月並みな言い方だが、初めて彼女を見た時、何か感じるものがあった。会社の給湯室、コンビニで弁当を買い忘れて、取り置きのカップ麺でも食べようかと足を運んだ時だった。
「……あっ」
 彼女もまた、ポットからカップ麺にお湯を注いでいる最中だった。何故こちらを見て驚いた顔をしたのか、それは今でも解らない。ただ、彼女の瞳の色が左右で微かに異なっていたのは、私を驚かせるのに十分だった。
「ちょっと、お待ちくださいね」
 柔らかな声だった。事務員の制服を身に纏ってはいるものの、どこか、既製の枠に収まらない雰囲気があった。そんな彼女がカップ麺を食べる、という生活感に、私は興味を引かれた。
 お湯を注ぎ終えると、黙礼をして給湯室を後にする。声を掛けて引き留めるだけの勇気はなかった。けれど、彼女がたまに給湯室に訪れるなら、機会はあるだろうと思っていた。
 我ながら、浅ましい計算だと悟ってはいたけれど。

 

 翌日も、彼女は給湯室に現れた。
「あっ」
 昨日より少し早く給湯室に行き、彼女を待ち伏せた。今思えば、あまり感心できる行為ではなかったが、当時は相当の勇気を振り絞ったものだ。
「昨日も、お会いしましたね」
 たった一言、声を掛けられただけで、先んじた甲斐はあったと思った。えぇ、そうでしたね、と味も素っ気もない言葉を返して、後は無言だった。カップ麺にお湯を注ぐ作業を終えると、一礼をして足早に給湯室を出た。
 それから、週に何度かはカップ麺の日をねじ込み、他愛のない挨拶を交わすためだけに給湯室に通った。勿論、私と彼女の他にも利用者はいるわけで、そうそう深い話もできないし、するきっかけも勇気もない。
 一日数回の会話で引きずりだせたのは、趣味が温泉巡りであること、お酒が好きなこと、出身が和歌山県であること。あとは、高垣楓という名前。
 そして、彼女が契約社員であり、間もなく契約が打ち切られるということ、くらいであった。

 

 時は無情に過ぎ、劇的なドラマも訪れぬまま、彼女は会社から姿を消した。
 私も、そう落ち込んでいられる暇もなく、仕事に忙殺され、趣味に明け暮れ、日々を過ごしているうちに彼女のことも少しずつ頭の片隅に追いやられていった。

 

