと、夕立が始まる前兆のように、静かな声がこぼれ出す。
慧音は、ただその声を聞いている。
「お墓、どこにあるかなって」
俯きがちなリグルの顔と、やや前屈みになって顔を上げた慧音の視線が、かすかに交わる。
か細い声で、淡々と、消え入りそうな響きでありながら、意志は伝わる。
リグルは続けた。
「名前は、知らないんだ。聞かなかったから。でも、こないだ、妹が殺されたって言ってた。それで、森の中に入って、妹を探してた。見つかりっこないのに。そんなの、見つかるわけないのにね……」
ぽつり、ぽつりと紡ぎ出された声は、確かに慧音の耳に届いた。泣き出しそうだけれど、泣いてはいない。腫れぼったい目は見ないことにした。リグルが慧音の家の前に現れても、それ以上、先に進めない理由があった。躊躇する理由があった。
それだけのことだ。
「そうか」
呟く。
リグルは、少し寂しげに俯いた。
座り込み、膝の上で握り締めた手のひらには、まだ黒い痣が残っている。慧音はその傷痕を見咎め、彼女もまた、寂しそうに天井を見上げた。
硯の中に、墨が落ちる。
からん、と硬い音がした。
「……あれは、親を早くに亡くして、ずっと妹と二人で暮らしていた」
慧音はゆっくりと話し始める。
その面差しにどんな感情が浮かんでいるのか、ずっと眺めていたところで、計り知ることなど出来ないに違いなかった。
「できた妹さんでな。無愛想で、要領の悪い兄の尻をよく叩いていたよ。お互いが、お互いを立派に支えていた。足りない部分を補っていた。でなければ、生きていけないとでもいうように。私たちもなるたけ力にはなろうとしたが、あの二人なら、うまくやっていけるんじゃないかと思ったよ。本当に」
――本当に。
最後の言葉を繰り返して、慧音は、落ちた墨を手に取る。
リグルは何も答えない。
吐き出そうとした息が、喉の奥で震えている。
動悸が激しい。思うまいとしていた感情が首をもたげ、死神の鎌に首を押さえられているような錯覚を得る。
もう、死んでしまいそう。
「……わ、私は……!」
「言うな」
リグルの瞳を見据えて、はっきりと、慧音は警告する。
威圧され、たじろぎながら、それでもリグルは言葉を続けた。掠れそうな声で、胸を掴みながら、押さえつけていた思いを吐露しようとする。
そうしたところで、何にもならないと知っているけど。
「あいつを、殺そうとして……! でも……!」
「泣くくらいなら、言うな」
慧音の冷めた声を聞いて、リグルが目尻に指をやっても、そこに涙のようなものは浮かんでいなかった。
けれど、慧音がそう見えたのならば、それは間違いないのかもしれないと思った。
「墓地は、ここから真南に下ったところの、見事な一本松が生えているところにある」
それでおしまい、と言うように、慧音は墨をする作業に戻る。
思いを吐露することもできず、立ち上がろうと畳に手のひらを突いた姿勢のまま、リグルは眉間に皺を寄せる。知らず、土下座のような構えになってしまったことを、深く恥じる。
謝ってはいけない。なじってもいけない。
慧音は暗に言っていた。
これは、仕方のないことだったのだ、と。
爛れた手のひらから伸びた爪が、畳を引っ掻く。
歯痒さが、唇を深く噛み締める。
血の味がした。
「そんな訳あるかよ……」
心の奥底から、呪いのような言葉が生まれる。
低く、地の底から響く声をも、慧音は確かに聞きとがめた。
それを知りながら、リグルは続ける。
何が正しいのかは知らない。
どうすればよかったのかもわからない。
それでも、言わなければならないことはあるはずだった。
「仕方なかったんだって、しょうがなかったんだって……、それで、全部済ますのかよ……」
ましてや、それが幻想郷なのだと。
