私はそれを美しいと思いながら、きっと死んでいくのだろう。
 ゆっくりと消えていく意識の中で、漠然と、どうでもいいことを考えた。





Beautiful Life





 人間の寿命は有限。
 妖怪の寿命は無限、という訳では必ずしも無いにしろ、普通は人間より長いもの。
 人間と妖怪が別々の社会を築いているのなら問題は無いが、愛し合う訳では無いにしろ、二者が共存している場合には多少の齟齬が生ずる。
 まあ、それすらも本当に些細で瑣末な事なのだが。
「……はあ」
 疲れた息は、寂れた部屋の中に良く響いた。
 寝たきりになってどれくらい経つのか、数えるのも億劫になった。
 それもそのはず、老化が極限まで進んだ頭は論理的な思考に向いていない。せいぜい、今日の夕食はなんだろーとか、昔は良かったねえそれに比べて最近の若いモンはーとか、過去と未来を天秤に掛ける程度の能力しかない。
 どちらにしろ、残された時間は少ない。
 かといって、進んでやるべきことも見当たらないのだから、博麗霊夢は自分が生きていた意味って何だったのかしら、なんて下らないことを考えていた。
「――おっす、見舞いに来たぜー」
 突如、所々にシミの付いた襖が豪快に開かれる。
 太陽もろくに昇っていない時刻に、霧雨魔理沙はいつものようにやって来る。これを迷惑と言わずして何と呼ぶ。そもそも霊夢は朝食を摂っていない。無論、客人がいる前で食事を摂ったところで、霊夢も魔理沙も全くといっていいほど気にも留めないのだろうが。
 霊夢は、昔よりはだいぶしわくちゃになった魔法使いの顔を覗き込んで、二度目の溜息をついた。
「はぁ……相変わらず、落ち着きがないわね。本当に還暦?」
「はっはっはー。どうだ、羨ましいか」
「そのうち妖怪変化するんじゃないかって気が気じゃないわ」
「そのときは紅魔館の世話になるから大丈夫だ。あそこは定年退職が無いからなー。代わりに寿退社も少ないが」
「咲夜が聞いたら泣くわね……。なんだっけ、紅魔館のメイドたちに『長老』とか『元帥』とか呼ばせてるんだって?」
「『お局さま』だぜ」
「……それは無い」
 ははは、と魔理沙が豪快に笑い飛ばす。寄る年波など知らぬといった風体に、霊夢も感心するしかない。噂では、永遠亭のうさぎにキノコ健康法を学んだという話だが、はてさて。
 もしそれが真実なら、本当に妖怪変化してもおかしくはない。今のうちに娘に退治してもらおうかしら、と霊夢はわりと本気で思う。
 魔理沙は、よっこらせと霊夢の枕元に腰掛ける。なんだかんだいって、立ち話を続ける体力はないらしい。
「どうしたのよ。見舞いになんか滅多に来なかったくせに」
 最近では、頻繁に霊夢の顔を見に来るようになった。それも決まって朝方に。
「いや、なに。いつ今生の別れが来るか判らんしな。こうして毎朝顔を見に来れば、いち早く異変にも気付けるだろう? できるなら、私は第一発見者になりたい」
「……額に落書きでもするの?」
「いくら私でも、最期くらいはゆっくり眠らせてやるさ。親だけじゃなく、友人の死に目には会っておきたいからな。最期なんだし」
「えらい拘るわね。最期ってところ」
「仕方ないだろ? そういう生き物なんだからな、私らは」
 達観、あるいは諦観のような言葉も、霊夢は特に寂しいとも思わなかった。
 それは本当に今更なことだし、幻想郷には人間より妖怪の方が多数を占めている。
 その中に、人間という種が、ひとつ。たったひとつ。
 しかしそれは孤独ではなく、特別であるということでもなく。ひとつだから寄り添いあうとか、ひとつだから寂しいとか、そういう意味がある訳でもなく。
 単に、ひとつの種であるという意味しかないと霊夢は理解している。
 あるいは、その思考こそが彼女が孤独である証明なのかもしれなかったが、霊夢はそれを理解しない。今更、孤独であることを思い知ったところで、今の自分にはどうすることも出来ないのだし。
「……そうねえ。人間ってだけで、そんじょそこらの妖怪たちにハンデくれてやってるんだから。ちょっとは感謝してほしいわ」
「でも、お前は負けなかった。……だろ?」
「いろいろと面倒くさいのよ。負けると」
 本当に面倒くさそうに霊夢が言って、疲れきった身体を起こす。
 起きたばかりだというのに、こんなにも枯れ果てている。自らの衰えを実感し、いまや浮遊霊ですら祓えない自分の力に溜息が漏れる。
 しかし、それは無力感や絶望、悲しみや怒りとは掛け離れた感情だった。
 どちらかというと――こういう言い方をすると、魔理沙は怒るかもしれないが――、安堵に近い。
 長かったような、けれども短くもあった人生という旅の、ゴールが見えたことを思えば。
「……今だってそう。なんかねえ、力が出ないのよ。どうしたって空も飛べそうにない。別に、飛んで行きたい場所がある訳じゃないけどさ。どうせ先も短いし、新天地を探してる途中に死んじゃうわ」
 そこで言葉を区切り、喉に絡んだ唾を飲み込む。嚥下する力も衰え、何度もくぐもった咳をこぼす。
 魔理沙は胡坐を掻いたまま、そんな友人の言葉を静かに聞いている。
「ぅん……えと、そうなのよ。もうすぐで、私は寿命に負ける。そうすると、とても面倒」
「……どうしてだ?」
「誰か泣くでしょ、絶対」
 確信をもって、というより、なかば適当に放り投げた想像だった。
 霊夢は、誰かが泣くと思っている。それは『信じている』という程のことでもなく、ただ単純に、人間ならば同類の死を嘆き悲しみ、涙を流すだろうという一般論から導き出された答えのようでもあった。
 そういうことなんだろう、と理解しながら、魔理沙は軽口を叩く。
「……お前、そんなに自分が愛されてると思ってるのか?」
「うん、まあ、紫よりは」
「……あー、あいつを引き合いに出すのはずるいな。例外すぎる」
「それじゃあ、魔理沙よりは愛されてるってところにしとくわ。人間だし」
「まあな。人間だしな」
 魔理沙の言葉を聞いた後に、霊夢は再び横になる。本来なら喋ることも億劫なはずだが、やはり友人の前では多少は口が滑らかになるらしい。
 最後に、霊夢はどうでもよさげに呟いた。
「本当……厄介よねえ。葬式とか、面倒くさいからやんないでもらえないかしら……」
 お前が挙げる訳じゃないだろう、と魔理沙が揚げ足を取って、そりゃそうだけど、と霊夢が力なく言った。
 きっと、最期の日もこんなふうに他愛もない話をして、何事もなかったように別れるんだろうなと、どちらともなく思ったが……それは二人とも口には出さなかった。
 その方が美しく終われるのだと、二人は理解しているから。




