さよなら。

 

 

 

 何もない日々をただ安穏と過ごしている限りは、心が乱されることも揺さぶられることもなかった。けれども穏やかな生活を掻き回されることそのものが僕の日常として組み込まれているのだとしたら、少なくとも僕の力ではどうしようもない。
 霧雨魔理沙はその中の一人だが、別に彼女を排除しようと思ったことはない。心の平穏を保つことが人生の最優先事項でない以上、たとえ幾多の騒動や喧騒が彼女の手によって巻き起こされたとしても、ご愛嬌だと笑い飛ばすくらいの気概は持っていたい。そう思っている。
「なぁ、香霖」
 問いかける声を極力無視しようとしても、僕の顔に押し付けられた一冊の本が、魔理沙を無視しちゃいけないと警鐘を鳴らしていた。本の内なる声が聞こえるわけじゃない。僕は僕の経験から、魔理沙が侵そうとしている僕の領域を守るだけだ。
「これは返してもらうよ」
「ちぇ。何なんだよ、その本」
 彼女の手から奪い取った本には、どこかの魔法使いが掛けているような鎖と錠前が施されていた。無論、魔理沙が僕の私室から勝手に拝借したものだ。恥ずかしい話、僕はその本を開く鍵をなくしてしまったから、何かの機会がない限りそれを読むことは出来ない。魔理沙も、僕に質問して来たところを見ると、自力で鍵を開けることは出来なかったようだ。
「面白くない本だよ。だから鍵を掛けた」
「そんなの、捨てればいいじゃないか」
「呪いの本だからね。捨てることは出来ない」
 魔理沙は、訝しげに僕を眺めていた。
 十字に掛けられた鎖は、持ち上げる度にかちゃかちゃと耳障りな音を立てる。表紙の中央にある鍵穴はごく普通にありふれた暗闇で、その奥にあるものが何なのか、何も知らない部外者が推し量るのは困難を極める。魔理沙が部外者だと言う気はないが、僕が生きて来た半生の全てを、彼女はまだ知らない。
 魔理沙は言う。
「つまりはなんだ、日記か」
「あたらずといえども遠からず、かな。流石に何十年も書き続けられないよ」
「何もなかった日は、本当に『何も無し』で終わらせそうだもんな」
 笑う。
 何もなかった日など一日たりともなかったはずなのに、僕は確かにそう書いていた。魔理沙の観察眼が優れているというより、僕が今も変わらずそういう生き方をしているだけなのだろう。
 そう考えると、可笑しかった。
「お。笑ってるな、香霖」
「そりゃあ、ね」
 苦笑か嘲笑か、いずれにしても自分に還る笑みだった。
 しばらく顔を歪ませるだけの笑みを浮かべた後、僕はその本を仕舞うために席を立った。魔理沙は、店内をうろついている。僕が立ち上がったことは知っているのに、付いては来ない。それが彼女なりの心遣いなのか、単なる気紛れなのかは解らないけれど。
 それが、ありがたかった。

 

 

 

 貴方のこと、嫌いじゃなかったけど。

 

 

 

