ビューティフル。
ただ、じっと鏡を見ている。
飽きもせず、いや好い加減に飽きてきた頃合いではあった。それでも十六夜咲夜は、この目尻に浮かぶ皺のようなものが目の錯覚ではないかと信じたかった。そう信じたかったけれど、鏡を擦っても目尻を解しても一向に事態は改善する気配を見せず、かれこれ三十分くらい鏡とにらめっこを続けている。
「……はあ」
仕方ない、と諦めの言葉が口を付いて出てくる程度には、それなりに年齢を重ねてきた。
十六夜咲夜とて、いくら瀟洒といえども原型はただの人間であるから、長く生きていればあちこち老朽化も進んでくる。気付いた箇所、気付きにくい部分も含めて丹念に細かく丁寧に修復作業を行い、美しさを、若さを保つためのありとあらゆる手段を講じてきたつもりである。
が。
「――人間、ですものね」
悪魔の館を棲み処としている人間が、自分とそれ以外の存在に線を引く。
それは差別ではなく、何の色もない区別に過ぎない。人間と悪魔のどちらが優れているわけでもない。どちらが偉いわけでもない。
ただ、違うだけだ。
そして、その差が恐ろしいと感じ、妬ましいと唇を噛む。
「妖怪、か」
窓の向こうから聞こえてくるのは、種族は不明だが妖怪であることは確からしい華人小娘と、姿形も性格も幼い妖精の掛け合いである。門番の仕事もせずに、妖精と遊び呆けているのは明白であったが、咲夜自身が切迫していたせいもあってしばらく放置したままになっていた。
「さて、と」
重い腰を上げる。膝がぽきぽき鳴らなかったことに胸を撫で下ろす。
そろそろ、鏡を運命の人と称して見詰め合うのにも飽きた。
ただの運命なら、この館にいくらでも落ちているのだから。
「はい、次は鉄山靠ね! 本来は貼山靠って言うんだけど、まあそのへんはいいや! 時間ないし!」
「てつざんこー!」
「はい違う! 早速違う! ていうかそれはさっき教えた正拳突きでしょ!」
「だっけ」
「そうそう」
「てつざんこー!」
「はいそれさっきもやった!」
喧しいことこの上ない。
何故彼女たちはこんなにもテンションが高いのだろう。咲夜があれこれ考えてみてもちっとも答えが出てこない。そのうち考えるのも面倒くさくなって、ひとまずぽかぽか仲良く殴り合っているふたりに浅くナイフを突き刺して、血液と共に無駄な情熱がこそげ落ちるのを待つ。
大体五分ほど経つと、妖怪と妖精のコンビは話が通じるだけの冷静さをいくらか取り戻したようだった。言わずと知れた美鈴とチルノのでこぼこコンビは、今となっては紅魔館の名物と化している。主に微笑ましさの方向で。
「出来心だったんです……」
「めーりんが、『知っているかしら……私が華人小娘と呼ばれる所以を』とか調子付いてたから……」
「でも正拳突きは華人小娘関係ないですね」
「だっけ」
「そうそう」
「……本当に仲が良いわね、貴方たち」
咲夜の評価に気を良くして、満面の笑みで肩を組むあたり似た者同士とも言える。知能というか、属性というか、悪乗りする性格が種族を越えてかっちり嵌まっている。
いきなり
「鉄山靠!」と叫んでチルノを吹き飛ばすあたり、咲夜には理解しがたい関係ではあるけれど。
してやったりといったふうに額の汗を拭う美鈴に、咲夜は呆れながら叱責する。
「妖精と遊ぶのも、大概にしなさいよ。貴方も本職を忘れたわけじゃないでしょう」
「はーい。でもあんまり生真面目すぎると、目尻の皺が増えますよ?」
――不覚。
図星を突かれたせいか、物凄い勢いで美鈴を睨みつけてしまった。それも、ある種の憎しみやら妬ましさやらをふんだんに絡めて混ぜ合わせた極上の視線を。
美鈴と、その後ろに控えていたチルノすら総毛立つほどの目線に、咲夜自身も咄嗟に目を伏せる。迂闊だった。瀟洒であるはずの十六夜咲夜は、その程度の揶揄など軽く笑い飛ばせるだけの気位を持っていなければならないのに。
これもまた年のせいかと自分を嘲るだけの余裕さえ、咲夜は失いかけていた。
そんな彼女に救いの手を差し伸べる、赤髪の少女。少女といってもなかなかの年齢だろうが、外見上は実に見目麗しい。
「そんな咲夜さんに朗報ですよ」
「またろくでもないこと考えてるんでしょう」
「ふふ、そう言っていられるのも今のうちですよ……!」
美鈴が背中に手を回したかと思うと、次の瞬間にはその手の中に古めかしい手鏡が携えられていた。枠の部分に時代的な意匠が施されてはいるが、骨董の価値がどうこう以前にただ古いだけのような気がしてならない。
訝しげな咲夜の視線にもめげず、美鈴は説明を始める。
「鏡よ鏡……という有名な文言がありますね。世界でいちばん美しいのは誰? それは白雪姫です! なん……だと……みたいな」
「なんで貴方ってそんなにテンションが高いのかしら」
「あはは、褒められても何も出ませんよぅ」
「褒めてないんだけど」
美鈴は気にせず続けた。
タフである。
「流石に、世界の女性の中から最も美しい人物を選ぶのは難しいですよね。なので、それを幻想郷に限定して機能させたのが、何を隠そうこの鏡なのです。凄いですね!」