 魔理沙が帰った後、消化に良いらしいお粥を食べる。
 自分で食べられるという霊夢の言い分を無視して、娘は強引にお粥を口に突っ込む。
 無論、病人食に近いので味は薄く、甘味も塩味もろくに利いていない。
 ここでお粥を吐き捨てるのも、偏屈な老婆を見事に演じているようで爽快かもしれないが、とにかく迷惑極まりないので心の中だけに留めておく。それに、そんな無体なことをすれば、娘に拳骨を喰らって強制的に眠らされそうだし。
 老若男女関係なし、天下無双の傍若無人ぶりで幻想郷を横行闊歩したという、自分の娘。
 霊夢がこの娘くらいの年齢になったときは、もうかなり負けが込んでいたが、娘は今でもバリバリの現役で、紫やレミリアとやりあってもそこそこの勝率を叩き出す。まあそれでも、最盛期ほどの覇気は見られないという話だが……。
「――ん、誰か来たわね」
 ぽつりと呟くと、娘は気を利かせてこの場を後にする。お粥は枕元に置いたまま、束の間の来訪者に気付かれないように奥へと消える。
 年を取って良かったと思えるのは、異常な程に勘が鋭くなったこと。
 襖の向こうでくすくす笑っているのが、永遠に紅き幼き月――レミリア・スカーレットであるということが、漠然と把握できる。
「……入んなさい。誰もいないから」
 昔のレミリアならば、誰がいようと何をしていようと、己の都合に合わせて自由気ままに来襲してきたものだが、今となってはよほどのことが無い限りは霊夢の言葉を待つ。
 永遠に幼き、とは言いながらも、やはり少しは成長して思慮深さを得ているのか、それとも霊夢に同情しているだけに過ぎないのか。
 霊夢は、そのどちらでも構わないと思う。
 自分の滅びによって、レミリアに何か思うところが出来たということなのだから。これで少しは、娘や孫にかかる負担が減じるだろうし。
「……入るわ。霊夢」
「いらっしゃい」
 気のない招き声にも、レミリアは気にも留めずに襖を開く。
 あの頃、霊夢が幻想郷を包んだ霧の事件の時と全く変わっていない、その体躯。表情は、いくばくか長い時を過ごした証が見え隠れしているようにも見える。尤も、それが年寄りゆえの穿った見方でないと証明するには、少しばかり根拠が足りないのだが。
「……あら。お局さまもいらっしゃるじゃないの」
「おつ…………。あなた、口の利き方には注意しなさい。そのうち死ぬわよ」
「適当な予言、ありがとう」
 幼さを宿す吸血鬼の後ろに控えているのは、短い人間の時を吸血鬼と過ごしてきた従者。
 媚びず、引かず、弛まず、懲りず。
 年齢は霊夢や魔理沙と大差ないのだが、三人の中では最も現役に近い体力を備えている人間といえる。
 立ち振る舞いも、清楚かつ柔軟なものに変化を遂げており、完全で瀟洒な従者はもはや芸術品にまで昇華した。
 しかし、その変貌は鉛筆の先をナイフで尖らせ続けるかのごとく、一歩間違えれば即座に折れて砕け散りかねない蛮勇に等しい。身を粉にして働くという言葉も、十六夜咲夜ほど年月を重ねた人間に強いるのは些か酷な格言だろう。
「あんたも、どうしたのよ……。幻想郷じゃ、老人介護強化月間とかいうスケジュールでも組んでるの?」
「そんな愉快なイベントは、後にも先にも組めないわよ。老人になるのは人間だけなんだし」
「うまくいけば、半霊も老化すると思うけどね……」
 寝転んだまま、レミリアと軽口を叩き合う。
 枕元に腰掛ける吸血鬼の斜め後ろに控える咲夜は、特に言うべき台詞もないのか、押し黙ったまま和室の片隅に待機している。流石は吸血鬼の従者、立ちっぱなしでも全く問題なさそうだ。
 かつては少女の異質さを前面に主張していたアッシュブロンドも、今となっては年齢相応の白髪にも見て取れる。しかし、どれが白髪でどれが銀髪なのかは判然としない。他者を騙し、自身さえも騙し得るトリックスター。
 もしかしたら、この従者ならば十六夜咲夜が死んだという事実すらも騙し切るのではないか――。
 そんな、他愛もない妄想が頭を掠めた。
「……そういや、運命を操れるんだっけ。あんた」
「さて、ね。自分でも便利なのか不便なのか、いまいちハッキリしないわ。咲夜くらい明確なら、まだ対処の仕様があるというものだけど」
「ふぅん。万能だと思ってたけど、そうでもないんだ。なるほど……」
「その力を使って、生き延びようとでも思った?」
 口を噤んだまま、息を吐き出す。苦笑のつもりだったが、咳に近かった。
「まさか。生憎と、長生きするのは趣味じゃないのよ……。いろいろと不便だし、これ以上娘に殴られたくないし」
「良い巫女ね、今の博麗は」
「良い巫女なんて居ないわよ。居るのは、なんでもない博麗だけ。本当になんでもない、ちょいとふざけただけで後頭部に肘を落としてくるような、かなり普通の」
「普通、ね。胡散臭くて素敵だと思うわよ、そういうの」
「……うん。私も大好きだわ、そういうの」
 くすくすと、年齢相応の笑みをこぼすレミリア。
 五百年、それ以上の時を重ねた存在は、いちいち年月を数えたりはしないのだろう。
 そして、ころころとある期を境に死んでいく人間たちを、不思議そうに見下ろしているのだろう。
「それなら、霊夢は自分がいつ死ぬか知りたい?」
 興味深そうに顔を覗きこむレミリアと、静かに眼を瞑る霊夢。それは否定を意味していた。
「時が来れば、勝手に判るわ……。生まれた時も自然と出て来たんだから、逝く時だって同じでしょう。予め判っていることに力を使うべきじゃないわ」
「投げやりなのね。自分の命なのに」
「自分の命に謙虚なだけよ、私は」
「……そうかもね。あなたは、いつだってそう」
 声のトーンが変わる。
 霊夢は一瞬だけ覚悟し、次の瞬間にはその覚悟を解いた。
 眷属を増やすことに不向きな性格のレミリアでも、博麗霊夢だけは例外かもしれない。そう自分で考えて、吸われる覚悟と殺される覚悟、そして自決する覚悟を一瞬で着脱した。
 殺気も熱意もなかったから、この場を離れている娘は気付かなかっただろう。ただ、霊夢はあり得るだろうなとなんとなく思っていた。
 今は、たまたま吸われなかった。それだけのこと。
「……ほら。吸われると思っても、全然畏れないんだもの。張り合いが無さ過ぎるよ」
「怖いわよ……。晴れの日に縁側でぬくぬく出来ない身体になるかと思うと、ああもう気が気じゃないわ」
「恐怖のグレードが低い。もっと崇高なところで恐れ戦きなさい」
「……じゃあ、生涯にんにくラーメンが食べられなくなるかと思うと……」
「……もういいわ。結局、霊夢にとってはその程度のことでしかない。だから、吸っても何の意味もないわ」
「それはそれは、光栄ですわねー」
「心がこもってない」