甘い言葉に釣られて、受け入れてしまいそうになる。なまじ全てを受け入れてしまう世界だから、妖と人が共に在ることを、両者が共に生きていることによって生まれる様々な出来事を、明日は明日の風が吹くように、昨日の屍を踏み越えるように、何事もなかったかのように、歴史の影に、記憶の片隅に追いやっていく。
惨劇も。
悲劇も。
「……忘れないから」
歴史を創る半獣を前に、強く、誓いを立てる。
共に、お互いの瞳をまっすぐ見据え、決して逸らそうとしない。
「あんたが忘れても、私は、絶対に忘れない」
みずからの心に深く突き刺すように、リグルは言う。
雨の音だけが響いている。
リグルの爪は畳に食い込み、慧音の指は墨に食い込んでいる。
慧音はただ少女の瞳に寂しげな視線を送り、最後に、穏やかささえ感じられる声で、告げた。
「何度、同じことが繰り返されたか」
指先に込めていた力を緩め、痺れた指を揉みほぐす。
「一体、何が出来たという」
リグルを、そして慧音自身をも問い詰めるような口調だった。
「私には、止めることが出来なかった。そして歴史を変えることもすまい。彼が行ったことを、正しいと、過ちだと、あれこれ判断する権利は私にはない。それは後に、歴史が判断するだろう」
言い聞かせる。
慧音が何を言いたいのか、よくはわからない。
それでも、慧音もまた、この事件と向き合っている。正面から。目を逸らさずに。
「おまえにその権利があるのか」
墨が硯に叩きつけられ、鋭い音が部屋を満たす。
知らず、慧音に気圧されていた。
畳を掴んでいた手のひらが、わずかに離れる。
「彼が行ったことは、正しいと、過ちだと。カマキリの行ったことが正義だと、害悪だと。今のおまえに、それを計る権利があるのか」
穏やかな声だった。それなのに、心の奥に触れ、腸を直接握り締めるような、気持ちの悪い響きを持っている。
また、震えが走る。
「いちばん新しい花が添えてある墓が、そうだ。……行くのなら、早く行ってあげてくれ。この雨は、少し寂しい」
慧音はやはり、これで最後だというふうに、言葉を切った。
リグルも、これ以上は何も話す気がなくなっていた。慧音の言葉は、半分も理解していなかった。けれども、考えなければならなかった。どれが正しい答えかはわからない。そも、正しい答えなどというものが存在するのかさえ、はっきりとしていないのだ。
立ち上がる。
「……じゃあ」
慧音は、ただ強く墨をすっている。
何を言えばいいのかわからず、慧音の顔も見ず、足早に部屋を後にする。干してある服は生乾きだけれど、襦袢のまま外に出るわけにもいかない。なにより、慧音と縁を作ることが少し怖かった。
縁があれば、また苦しむことになるかもしれない。
今は、絆が怖い。
「……は、あ」
深呼吸をする。
べたついた服で、傘は借りずに、外に飛び出す。
遠くから、慧音らしき声が聞こえる。
傘を持って行けと、大声で喚いているような気がしたけれど、リグルは一度も振り返ることなく、一刻も早く目的地に向かうべく、その足を速めた。
次第に、駆け足になり、やがて、何を振り払うように走り始める。ぬかるんだ地面に深く足音を刻みながら、口の中に、眼の中に飛び込む雨粒を拭おうともせず。
逃げるように。
遠ざかる背中を追いかけるように。
リグルは、無数の屍が眠る場所に向かう。
派手か地味かでいえば、十人が十人、地味と答えるような墓石だった。
御影石などという高級な代物は誂えられず、無縁仏と疑われてもおかしくはない、河原から拾ってきたような大きな石。
けれど、その足元に添えられた花束だけは、この世のものとも思えぬ美しさを身に纏っていた。
寄り添いあうように並べられた色とりどりの百合を見下ろして、しばらく、リグルはそこに立ち尽くす。