威勢の良い美鈴と裏腹に、咲夜の気分はあまり高揚していない。
正直なところ、やっぱりろくでもない話だったなあと肩を落としている最中である。
「一体誰が作ったのよ、そんなもの」
「さあ。どこぞの式との噂もありますが、憶測の域を出ません。本人も否定しています」
「隙間妖怪もろくなことをしないわね」
「結構おもしろい試みだと思うんですけどねー私は。ただし、あまりにその数値が厳密なためか、弾き出された順位に納得がいかないという苦情が殺到したらしく、あえなく香霖堂送りに」
真実が必ずしも人を正しい方向に導いてくれるとは限らない。
正しすぎるがゆえに、目を逸らしたくなることも世の中にはある。直視したくない現実、たとえば目尻の皺だとか、重なり続ける年齢だとか、仕事をしない門番だとか、はしゃぎまわる妖精だとか。
それら全てを見ないで済むのなら、どれだけ楽なことか。
「……で、貴方は面白がってそれを持ってきたわけね」
「それもありますが、咲夜さんが何だか物欲しそうにしているので、これは咲夜さんにプレゼントしますね」
「要らないわよ」
「まあそう言わずに」
「いや本当に要らないんだってば」
「騙されたと思って」
「童話の鏡と同じ末路を迎えたいのかしら貴方は」
「てつざんこー!」
「だからそれは正拳突きだし、それに」
押し付けられる手鏡を払いのけ、下腹部に放たれるチルノの正拳突きを軽くいなす。
と同時に、地面を深く踏み込み、浅く息を吸い、まぶたを閉じる。
そして、開眼。
「鉄山靠ってのは、こうするのよ」
――ごっ。
美鈴が放ったそれと同等、あるいはそれ以上の衝撃を伴って、チルノは明後日の方向に吹っ飛んでいく。過去、美鈴に何度か教わった鉄山靠を磨き上げた結果である。
その成果に美鈴は忌憚ない拍手を送り、咲夜もそれを笑顔で迎え、お礼とばかりに美鈴の身体にもその効果を叩きこんであげた。
――ぼっ。
仕事を放り出していたのは咲夜も同様であり、美鈴の二の舞にならないためにも咲夜はしばらくメイドの職務に徹した。
老いは身体を蝕むけれど、頭と体を動かしていれば年齢や種族や性別がどうこう感じている暇は無くなる。だからこそ、何もしていないときに余計なことを考えてしまうのだが。これもまた性分だから、今更それを憂えても仕方ない。
そして、悪魔が目覚める前に一通りの仕事を終え、一息付いた自室の中で。
「……ううん」
咲夜は、美鈴から強奪した手鏡を覗き込んでいた。
ベッドに腰掛け、エプロンドレスを外した油断たっぷりの姿で、禁断の質問を投げ掛けようかどうか頭を悩ませている。無論、手鏡にも咲夜の容姿はほぼ完全な状態で映し出されており、現実を直視しろと言わんばかりに目尻の皺が重ねた年齢を突き付けてくる。
……見慣れた顔だ。もう愛してもいい頃かもしれない。
どんな髪の色でも、どんな目の色でも、人間であれ、妖怪であれ、受け入れてくれる場所を見付けた今となっては。
自分の容姿にさえ違和感を持って生きていた時代は、とうに過ぎたのではないか。
「……そうね。私は、私の顔が好きでいたいんだわ」
自信を持っていたい。だから、あまり変わっていってほしくはない。
でも、その変化すら愛さなければならない。難しいことだ。けれど、それは人にしかできない嗜みである。胸を張っていよう。
ならば、禁断の台詞すらも堂々と言えるはずだ。
憎み、妬み、目を逸らすしかなかった現実を睨み返し、十六夜咲夜という存在がどの位置にあるのかを確認する。それが到底納得できないものだとしても、それもまたひとつの物の見方である。笑わず、諦めず、受け入れようではないか。
何のことは無い。
「……こほん」
それでも少しは恥ずかしいから、まずは咳払いをひとつ。
何度か発声練習を行い、鏡の中の十六夜咲夜に目配せをして、少しずつ、確かめるようにその言葉を口にする。
「鏡よ、鏡――」
十六夜咲夜は、今までずっと、鏡の向こうから十六夜咲夜を見続けてきた。
彼女が悲しみ、喜び、嘆き、肩を震わせ、頬を赤らめ、息を飲んだ瞬間のその全てを。
だから、何も問題は無いのだと。
「この世界で、いちばん……」
少しばかり、笑いたくなる気持ちを抑えて。
咲夜は、最後の言葉を紡いでみせる。
「――美しいのは、誰?」
「それはあなたです!!」
扉を蹴破って登場した紅美鈴は何故かチルノを肩車しており、にっこりと歯茎を見せるくらいの笑みを浮かべながら、力強く親指を立てていた。
チルノが『ドッキリ大成功!』の看板をいち早く掲げていたのを美鈴が咎め、とりあえずチルノも親指を立てて屈託のない笑みを浮かべる。
咲夜はしばらくどんな顔をしたらいいのか解らない様子だったが、程無くして、彼女もまた親指を立てて、ゆっくりとそれを地面に向けて下げていった。
美鈴の笑みが引き攣って、チルノはなおも笑っていた。
その後に浮かべた咲夜の笑みは、確かに、この世で最も美しいものであった。
SS
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2010年12月12日 藤村流 |
東方project二次創作小説 |