 たとえば、何十年か前に戻ったとして。
 今と昔で全く同じような会話を繰り広げていたとしたら、どうだろう。異常だろうか。普通だろうか。
 素晴らしいと笑うか、気持ち悪いと嘆くか。
 何にしろ、死の淵にあっても彼女たちは随分と楽しそうだから、別にどうでもいいのかもしれない。
 それはそれで、確かに素晴らしいことなのだし。
 変わらないということは、不気味ではあるが、確かに美しい。
「一応、あんたにも聞いておくけど」
 首を起こして、部屋の空気に溶け込んでいる咲夜に問う。
 質問の内容を口にする前に、完全なる従者はその中身すら先読みしてみせた。
「……なに? 輝いていたあの頃に戻りたい、とか? ……無理無理。それに元々輝いてなかったじゃない」
「……畳み掛けるわねー」
 腕組みしたまま、咲夜は頬を撫で付ける。皺が目立つ肌でありながら、日頃の手入れは怠っていないと見た。六十前後と聞いて、耳を疑う人間は少なくあるまい。まあ人間自体そう多くもないし、妖怪は寿命という概念が薄いからあまり驚きもしないのだが。
「どうもね、咲夜は私が霊夢をお見舞いするのに賛成してなくて」
「当たり前ですよ。神社にやってきたはいいものの、開けてびっくり腐乱死体だったらどうするんですか。蛆とか細菌とか洒落になりませんて」
 咲夜は至って真面目に進言する。
「いや、洒落になってないのはそっちだから。あと、塩で清めるから腐らないと思うし。多分」
「……怪しいわ。実は既にゾンビだったりしない?」
「そのへんは臭いで判れ」
 すると、霊夢の言葉に従って霊夢の首周りに鼻を近付けるレミリア。いやにくすぐったい。
「…………咲夜、どうやら違うらしいわよ。ちょっと線香臭いけど、ちゃんとした人間」
「どいつもこいつも……」
 諦めの溜息を吐いて、もういちど仕切りなおす。ここで咲夜に聞きたかったことを忘れてしまうほど、耄碌してなくて本当に良かったと思う。
「もしかして、鋭いと思ってた私の勘が実は鈍っていて……。そこにいる人間っぽいメイドが、何の因果か吸血鬼だったりしたことを見抜けていなかったら……」
「……だとしたら、どうだと言うの?」
「娘、あと孫。ごめん」
「……私に謝られても困るけど。というか、吸血鬼じゃないし。これでも人間やってます」
「……むぅん。それはそれで不気味な生態ね。魔理沙といいあんたといい、老衰で朽ち果てるという平和な死に方は選べないのかしら。嘆かわしい」
 霊夢の素直な愚痴は、咲夜の溜息を誘発するのに充分なものだった。溜息をつくたびに年を取るという説に従えば、これで咲夜も老衰に一歩近付いたことになる。同類、熱烈歓迎中。
 しかし、溜息の数は霊夢が一番多い。
「わたしゃてっきり、寂しがりやの吸血鬼が仲間欲しさにがっつり逝っちゃったもんかと」
「そこまで切羽詰まってないわよ。特に寂しくもないし。最低、独りで逝ってしまうあなたよりは」
「……そうかぁ。孤独死っていうのは、あるいはそういうことを言うのもしれないわね。ちょっと参考になったわ」
「それじゃあ、参考までにひとつ間違いを正してあげる」
 唇に指を添え、文字通りに悪魔の微笑みを浮かべ、レミリアは運命を語る。
「私は咲夜を従者としているけれど、従者が咲夜でなければならない理由はない。意味もない。人間である必然もない。これはただの運命なのよ。――そう、運命ね。
 だからこそ、私は咲夜という個、そして同時に人間である咲夜を傍に置いていたい。そのどちらかが欠けても無意味。だから、ただ生き永らえさせるためだけに吸血しはしない。人間であることも、時を操る能力も、銀髪も殺人鬼も大雑把なのも抜け目がないのも、全てで一つ、ひとつが全ての十六夜咲夜。
 私は、そのどれを零すことも許さない。
 必要や意味や理由なんてどうでもいい。咲夜それ自体が運命であるなら、私はその生命にまで干渉できない。運命の手綱を握っていたとしても、運命そのものの性質を変貌させることは出来ないから。
 ――だから、『その程度』の能力なのよ。でもまあ、そこそこ役に立っているから不平不満を垂れるのも筋違いなのだけどね」
 話の締め括りに、その忌まわしき能力をあっさりと笑い飛ばす。
 つまり、レミリアは咲夜を吸血鬼の眷族にする気はさらさら無いということ。
 咲夜自身がどう感じているかは不明だし、人間であることに深い拘りを持っている訳でも無さそうだが、かといって安易に永遠の命を望むとも思えない。
 あるいは彼女も、霊夢のように縁側でのんびりと紅茶を啜りたい類の生き物なのかもしれないし。
「あっそ。つまり、あんたは咲夜の運命を大事にしたい訳だ……。従者想いの主で良かったわね」
「良い主ではありますわ。確かに」
「……含みのある言い方ね、咲夜」
 しかし、レミリアの言い方に棘は無い。
 その後、何十年も続けられた当たり障りのない会話が延々と流れていき、昼前には「昼更かしし過ぎたわ」と呟きながら紅魔館へと引き上げていった。おそらく夜更かしの対義語なのだろうが、咲夜に通じていないのは問題があるのではなかろうか。
 やれやれ……と、騒がしい部屋の空気を霧散させるように寝返りを打つ。
 静かになった和室は、数分前とは裏腹に耳鳴りが煩いくらいの静謐さ。これぞ神社というべき荘重な雰囲気も、霊夢にはどこかむず痒く感じられた。
 そういえば、ひとつだけ聞き忘れていたことがあった。やっぱり若干耄碌していたらしい。
 レミリアの能力を持ってすれば、いとも簡単に判ってしまうだろう霊夢の疑問。
 ――いや、疑問ではなく提案か。
『あんたらは、何時頃死ぬ予定?』
 頭に浮かんでいた質問に、自分でも笑ってしまう。
 それはやはり、霊夢が孤独である証左なのかもしれない。
 独りで逝くのが寂しいから、虚しい天上への道中を共に歩いてくれる誰かを求めた。
 結局、口にしなかったのだから弱音を吐いたことにはならないが、霊夢の心にちょっとした陰が落ちたことは確か。
 けれども、陰陽は霊夢の十八番。
 むしろ、ろくに陰を背負ってこなかった彼女だからこそ、その陰を新鮮なものとして素直に受け入れることができた。
 ――冷たい空気を吸って、吐く。それを何度も繰り返す。空気は入れ替わっても、魂までは交替しない。 世の中は意外と不便だ。
 今頃になって、世界が自分に対して無愛想なことを自覚する。
 それはきっと、霊夢が世界に対して無愛想だったからだろう。
 事此処において、霊夢はようやく孤独を受け入れる。その意味を理解して、自虐的に笑ってみる。
「ああ……そうね。もしかしたら、寂しかったのかもしれないわ……。私は」
 誰にともなく、霊夢はぼやいた。
 とても素敵に、優しく、面白おかしく。