水に濡れた砂利を踏み締め、仰々しい石の群れが立ち並ぶ場所にいる。人影は見当たらず、空は相変わらずの涙雨である。
思うことはあった。
けれど、墓石を前に、跪き、今は亡き彼らに許しを乞い、泣き叫ぶ気にはなれなかった。
今は、心が涼しい。
冷めている、と言うべきかもしれない。
身体が冷え、頭も冷えた。自分の中に渦巻いている数多の感情を、整理整頓する時間ができた。かといって、これから何をすればいいのかなど、全くわからないのだけれど。
死んだものに手を合わせるのも、土に埋めるのも、全て人のすることだから、リグルは特に何もしないでいた。ここはもう人里だから、人の道理に従うべきなのかもしれないと考えもした。
虫なのか、人なのか、妖なのか。
自分の立っている場所が、ひどくあやふやなものに感じられた。別に、雨のせいで地面がぬかるんでいるわけでもないのに、足元がふわふわしている。まだ、頭に血が昇っているのだろうか。それとも、さっきまで走り続けていたものだから、呼吸がうまくいかないのか。
深く、深呼吸をする。
「――、……あぁ」
背中に、殺伐とした気配が迫っている。
振り返る。
そこには、いつかの朝に会ったのとほとんど同じ姿で、大きなカマキリが立っていた。
リグルも、はっきりと区別できるわけではないけれど、今ここにいるのは、あのカマキリの子どもなのだ。
六尺を越える体長は、突然変異という枠に収まらない。このカマキリがしばらく生き続ければ、まず間違いなく妖としての力を得る。今でさえ、その鎌を振ればリグルを両断することも容易い。
お互いに、空虚な瞳を合わせる。
雨に震える触覚は、リグルに「退け」と告げた。
「……いいんだ」
リグルは、寂しげに首を振る。
カマキリは、鈍重な動作で、しかし確実に間合いを詰める。その鎌が、彼と、彼の妹が眠る墓石を切り裂ける距離にまで。
墓の前に立ちはだかり、両手を広げることはしない。そこまでして、庇い立てをする気にはなれなかった。
拳はまだ握れない。今度は、彼に代わって自分がカマキリを殺すのか。動機はある。感情的にも、そう思い込みさえすれば、実行できるくらいの気分ではある。
だが、過ちを繰り返すことは出来ない。負の連鎖を閉じると決めた。その手段として、彼を殺そうとした。事実、彼はカマキリに殺され、連鎖は潰えようとしている。だとすれば、彼は殺されるべきだったのだろうか。彼の行いこそが誤りで、カマキリが行ったこと――人を喰い、彼を殺したことは、正しい行為だったのだろうか。
人か、妖か、立場の違いで、考え方は大きく変わる。
ならば、リグルはどこに立てばいい。どこに立てば、何をすればいいかわかる。
いつになれば、それがわかるというのだ。
「もう、こんなことしなくても」
リグルは、ゆっくりと首を振る。
本当なら、誰も悪くはなかったのだ。
だから、カマキリが人里に下りてきて、親の仇として、墓場を荒らすのも仕方のないことだと理解できた。連鎖など、そう簡単に閉じはしない。重いものほど、悲しいものほど、誰が望んだわけでもないのに、延々と続いてしまうのだ。
けれど、誰かがどこかで終わらせなければ。
カマキリは、じっとリグルを見つめている。
その無機質な瞳が、「わからない」と囁いているようで、胸が痛む。
鎌が振り切れる位置にまで接近し、おのずと、リグルは墓の前に仁王立ちしている形になる。
大きく、雨を逆さに切り裂いて振り上げられる鎌を、どこか他人事のように眺めていた。
避けてもよかった。
重く、緩慢な一撃だったから、回避するのは簡単だった。
ましてや、彼はここにはいない。墓石は象徴に過ぎない。だから、今更これを傷付けても、彼がこれ以上傷付くわけではない。
だけど。
「……痛い」
甘んじて、その鎌を受ける。