 店に戻ると、魔理沙は僕がさっきまで座っていた椅子に座り、何かの本を読んでいた。
 正真正銘、現在僕が書いている日記だった。
「こら」
「香霖、香霖」
 悪びれる様子もなく、魔理沙は指で挟んでいた頁を僕に見せる。
「この『臆面もなく店に押し掛けては商品を拝借する黒鼠』てのは、一体誰のことなんだろうな」
「鏡を見れば解るよ」
 白黒の頁が僕の顔を押し潰す。
 唇を尖らせて、魔理沙は解りやすく憤慨している。こうなると、椅子から退かせることも難しい。仕方がないから、僕は陳列棚を順繰りに見て回ることにした。魔理沙は、再び僕の日記を読み始めたようだった。
 しばし、商品を弄る乾いた音と、頁を捲る乾いた音だけが重なる。
 お客はひとりも来ない。そんな日はザラだ。退屈であることは否定しないが、それもまた悪くはない。何もない、ということでさえも、決して悪くはないのだ。
 ぽつりと、魔理沙は呟く。
「なぁ、香霖」
「なんだい」
 声色は穏やかなものだった。安堵する。
 幾何学的な紋様の刻まれた鉄の塊から手を離し、彼女を注視する。レンズの向こう側に、三角帽子を脱ぎ、椅子にちょこんと腰掛けている程度なら、普通の女の子とさして変わり映えのしない霧雨魔理沙の姿がある。
 小さな唇が動き、やや甲高い言葉を紡ぐ。
「交換日記、始めないか」
「どうして」
「どうしても」
 魔理沙は譲らない。表情も真剣だ。
 恐らく、彼女は錠前の掛かった本を読んではいない。読んでいないから知らないはずなのだけど、魔法使いなりに、女の子なりに想像はする。
 その結果、魔理沙は魔理沙なりに答えを出し、僕に提案した。
 僕は答える。
「『私と貴方の生きている時間は違う』」
 魔理沙の肩がわずかに跳ねた。
 僕は続ける。
「昔の言葉だよ。時の流れは変わらない。百年を生きる者の十年も、千年を生きる者の十年も、共に同じ十年であることに変わりはない」
「達観してるな」
「残念だけど、千年も生きていない僕には解らないことだよ」
 笑う。
 だが、半人半妖の身である僕と、普通の人間である『彼女』は、確かに異なる。異なることは、決して悪いことじゃない。ずれているというだけのことなのに、そのことにお互いが気付けなかったから、交換日記の残りの頁は永遠に白紙となった。
 昔の話だ。
「でも、寂しいじゃないか」
 でも、魔理沙は言う。
「交換日記が、途切れたままだなんて」
 そう、寂しそうに。
 切断された過去の絆を憂い、現在の絆を想う。
 今の僕と此処に居る彼女ならば、そのどちらが強いかを憂慮するのは、至極当然のことに思えた。
「私と香霖なら、もっと長いこと続けられる」
 ある種の確信を持って、魔理沙は自信満々に言い放った。
 気付けば彼女は椅子から立ち上がっていて、勢い余って日記をカウンターに押し潰している。インクが滲まないと良いのだが。
 前のめりに体重を掛け、期待に瞳を輝かせながら、魔理沙は問う。
「なぁ、そうだろ?」

 

 

 

 ねぇ、そうでしょ?

 

 

 

 机の前に座り、うんうんと唸っている。外は暗く、魔理沙は既に帰った。僕は部屋にひとり、何も書かれていない本を前に頭を悩ませている。
 結局のところ、僕は断り切れなかったわけだ。全く、成長していないにも程がある。同じことを繰り返すことになるとも知らず、また同じ過ちに踏み入ろうとしている。
 だが、それを過ちだと判断するには、幾許かの猶予が与えられていた。
「……うーん」
 僕の目の前には、二冊の交換日記がある。
 一冊は未完で、もう一冊は始まったばかり。どちらも、僕が最初の頁を司っている。三日坊主のまま終わるのなら、それでも構わない。白紙のまま終わるにしても、その続きを雑記帖として使えるならばそれでいい。
 書き出しは何にしよう。ほとんど毎日のように会っているから、何を書けばいいのか全く解らない。背もたれに身体を預けて、くすみの目立つ天井を仰ぐ。眼鏡を外すと、その汚れさえ見えなくなる。
 まぶたを擦る。
 少し、疲れた。
「やれやれ……」
 嘆息する。
 厄介なものを抱えてしまったなと思いながら、これもまた平和な日常だと自覚する。誰かの我がままに振り回されても、それを楽しむことが出来れば何も問題はない。いくら心が揺さぶられても、右に振られれば左に戻る。そういうものだ。
「よし」
 僕は羽ペンを持ち上げる。
 とりあえずは、『何も無し』と書き始めることにしよう。
 そこから先は、僕ら次第だ。

 

 

 

「あぁ、そうだね」

 

 

 

 



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2007年10月8日 藤村流

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