 昼を過ぎ、夕べの紅が空に境界線を引く時間。八雲紫は、いつの間にか部屋の掛け軸の前に陣取っていた。
 もはや、驚けない。
 霊夢の勘がいくら鋭くなろうとも、空気のような存在まで知覚することはできない。
 八雲紫とは、つまりそんな妖怪だった。
「あんたほど神出鬼没って言葉が似合う奴はいないわよね……」
「あらあら、私の格も随分と上がったものね」
 隙間の中は雨だったのか、畳んだ傘を畳みに寝転がす。
 外は晴天だが、紫に常識は通用しない。
 それすなわち、幻想郷内外の常識から悉く外れていることを意味する。
「……で、なに? あんたも季節外れのお見舞い?」
「いえ、ね。霊夢の頭の春が、そろそろ満開になってるかと思ってぇ」
 悪びれる様子もなく、至って軽薄に話す。
 その清々しい額に、素早くチョップをかます霊夢。
「殴るわよ」
「殴ってから言うし……。今日は朝からお盛んだったくせに、元気が有り余ってるわねぇ」
「お盛んじゃない」
 断じる。
 口ぶりからすると、紫はずっと霊夢の見舞い客を観察し続けていたようだ。
 空気のすることはよく判らん、と霊夢はそれ以上の考察を却下した。
「一体、何なのかしら……。なに、虫の報せで私が明日死ぬとか実しやかに囁かれてるわけ?」
 一日に三度。魔理沙はほぼ毎日訪れていたが、レミリアと紫はここ一、二年は余裕で顔を合わせていなかった。
 懐かしい、と口にすることはない。
 会って話をしても、軽口か悪口しか叩かないのだから。
「うーん、いつかの蛍が暗躍した形跡は見当たらないわね」
「じゃあ、伝書鳩とか」
「あの雀は、幽々子がちゃんと咀嚼したし……」
「宇宙兎が月からの電波を受信して、それを民間に無料で配信し始めたとか……」
「あっ、その手があったわね。今度、藍の式に試してみましょう」
「……よーするに、あんたが来たのは只の気紛れなのね」
「大正解」
 嬉しくないわよ、と霊夢は吐き捨て、吐き出した息に押されるように布団へと倒れこむ。
「あー……。なんか、客と話しすぎて疲れたわ……」
「客、ね。娘や孫となら、いくら話しても疲れない?」
「なにぶん、天寿を全うしかねない年齢だからねえ……。誰と話しても、辛いもんは辛い」
 そこで、紫がくすりと笑うのが見えた。
 深い意味はないのだろうと追求は避けたが、紫はわざわざその答えを教えてくれた。
「まあ、本当に今更なことだけど」
「うん。今更だから言いたきゃ言っていいわよ。聞くだけなら疲れないし。煩いけど」
「じゃあ、言うわ。
 今、貴女は客と言ったけれど……それは私たちだけじゃなく、娘や孫に対しても同じふうに思ってるんでしょう」
「……ふぅん。その根拠は?」
「勘」
 きっぱり、紫は躊躇いもなく言い放つ。珍しく胡散臭くなく、全くもって清々しい。
「……良い言葉だわ。勘」
「ええ、貴女がとても大切にしている感覚ね。私も重宝してるわ」
「なるほど……。だからあんたは、自分の思うがまま自由奔放に神出鬼没なわけだ」
「私がいつも眠っているのは、私の勘が寝ろ寝ろ煩いからなのよ? それを藍は自堕落だの出不精だの、何のために尻尾を幾本も生やしてるんだか判らないわね」
「まあ、主の意図を汲むようになるためじゃないとは思うけど」
 紫は不思議そうに首を傾げたまま。変わらない。
「貴女にとって、私たちはいつまでもお客様なのね。どれだけ近付いても、私が境界線を引かなくても、貴女の結界の中に入ることはできない。たとえ侵入できたとしても、貴女はまた新しい結界を張る」
「……今日はやけに絡むわね」
「まあまあ。スキマ妖怪の戯れ言だと思って聞き逃してくださいな」
「戯れ言、ね。……まあ、レミリアにも言われたんだけどさ」
 うん? と紫は聞き返す。知らずと、霊夢は自分の声が沈んでいることに気付く。
 それでも、わざわざ声の調子を上げたりはしなかった。
「わたし、孤独なんだって」
「面白い冗談ね」
「そう? 私はあんまり笑えなかったけどなぁ」
「それは、貴女が独りだからよ」
 わざと、場の空気を凍らせる一撃を放ってくる。
「……まあ、ねえ」
 紫の言葉遊びに付き合う気はないが、その行間に何か意味があるのではないかと疑ってしまう。
 もしかして、語呂の良さで言葉を選んだり韻を踏んだりしているだけなのかもしれない。
 だが、いつもの気紛れであるとしても、今に霊夢には決して無視できるものではなかった。
「どうなんだか、いまいちよく判んないのよ。寂しいとか楽しいとか、詰まらないとか下らないとか言われても。私にもはっきり理解できないものが、赤の他人に理解できるものかしら」
「――客観的に見て明確な真実が存在する」
 不意に、紫が得体の知れない言葉を口にする。
「……なにそれ?」
「外の諺よ。人の話はよく聞きなさいってこと。いつも貴女を見ている他人がそういうんだから、それはきっと明白な真実なんでしょう」
「……でもねえ。命の数だけ真実は存在するっていうし」
「なら、年の数だけ真実が存在しないとバランスが取れなくなるわ」
「何のバランスよ、何の……」
 真面目な顔になったのは一瞬だけで、後は元の紫に戻っていた。
「まあ、どうでもいいことなのだけど」
「だったら、棺桶に入るまで黙っていて欲しかったもんだわ。余計な難題を抱えちゃったじゃない」
「あらあら。いつもの博麗霊夢なら、その程度の問題はかるーく笑い飛ばせるんじゃなくて?」
「……なんで、そんなに私の格が上がっちゃったのか知らないけど……。
 私だって、普通に悩んだり困ったりするのよ。無敵って訳じゃないし、無神経って訳でもない」
「図々しくはあるけどね」
「失礼ね。馴れ馴れしいだけよ」
 売り言葉に買い言葉。多少、霊夢は自分の不利を悟っていたが、それでおめおめと引き下がるほど甘くはない。
 おそらく、紫とはこれが最後になると判ってしまったから。
「……もし、私が孤独なんだとしたら、どうしたらいいのかしらね。今からでも、文通相手とか見付けた方がいい?」
「たしか、魔法の森にやたらと人形を持ってる魔法使いが居たでしょう。其処から何体か呪いの人形を拝借して、夜中にぶつぶつと話し掛けていれば」
「……さしもの私も、娘に祓われるくらいにまで落ちぶれたかないわ」
「贅沢ねぇ。別に私は、貴女が孤独だろうと寂しかろうと接し方を変えたりしないわよ? ただ、ちょっと可哀想な目で見るようになるかも知れないけど」
「誰が可哀想だ、誰が」
「貴女よ、貴女」
「……いちいち指を差さない」
 こめかみに突き付けられた人差し指を、右手で押しのける。
 気が付けば、疲れたと良いながらかなり長い間に亘って喋り続けているような気がする。はぁ、と掠れた溜息を吐いて、横目で紫の変わらぬ体躯を観察する。
「そうなると、私が紫より愛されてるのかどうか不安になるわね……」
「私を嫌うのは難しいわよ。生半可なことでは見捨てないもの」
「それもなんか嫌だなぁ……。いざとなったら切り捨ててもいいのよ? 別に天上から蜘蛛の糸を垂らしてくれなくても、私は地獄の中でも元気にやって行けるから」
「あら。博麗の巫女ともあろうものが、灼熱の地獄を制覇する気?」
「天下は取らないけど……。まあ、そこそこ」
 紫はくすくす笑っているが、霊夢は自分が地獄逝きの可能性もあると真面目に考えていた。
 なにせ、生きることにあんまり熱心ではなかったし、鬼に恨まれそうなこともだいぶして来たし。
 極め付けは、こんなにも長生きしてしまったこと。
 もう少し早く往生できれば、無駄に苦労を掛けることも無かっただろうに。
 気の抜けた霊夢の顔を目の当たりにした紫は、神秘的な笑みをたたえたまま、霊夢の未来を予見する。
「安心なさい。貴女はきっと天国に逝けるわ」
「ああ、そう」
「そこから、改めて地獄に突き落とされるのよ」
「……そういうオチは要らない」
 くすくす笑いが耳に心地良い。
 そして、最後の邂逅の締め括りに、紫は言った。
 立ち上がり、隙間ではなく紅く滲んだ襖を開け放って、夕暮れに包み込まれた全身を霊夢に見せ付ける。
 振り返って、その逸脱した存在は静かに微笑む。
 何十年経っても、何百年経とうが変わることはないだろう、その様相を。
「――愛されてるわよ、貴女。少なくとも、貴女が他人を愛した程度には」
 とんでもなく、胡散臭いなぁと霊夢は思った。