肩に、首筋に食い込んだ鎌は、辛うじて鎖骨に留まっている。だが刃は肉を深く裂き、リグルの中から血が溢れ出る。人に似た赤い血は、天から零れ落ちた雨ににじんでいく。
「……痛かったんだよ、みんな……」
ぽつり、ぽつりと、リグルは呟く。
鎌の先端は、墓石を浅く傷付けた。死んだものを悼むための石は、人の道理に従うならば、それもやはり死者の人格を持っているのだ。だから、花や食べ物を供え、きれいに磨き、手を合わせて、昔のように語り合う。
それを知っているから、カマキリは墓石を壊そうとし、リグルはそれを阻もうとした。
何が正しいのかわからないから、どっちつかずの立ち位置で、切りつけられ、立ち尽くしている。
リグルの身体から、鎌が離れる。カマキリは、何かを伝えようと触角を震わせたけれど、結局何も語ることはなく、身を翻し、そぼ降る雨の中に消えていった。
その背中を見送り、姿が完全に見えなくなって、ようやく、リグルは膝を突いた。
「……疲れた」
眠ろうとすれば、今の自分なら簡単に眠れるはずだ。血も減っているから余計に。
ぼんやりと、雨に打たれながら、傷口に手のひらをかぶせる。傷はそのうち癒えるだろう。痛くて、雨に染みて、心臓は早鐘を鳴らし、頭も熱い。満身創痍だ。一歩間違えば、死んでいてもおかしくはなかった。
死にたくはなかったけれど。
「ッ……、あぁ、痛いなあ……」
繰り返し、繰り返し、傷口に触れ、痛みを口にする。
体中に血液がしみこんでいく。
雨に濡れた身体に染み渡る赤い血を温かいと感じ、生きていることを実感する自分は、甚だ業の深い生き物だと思いながら。
リグルは、墓地を後にした。
その後しばらく、リグル・ナイトバグは歴史の表舞台から姿を消すことになる。
じとじとと暑い夏、蒸し暑く、汗が肌にべとつき、爽快さの欠けらも感じられないような、いつもの夏。
決して涼しげとは言えない表情で、それでもどうにか何食わぬ顔を装って、人の形をした一匹の虫が、森の中を歩いていた。
木の根を避け、草をまたぎ、森に散らばる全ての虫と意志を交わす。虫の音は、羽を擦る音に留まらず、言葉にならない感情の奔流なのだ。
リグル・ナイトバグは、虫の王である。
ありとあらゆる虫を操り、その全ての声を聞くことが出来る。小さくとも、大きくとも、妖に近くとも、瀕死であろうとも、どれも等しく、彼らの声を聞き届ける。
それが成せるようになるまで、一体、どれほどの時を要したのか。
リグルは、口の端に笑みを宿して、木漏れ日の差し込む森の中を歩いていく。
「うん。今日も今日とて、森は平穏ね」
鼻歌混じりに、平和を喜ぶ。
風に木の葉が揺らされて、清涼な音が森に響き渡る。傍らを飛ぶ羽虫が煽られ、草の葉に留まっていた蝶が飛び立つ。
瞳を凝らさなくても、虫はあちらこちらに存在する。いない場所を探す方が難しいくらいに、彼らは全世界に生きている。
小さくとも。
声を出すことは叶わなくても。
その身体から虫の音を響かせて、緩やかに、いつ終わるとも知れない生を謳歌する。
「……ん」
立ち止まり、耳を澄ます。
人間の、高い泣き声がする。声が聞こえてくる方に意識を集中させ、ゆっくりと、その方向に近付いていく。
過去、森に何が起こったのかを、リグルはずっと覚えている。
彼の腹を貫いた感触も、雨の臭いも、血の臭いも、墓石も、傷の痛みも。
あのカマキリとは、あれから一度も会っていない。既に人の姿に化けるほど力をつけて、今はもう、リグルの知らない形になってしまったのか。それとも、人に退治されたのか、人の味を知ってしまって、今でも人を喰っているのか。
それはわからないけれど、リグルの知る限りでは、そのような事件は発生していない。
カマキリにも、思うところがあったのだろうか。
妖に成り、人に似た体を得て。人の思いに触れ、言葉を発し、意志を交わすようになって。