 そうして、一年が過ぎたあたりだろうか。
 休日、大した目的もなく秋葉原を歩いていると、辛うじて覚えのある人影を見付けた。それはやはり、心のどこかに彼女の記憶があったからなのだろう。
「――高垣さん!」
 だが、いくらなんでも、街中で声を掛けるのは、行き過ぎだと思った。大体、振り向かれなかったら恥ずかしいし、忘れられていたらどう弁明していいものか。弁明したところで、思い出されなかったとすればそもそも眼中になかったわけだから、余計な傷を作る羽目になるというのに。
 でも、彼女は。
「――あっ。お久しぶりです」
 柔らかい動作で振り返り、私の存在を認識して、丁寧にお辞儀をしてくれた。少し遅れて、私もお辞儀を返す。初めて見る私服姿の彼女は、この雑多な街にも飲み込まれない、澄んだ美しさに満ち溢れていた。そのくせ、どこかふわふわしているから、目を離すとあっという間にいなくなってしまうような、危うさも兼ね備えていた。
 道端で立ち話も何だから、と体よく食事に誘い、近場のファミレスに連れて行く。声を掛けられたのも、食事に誘えたのも、偶然にしては出来過ぎだと思った。それをいえば、彼女に再会できたことさえ、奇跡的ではあるのだけれど。
 あの、数えるのも気恥ずかしい給湯室の出来事を活かせなかった私からすれば、この状態に持ち込めたことこそ、奇跡だった。
 適当に珈琲を頼んで、ぎこちないながらも、近況報告を兼ねた雑談を開始する。
「高垣さんは、お変わりないご様子で」
「そう、見えるでしょうか」
「はい。……あの、こういう言い方は、ちょっと馴れ馴れしいかもしれませんが。……とても、お綺麗で」
「……ふふっ。嬉しいです。お世辞でも」
 そんなことは、と続けられたら。現実はそこまで親密な関係でもなく、私が一方的に恋焦がれていただけに過ぎないのだと、私が一番解っている。でも、かつての同僚に褒められて、微笑む彼女の表情がとても神秘的だったから、一瞬お互いの距離感を忘れそうになった。
 当たり障りのないやり取りの間に、運ばれてきた珈琲を啜る。時折、ふっと緊張の糸が切れたように窓の外を見る彼女の横顔は、私が知らない彼女の一面であった。
 のるかそるか、という場面に来ていた。これを逃せば、おそらく彼女と巡り合う機会は永遠に訪れないだろう。そんな、軽はずみな確信が私の背中を押した。
「……た、高垣さんは」
「はい」
「今、どんなお仕事をされているんですか」
 発言した後で、しまった、と後悔した。以前、私の会社に勤めていた際、彼女は契約社員だった。現状、彼女が就職活動中という可能性は大いにある。
 彼女の表情から、苛立ちを読み取ることはできなかった。むしろ、思い出し笑いのような、面白くて仕方がないといったふうな微笑みがそこにはあった。
 その理由が、私にはいまいち掴めなかった。仕事が定まっていないが故の苦笑いや、安定した職を得ることが出来たが故の安堵とも違う、もっと、夢心地にあるような笑顔だった。
 それを引き出したのが自分であるとは、欠けらも思ってはいないけれど。
「ふふっ……どうか、びっくりしないでくださいね」
 はぁ、と、間の抜けた答えしか返せなかった。しょうがないじゃないか、事実、彼女が次に発する言葉を聞いても、同じような返事しか返せなかったのだし。
 彼女は――高垣楓は、絡めた指の上に顎を乗せて、少し勿体付けるように言った。
「――私、アイドルになったんです」
 今度、CDデビューするんですよ。
 そう告げて、朗らかに笑う彼女の姿は、女神と呼んで差し支えなかった。その、無防備極まりない素顔に、何かを言おうとして、でも、口が上手く動いてくれない。
 アイドルって。
 CDデビューってなんだよ、と。
 私は痛感した。
 給湯室で顔を合わせた瞬間、全てが始まっていて、彼女が給湯室から出た時にはもう、全て終わっていたのだということを。
「自分でも、うまく歌えたと思うんです。もし見掛けたら、買ってくださいね。CD」
 辛うじて、はい、と頷くことはできた。彼女はとても嬉しそうだった。楽しげに語る表情だけで、日々を謳歌しているのだと実感できた。言葉少なに、カップ麺にお湯を注いでいた日々は、私にとって掛け替えのないものだったけれど。彼女にとっては、最早思い出すこともほとんどない記憶なのだろう、と思った。
 不思議と、彼女が嘘を吐いていたり、夢物語を語っていたり、という気はしなかった。何故かは解らないが、彼女の言葉に、彼女の纏う雰囲気に、説得力があった。そして、私自身が、そうあってほしいと願っていた。
 珈琲カップは、両方とも空になっていた。
 先に立ち上がったのは、彼女の方だった。
「ごめんなさい、ちょっと、電球が切れてしまって。買いに行く途中だったんです」
「そうですか。それは、大変ですね」
「大変なんですよ、お仕事も忙しいですし。嬉しいことなんですけどね、本当に」
 本当に。
 そう付け加えて、彼女は笑った。
 珈琲代は私が全て出して、ファミレスの外まで彼女を見送り、丁寧なお辞儀をして、彼女はどこかの電気店に消えて行った。せめて、一緒に電球を選ぶところまでは許されたのかな、とも思ったが、後の祭りだった。

 それ以来、彼女には一度も会っていない。

 

 

 高垣楓がCDデビューをして、その独特な雰囲気と圧倒的な歌唱力から世間の注目を集めるまで、そう長い時間は掛からなかった。
 ショップに通い彼女のCDを見付けては、買うわけでもないのにそれを取り出したり裏返したり、結局は元の位置に戻して、もう何枚もあるからなぁ、と溜息を吐く。迷惑極まりない。
 会社の同僚は、この会社で高垣楓が働いていたことを触れ回っていて、あの時からピンと来てたんだよな、と得意げに語っていた。一応、同意はしておいた。私も、こいつと大して変わらなかったのだし。
 CDが余っているから一枚やるよ、と言うと、なんで何枚も持ってるんだよ、と突っつかれた。ファンなんだよ、と返すと、ふうん、とにやけ面で肩を叩かれた。
 同情じみた同僚の手を振り払い、机の端に置いたコンビニの珈琲を飲む。甘い、と思った。今日は弁当を買い忘れてしまったから、取り置きのカップ麺を持って給湯室に行こう。誰もいないであろう給湯室で、彼女の歌を口ずさみながらお湯を注ぐのも、案外悪くない時間なんじゃないかと思いながら。
 私は、PCを起動させた。

 

 

 

 



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Index

初出:2012年5月28日  藤村流
THE IDOLM@STER シンデレラガールズ
二次創作小説






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