 闇が怖い、というのは正確な表現ではない。
 正しくは、何も見えないという主観的な事実が怖いのだ。
 手を伸ばしても何にも触れられず、足を踏み出そうとしても、その先に踏みしめるべき地面があるかどうかさえ定かではない。
 ――知らない、判らない。
 生きている者にとって、死とは最上級の未知である。だからこそ恐れ、死ぬまいとして生きる道を選ぶ。
 人間は生きるために生きるのではなく、死を避けるために生きている。
 それが唯一絶対の真理だと言い張る気は無いが、そういう側面もあるだろうと霊夢は考える。
 だから、人間をやめたもの――幽霊は恐れを知らない。好き勝手にやりたいことをやる。他人に迷惑を掛けまくる。
 死という未知を遥か昔に通り過ぎているから、それ以上の恐怖などあり得ないと経験的に理解しているのだ。
 その分、物事を深く考えるという思考能力を置き去りにしている幽霊も数多いのだが……。
「……やれやれ。私も脳みそと胆力を物物交換しちゃうのかしら。あんまり怖いものもないから、頭ん中からっぽにするのだけはやめて欲しいんだけどね……」
 月の無い夜、眼は暗闇に慣れない。
 一日中、動くこともなく布団の中で息をする。若い頃には考えられなかった生活も、境内の掃除や食事の用意が免除されるのならば、特に辛いと声に大にするほど不遇でもない。
 ただ、時たま胸が苦しくなったり、身体の節々が軋みをあげたりすると、さすがにちょっとは辛い。
 だが、改めて苦痛や苦難を口にはしない。
 それが、老人として当然の状態だと思っているから。
「……さぁて、次で本日何人目のお客さんかしら……?」
 もしかしたら、何人じゃなくて何体とか何匹かもしれない。蓬莱人や幽霊、あるいは死神だったりした場合、単位の選定に苦労する。
「こんばんは〜」
 襖の向こうから、気の抜けた挨拶か聞こえて来る。
 聞き覚えのある声質、加えて部屋にまで侵入している魂魄から察するに、今宵の訪問者はある意味で死神に等しい存在ともいえた。
「夜分、恐れ入ります。この度は、博麗霊夢殿の新たな旅立ちに是非とも立ち会いたいと――」
「死んでない死んでない」
 仰々しい文言を遮り、四つんばいになった状態で襖を開け放つ。
 どちらの存在も霊に近いが、主は完全な亡霊、付き添いは半人半霊という特殊なナマモノである。
 白玉楼の主こと西行寺幽々子は、彼女の間違いを楽しそうに窘める。
「ほら。やっぱり私の言った通りじゃない、妖夢。巫女の魂にはクセがあるって言ったでしょう?」
「うぅ……ちょっとした勘違いじゃないですか」
 狼狽える妖夢の体躯は、立派な女性のそれに成長していた。
 童顔なのは生まれつきにしろ、守護者としての身体と女性としてのしなやかさが一つの肉体に同居している。変わらぬものがあるとすれば、彼女の隣りにふよふよと浮いている魂魄くらい。
「……全く、揃いも揃って私を亡き者にしようと企んで……」
「企まなくても、あともう少しで死んじゃうでしょ」
「そりゃそうだけど。死期が早まるってことはある訳だし」
「そのわりによく喋ること」
「……生憎、それくらいしかすることが無くて」
「することが無いんじゃなくて、したくても出来ない――の間違いじゃない?」
 全く――と、霊夢は心の中で繰り返す。
 今日に限って、誰も彼もが霊夢に絡む。それだけならよくある話だが、その誰もが霊夢に難題を吹っかけてくる。死後の世界にまで持ち込んでしまいそうな疑問の種を、土産代わりに預けてくる。
 それは至極厄介だった。
 お土産には、捨てたくとも捨てられない重みがある。見舞い客が霊夢に課した難題もまた、例外なくその重みを備えている訳で。
 霊夢は、今日何十回目か判らない溜息を吐き、冥界の住民たちを招き入れた。妖夢が後ろ手に襖を閉ざし、部屋の中がほぼ暗闇に支配される。行灯を点けるのは、何故か躊躇われた。
 やはり、幽霊は昏い夜に居てこそ映えるものだから、かもしれない。
「で、あんたたちは何の用事? まさか、老人の安眠を妨害するためだけに下界に下りて来た訳でも無いでしょうに」
「そのまさかよ〜、って言ったら怒る?」
「殴る」
 無造作に振りかぶった腕は、幽々子に届く寸前で妖夢の腕に遮られた。
 間近で見た庭師の表情は、かつての騒ぎよりずっと収斂されている。必要とあれば、彼女は一瞬の躊躇いもなく霊夢を斬るだろう。
「冗談よ、冗談。そんな介錯でも行うような顔しないで」
「……だったらいいけど。もしかしたら、逝かせてほしいのかと思って」
 妖夢の顔は至って真面目だ。冗談が通じないところは昔から変わっていない。
「そんな訳ないじゃない。ほらほら、手っ取り早く後ろに下がる」
「そうよ妖夢。私が軽々しく人の命を奪う訳ないじゃない」
「……あまり信用なりませんが、とりあえず判りました」
 何故か胸を張っている幽々子を窘めて、妖夢は腕を下げる。
 幽々子の後ろに下がった後も、一定の警戒心を維持している。老体の霊夢に何が出来る訳でもないが、万が一を考えて、いつ如何なる時も幽々子を護り相手を殲滅できる状態で待機しているのである。
 雰囲気は違えど、妖夢も咲夜も従者たるべく素質は十二分に備えている。
 霊夢には、とてもじゃないが勤め切れそうにない仕事だ。
「ふふ、妖夢も随分と口が回るようになっちゃって」
「昔は目が回る程度だったんだけどねえ。半人半霊でも成長はするのね」
「そう。形あるものいつかは滅びる。それは、人も霊も例外ではないわ。……ねえ、あなたもそう思わない?」
 問い掛けられても、霊夢はすぐに答えなかった。
 絡まれたら無視するに限る。どうせ、何も言わなくても勝手に話を続けてくれるのだろうし。
 しばらく沈黙していると、例外なく幽々子が口を開く。沈黙を肯定と受け取ったらしい。
「そ、こ、で。今日のお題なのよー。