リグルが辿った道を、いつか、カマキリも歩むのだろうか。
「……ふふ」
気がつけば、リグルは微笑みを浮かべていた。
足取りは軽く、背負うものの重さを感じさせない。その細い背中に、どれほど多くの虫の命を背負っているのか、その重圧さえ悟らせない。
声が次第に大きくなる。
「よい、しょー」
場が開ける。
膝の丈まである草を踏み越え、幹の隙間を潜り抜け、ぽっかりと空いた森の更地に、その女の子はいた。
跪き、大声をあげて泣きじゃくり、涙を流し、鼻水を垂らし、整っていたはずの髪もくしゃくしゃにして。
「う、ぅぅ……、ふぁ、びぇぇ……」
泣くことにも疲れ、枯れた喉を押さえる。涙に濡れた視界の中に、一匹の妖怪がいるとも知れず、女の子はただ泣き喚くのに一所懸命だった。
微笑ましいなと思ってしまうのは、自分も、かつて似たような経験をしたからだろうか。あの時の自分と、今の女の子では、立場があまりに違うとはわかっているけれど。
「ねえ」
とりあえず、声を掛ける。
びくッ、と身体を震わせて、地面に座りこんでいた女の子が恐る恐る顔を上げる。
そこに、人の形はしているけれど、羽と触覚から、明らかに人間じゃない存在がいると知って、女の子は何を思っただろう。
リグルは語りかける。
「泣いてばっかじゃ、何もわからないよ。人間には、言葉があるんでしょう?」
腰に手を当て、年長者ぶって女の子の前に立つ。
その姿に威圧感が感じ取れないのは、女の子にとっても幸いなことであった。
涙は止まり、震えていた身体は少しずつ静かになり、ゆっくりと、濡れた視界からリグルの姿を見つけ出す。
そこにはっきりとリグルが映ったとき、女の子は、落し物を偶然見つけたときのように、驚きの声をあげた。
「あっ!」
目を見開き、素直に驚愕する。
その姿に、ほんの少しだけ、懐かしさを覚える。
「そんだけ元気があれば、うん、大丈夫だね」
微笑む。
一体何度、同じことが繰り返されるのだろう。
それはリグルにもわからない。知りようもないことだ。人と妖が共に生きている限り、絶えることのない流れ。
リグルも、彼も、その流れに呑まれ、ちっぽけな岩に躓き、立ち止まり、跪いた。
今のリグルなら、荒れ狂う波も上手に泳ぎ切り、障害であったはずの岩も、難なく飛び越えて行くことができる。この女の子だって、無視することもできたのだ。よくあることだと、仕方なかったのだと、諦めることもできた。これが、新しい悲劇の幕開けとも限らないのだから。
だけど。
「ほら」
リグルは、女の子の目線に合わせて身を屈め、そっと、頼りない手を伸ばした。
女の子は何度か瞬きを繰り返して、差し出された手を、何か珍しい生き物でも見るような目で眺めている。確かに、幼い女の子にしてみれば、妖怪のリグルは物珍しい存在ではあるけれど。
「初めて会ったときには、何か言うんでしょ?」
女の子は、恐る恐る頷いてみせた。
それを見て、リグルも微笑む。
「んじゃ、まず、私の名前から、言うね」
手を差し伸べたまま、嬉しそうに、自分の名前を口にする。
これが答えと、自信満々に言うつもりはないけれど。
何度、同じ岩に躓こうとも。
仕方がなかったと、自分を慰めたくなかった。諦めたくなかった。
だから、何度だって、女の子に、彼に、この手を差し伸べよう。
妖だろうと、人であろうと、虫であろうとも。
手の届く距離にいるのなら、それは、その程度の距離でしかないということだから。
「私はね、リグル。リグル、ナイトバグって言うんだ」
いい名前でしょ? と、おどけてみせるリグルの姿を見て、女の子が、本当に、少しだけ笑った。
逢魔ヶ刻は終わらない。
SS
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