 ――あなた、今此処でぽっくり逝く気はないかしら?」
「……いや、何もされなくたって勝手にぽっくり逝くけどさ」
 扇で口元を隠しながら、老人に対して致命的なことを口走る。
 ここで一番問題なのは、幽々子が冗談でも何でもなく、霊夢に「死ね」と言ったことだ。
「ゆ、幽々子さま!? さっきと言ってることが違うじゃないですか!」
「あら。何か言ったかしら、私ってば」
「言いましたっ!」
 妖夢が憤慨しているのは、霊夢を殺すと言ったからではなく、幽々子が口約束を違えたからだろう。
 妖夢の追求をのらりくらりと躱わす幽々子の表情は、霊夢が見ても判るくらい活き活きとしていた。死人ではあるが。
「もー、人の話は最期まで聞かないと駄目よ? 人じゃないけど」
「訂正するくらいなら言わなきゃいいのに……。まあ、言っても詮無いことだけどさ」
「判ってるわねえ。妖夢と違って」
「違わないです」
 すぐさま訂正する。
「どっちでもいいから、本題に入ってくれない? ……なんかね、もう眠くて」
「永遠の眠り?」
「一時よ。……多分ね」
「それはそれは。……だけど、本題はもう通り過ぎたわよ。残り少ない命を枯れ果てた身体で生きて行くよりは、果ての無い命を自由な肉体で過ごしてみたくない?」
「あー……。だから、黙ってあんたに殺されろって訳ね。ようやく意味が判ったわ」
 幽々子の能力によって死に至った人間の魂は、成仏せずに冥界の白玉楼へと送られ、そこでだらだらと過ごさざるを得なくなるという。昔は寂しかったのか只の気紛れだったのかは知らないが、とにかくやたらめったら能力を使いまくって宿無し魂を生み出してきた幽々子のこと、今頃になってその悪い虫が西行妖の根元から這い出てきたというところか。
 幽々子が博麗神社に現れた経緯を振り返り、霊夢は倒れ伏したまま手をひらひらと振る。
「残念だけど、うちはセールスお断りなの。そういう旨そうだけど裏がありそうな話には乗っからないわ」
「え〜。でも、今なら抽選で三名様に二ヶ月間極楽無料体験ツアーへご招待なんだけどー」
「極楽を体験したって、結局その先は白玉地獄逝きなんでしょうに。朝三暮四にも程がある」
「んー、朝八暮五くらい?」
「だいぶ増えたわね」
「サービス期間中なのよ」
「そんなんで死ねるかー……」
 吐き捨てて、不貞腐れるように布団を被る。それでも耳年増な聴覚は、薄い布団越しに彼女たちの会話を収拾してしまう。
「あらら、死んでからの方が楽しいのに……。死後の生活を保証してあげようって言うのに、こんな親切な申し出をはね付けるというの? あなたって人は」
「幽々子さま、霊夢相手に何を言っても無駄ですよ。ここはやはり、有無を言わせずばっさり行くしか」
「それじゃ意味が無いわ。ちゃんと相手に納得させた上でぷっつり逝ってもらわないと、なんか後味悪いじゃない」
「普通は、殺す時点で後味が悪くなるものですけどね」
「さっきも言ったでしょ? 形あるもの、いつか滅びる時が来る。生まれた場所と時間が選べなかったんだから、せめて死ぬ時くらいは場所と時間を選ぶ自由を保証してあげるべきでしょう」
「……それはまた、退廃的ですね」
「時代は世紀末だからねぇ。どうしても、終末的な思想になっちゃうのよ」
「幽々子さまの場合、週末の思想って感じですけど……」
 つまりは、楽天的。楽しいことばかり考えている、幽霊特有の思想。
 殺伐とした言葉が騒がしく飛び交っていても、霊夢の部屋に娘や孫が現れる気配は無い。単に彼女たちの眠りが深いということもあるが、幽々子や妖夢とは多少なりとも面識があるから、滅多なことはするまいと気を抜いているのだろう。
 果たして、殺す殺さないの遣り取りが滅多なことに属するのかどうか、当の霊夢にも判断がつかないが。
 誰も押し入って来ないということは、娘たちにとって霊夢の生死は本当に些細なことであるらしい。
「……だから、私の意志は変わらないわ。さっさと帰って歯を磨いて厠に行って寝る」
「つれないわねぇ……。そんなに、あなたは人間でありたい?」
「別に……。ただ、死んだ後まであんたなんかと付き合ってたら、死んでも死に切れないと思っただけよ」
 布団越しに、変わることのない遺志を告げる。
 霊夢の言葉に幽々子が納得したかは判らないが、不意に部屋の空気が流れるのを感じた。
「ふぅ……。ほんと、頑固な老人を相手にするのは疲れるわね」
「全くね。長寿の幽霊と話をするのも楽じゃないわ」
 皮肉の応酬は、静謐な空気に霧散する。
 再び、空気が静かに部屋を流れて、形のないものたちが消えていく。
 その間際、開け放った襖に半分だけ身体を隠し、天衣無縫の亡霊が餞の言葉を送る。
「さよなら。あなたは人として死になさい」
 冷淡に、最上の愛しさを込めて吐き捨てる。
 それ以上は何も語らず、襖の彼方、越えられない人と霊との境界線を擦り抜けていく。
 妖夢は、たった一度だけ霊夢に頭を下げた。それっきり、律儀に襖を閉めてから幽々子の後を追う。
 足音がする訳でもないのに、彼女たちが去っていく様子が手に取るように判る。
 それだけ、自分は霊に近付いているということなのだろうか。
「ああ……だから、『霊感』って言うのか」
 今際の際で、またひとつどうでもいい知識が増える。
 難題が増えた分だけ知識も増えるが、その知識が問題を解決するのに必要なものとは限らない。鍵穴に合わない鍵をいくら貰ったとしても、それがどんなに大切だと説かれても、それらにガラクタ以上の価値を見出すことは出来ない。
 幽霊が去った部屋は、彼女たちが現れる以前の暗闇に戻る。
 足音も無い、沈殿した空気に押し潰されそうになりながら、瞼を閉じて更なる暗闇に浸ってみる。
 こうして独り、答えの出ない問題を考えるというのも乙なものだ。
 暇潰しならば、ガラクタにだって相応の価値を見出せるのだし。




 もう誰も来なくなった部屋の中はやけに静かで、耳鳴りがしてしまう程。
 その煩わしさを甘んじて受け入れて、霊夢は暗い闇の底に伏せっている。
 明日、もしかしたら自分は死んでいるかもしれない。眠るように死ぬ、というのはなんて美しい滅び方なんだろう。なるべくなら、そんなふうに朽ちて行きたいと霊夢は思う。
 誰かに影響を及ぼすような死に方は好ましくない。誰も、自分のことを気にしないでほしい。
 せめて、自分のために悲しみ涙を流すのは葬式の当日だけにしておいて、次の日からは博麗霊夢という存在など初めから無かったように、彼らなりの日常を送ってくれればいい。
 それが、霊夢の唯一の遺志だった。
 ……もっと生きたい、という想いが無いかと言えば嘘になる。
 寂しくは無かったか。
 幸せな人生だったか。
 遣りたかったこと、言えなかった言葉は――。
「……そんなの、あるに決まってるじゃない」
 溜め込んだ息を、ゆっくりと吐き出す。
 そんなもの、いちいち数え上げていたら切りがない。遣り残しを消化しようと思ったら、一生かけても足りないくらいだ。
 でも、それでいい。
 時間切れが来たら、素直に終わるのが人だろう。霊夢はその流れに従う。
 後悔や未練があるから、誰かの眷属になったり、不老不死にでもなるのか。
 そんなものは無意味だ。
 そうまでして生きる理由など、何処にも有りはしない。
「それに……。何か、目的があったから生きてた訳じゃないし」
 溜息と共に吐き捨てる。
 この世に生まれてきたのは偶然、博麗の巫女として生きていたのも偶々。
 生きて、何をしたかった訳でもない。何かを成し遂げるために生きてきた訳じゃない。
 ただぼんやりと、為すがまま、在るがまま、流れるように生きていただけ。
 それ以上、それ以下の望みも、初めから持ち合わせていなかった。
 ……なるほど、確かに自分は孤独なのかもしれない。
 でも、それでいい。
 どうせ、孤独だからという理由で自分を無視する奴は誰も居ないのだから。
 それは、今日という日を振り返っても明らかなこと。あれだけ騒がしいのに、孤独だ何だと言っている暇などない。とすると、霊夢が死んでからも彼女たちの喧しさは衰えを知らないのだろう。
「ほんと、厄介ね……」
 額をぼりぼりと掻きむしる。
 これが問題の答えになるのかは判らないが、さっきより心が軽くなったのは確か。
 同時に、パズルが解けた後に感じる虚しさが心に居座っているのも、どうやら確かなようだ。
「……ああ、でも、やっぱり」
 霊夢は、最後の最後で自分にも望みがあったことを思い出す。
 傍から見れば些細な希望であれ、彼女にとっては至高の欲求であり、それが無ければ生きている意味もないと半ば本気で信じていたもの。
 眠気に押し潰されそうな意識の中、霊夢は自らの欲望を紡ぎ出した。
「……お茶が無かったら、生きてる意味なんて無いもんね……」
 霊夢はほっと胸を撫で下ろして、明日のことは何も考えずに一時の眠りへと落ちていった。






 雀が鳴き、嫌がらせにも等しい日差しに包まれた部屋。とてもとても静かな部屋。
「おー、今日も早いなー!」
 その静寂を突き破り、霧雨魔理沙は襖を豪快に開け放つ。運が良ければ、これで霊夢が起きてくれるだろうという打算も含め。
 傍迷惑な目覚ましにも、霊夢は床についたまま動こうとしない。
「なんだ、元気の無い老人だなお前は」
 直射日光を浴びせるのも忍びないので、霊夢の半身に陽が当たるように襖を調節する。
 雲ひとつない晴天を見上げてみても、どこに結界が張られているか全く判らない。それくらい巧妙に張り巡らされているというのは、些か不気味ではあるが安堵感もまた大きかった。
 魔理沙は霊夢の枕元に腰掛け、箒を掛け軸に立て掛ける。年代物の掛け軸も、その下に鎮座している陶磁器も、霊夢の趣味ではなく先代の博麗が持ち込んだものだ。確かに、物に頓着しない霊夢が骨董品蒐集に勤しんでいる絵など、魔理沙には難しすぎてとてもじゃないが想像できない。
「……相変わらず、気持ち良さそうに寝てるなぁ」
 穏やかな寝顔を盗み見る。異常は見当たらない。全くもって、いつも通りの博麗霊夢。
 寝息も聞こえてきそうだし、胸だって上下に動いているように見える。
 早朝の溌剌とした空気に相応しい程の眠り。そして、その後に訪れるべき爽快な目覚めを魔理沙は待つ。
 行儀が悪いと窘められた胡坐のまま、飽きもせず、再び自分の姿勢を注意される瞬間まで。
「ああ……。そういや、朝飯食べて来るの忘れたな。後でお前の朝食、半分くらい貰うからよろしく」
 霊夢が眠りこけているのをいいことに、老体に不利な約束を取り付ける。
 いつの間にか、雀の鳴き声も聞こえなくなっていた。太陽も随分と高くなり、日差しが霊夢の顔面を直撃している。慌てて襖の位置を調整し、霊夢の目覚めが不快にならないように配慮する。
 かつて、こんなに他人のために動いたことがあっただろうか。自分が楽しければいいと昔から思っていたのに、今では霊夢に楽をしてほしいと考えて行動している。大した心境の変化だ。
「全く、罪作りな奴だぜ」
 よいしょ、と立て付けの悪い襖を動かしていると、反対側の襖が開き、霊夢の娘が顔を覗かせる。
 彼女は魔理沙の存在にも動じることなく、手に持っていたお盆を霊夢の枕元に置き、いらっしゃい、と月並みの挨拶をした。
「よお。今日もやけに早いんだな」
「それはこちらの台詞です。……ところで、うちの母はまだ眠っているんですか」
 霊夢の寝顔を一瞥して、魔理沙に問い掛ける。
 魔理沙も、霊夢の安からな表情を確認して、答えを告げた。
「ああ。今日も今日とて、何の悩みもない顔で眠ってる。
 だから、今日だけはしばらく眠らせてやってくれないか。こんなに幸せそうな顔で寝てやがるのに、私らの都合で叩き起こすのも忍びないからな」
 そう言って、満面の笑みを浮かべる。霊夢と同じくらい、満ち足りた笑顔。
 破顔して皺くちゃになった顔は、霧雨魔理沙がまだ少女だった頃のように、美しく輝いていた。
 霊夢の娘は、そうですか、とだけ言い残して、また襖の向こう側へ消えて行った。
 その後には二人きり、結構長い間一緒に過ごしていた二人組だけが、陽光と朝餉の匂いが入り混じる部屋に取り残された。
 薄い味噌汁の香りが魔理沙の鼻をくすぐり、図ったかのように腹の音が鳴り響く。
「……お前がさっさと起きないから、私の腹時計が鳴っちまったじゃないか。どうしてくれる」
 腹を擦りながら、霊夢を睨み付ける。それでも、朝食には手を付けない。
 これは霊夢の分だから、彼女が起きるまで食べてはいけない。
 襖の位置を直し、魔理沙はまた胡坐を掻いて待機する。じっと、何も変わらない霊夢の横顔を眺めて日がな一日過ごすのだ。そう決めた。
 どうせ、他に何もすることがない老人の一日だ。残り少ない命を、掛け替えの無かった友人のために使ってやっても罰は当たるまい。
「……それに、約束したからな。最期くらいは、ゆっくり眠らせてやるって」
 独り言のように呟いて、それっきり。
 最期の約束を果たすために、彼女の眠りをそっと見守ることにする。
 願わくば、彼女の逝く先が平穏極まりない、退屈で平坦な道筋でありますように。
 そして出来るなら、自分もまた、彼女のように眠れることを祈って。

 霧雨魔理沙は、声も無く涙を流した。
 ぼろぼろ、ぽろぽろ、珠のような雫が。
 ささくれ立った畳に染み込んで、音も無く、消えた。






 博麗霊夢。
 享年、六十一歳。

 辞世の句。

「寂しくも
 明日を夢見ず
 省みず
 されど悔いなし
 素晴らしきかな

 我が人生」









SS
Index

2005年3月30日  藤村流
東方project二次創作小説





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