……誕生日のことは、よく覚えていない。
クラッカーの鳴りやんだ部屋、安っぽい破裂音がまだ耳に残っているようで、少しこめかみを押さえた。
甘ったるいケーキの味が舌のずっと奥に残っていて、みっともなく舌先でその残り香を味わおうとしても、勿論届くはずもない。
にやけた表情が、数時間前からずっと、顔に貼りついて離れなかった。つい先程、自分が家にひとりでいることを実感して、幸福の残り香も、ようやく霧散し始めていた。
お姫様のように、足が届かないくらい高い椅子に座らされて、ちやほやされていた時も過ぎ。
その椅子に腰かけたまま、ただ静かに、時間が流れていくのを感じている。
六月十一日は、緒方智絵里の誕生日である。
アイドルの卵として事務所に入り、それから初めて智絵里の誕生日を迎え、小さいながらも、気合の入った誕生会を開いてくれた。気合の大半がクラッカーに注ぎ込まれているあたり、男のプロデューサーという気がしないでもないけれど。
普段、智絵里の家にはない騒がしさが、珍しくて、嬉しかった。
今は後片付けも終わり、最後のひとりが智絵里の家を後にして、ゴミ箱に溜まったケーキの箱やクラッカーの残骸と、複数の人間が歩き回った騒々しい空気と、五感に刻み込まれた幸福感があるばかりだった。
もしかしたら――もしかしたらと、智絵里の誕生日を狙って帰ってくるかもしれなかった両親は、ついぞ姿を現さなかった。
わかっていたことだ。万に一つの可能性だ。
海を挟んだ向こうの国にいる父が、同じ日本とはいえ、大企業に勤めている母が、ただの平日に仕事を放り出して帰ってこれるはずがなかった。
今年こそは、とふたりは言った。
そんな言葉を、何年娘に掛け続ければ気が済むのだろう。
「……、……」
広々とした居間に明かりがひとつ、他の部屋の明かりは全て消されて、時計の針が無機質に時を刻んでいる。騒々しさに掻き消されていた時は気にならなかった、ちっぽけな音が智絵里の耳を打つ。
咄嗟に耳を塞ぐなんて、不幸を演じるような真似は、したくなかったけれど。
ひとりになって、何度か携帯電話が鳴って、同じ事務所のアイドルからお祝いの電話やメールが届いた。ぎこちないながら、幸せであることを確かめながら、必死に相槌を返し、文面を考え、怒涛のような幸福が行き過ぎると、疲れた顔を時計に向けた。
「……なんだろ。わたし、幸せなんだけどな……」
変な気分だった。
お祝いの言葉を掛けられているうちは幸せだと思えるのに、それが終わると、幸せな気分はどこかに消えていってしまう。もしかしたら、緒方智絵里という器の底には塞ぎようのない穴が空いていて、どれだけ幸福を注ぎ込んでも、溜まった端からどんどん穴の外へ漏れていってしまうような。
そんな、欠陥品なのかもしれない、と。
そういうふうになったのは、一体誰のせいなんだろう、と。
思いたくはなかったけれど。
「……やだな……わたし、嫌な子だ……」
目を瞑る。
泣けばよかったのかもしれない。無理に笑えばよかったのかもしれない。今からでも、無理を言って誰かの家に泊まりに行けばいいのかもしれない。でも、もしかしたら、万に一つの可能性さえ無くても、両親が帰ってくるかもしれないのだ。大したプレゼントは用意できなくて、コンビニで買ったようなケーキと、道端で詰んだような小さな花を持って、あまり得意じゃない作り笑いで、智絵里に会いに来てくれるかもしれないのだ。
希望的観測だった。
でも、望まずにはいられなかった。
「…………っ」
まぶたを開ける。
高い椅子から飛び降りて、携帯電話を握り、明るい部屋から逃れるように玄関に走って、鍵を掛けていない重厚な扉を押し開ける。
そこには誰もおらず、煌々と玄関を照らすライトに、無数の虫がまとわりついているくらいだった。
走ったのは短い距離だったのに、随分と息が上がっていた。理由はよくわからなかった。奇跡を信じる年齢ではなかったけれど、年の一度の誕生日くらい、そんなあからさまな奇跡を信じても罰は当たらないと思った。
手の中に収まっていた携帯電話が鳴る。
着信のメロディには覚えがあった。公式に配信はされていないけれど、智絵里が歌詞を書いた歌だ。今、自分はどんな顔をしているのだろう。手のひらの上に乗って、まだ世に出てもいない智絵里の歌を奏でる携帯電話を見て、智絵里は、強く唇を噛んだ。
この感情に、名前を付けることはできなかった。
優しく、通話ボタンを押す。
「……はい」
『あぁ、智絵里。今、どうしてる?』
「……あの、特に、何も」
少し、間があった。音の向こうで、誰かが喚いているような気がした。
『そうか。いや、その……なんだ。迷惑じゃなければ、うちの事務所の何人か、またそっちに行きたいって言ってるんだ』
「……プロデューサーも、ですか?」
彼は一瞬口を噤んで、子どもを窘めるように、ひとつ咳払いをした。
『いや、さすがに、おれが泊まるのはな。いろいろ問題あるだろう、仕事もあるし……まあ、それを言ったら、大体の連中は学校もあるし仕事もあるんだが……』
口ごもり、彼の後ろで騒いでいるであろうアイドルたちを静かにさせた後、ひどく優しい声で続けた。
『智絵里。どうかな』
ずるいな、と思った。
玄関から駐車場を見ても、来客を告げるライトが点く様子もなく、智絵里が決断しなければ、きっと点くことはないだろう。少なくとも、今夜は。
どうしよう、と悩む暇もなかった。願った形とは違ったけれど、信じたなりに奇跡は起こった。奇跡と呼ぶにはあまりにも安く、きっと、あまりにも雑然としている。
でも、それで構わなかった。
ただ、好きな人が、側に居てくれるだけでよかったのに。
「……はい」
『ん』
聞き取れなかったのか、確認の意味で、彼は優しく問い返す。
夜中に起きてしまった子どもに語りかけるような、穏やかな声音で。
「……来ても、いいですよ。わたしも……、寂しかったから」
絞り出すように紡いだ言葉を、携帯越しのプロデューサーは丁寧に受け取って、そっと胸の中に落とす。
『そうか、わかった。それじゃ、また少し騒がしくなると思うけど、よろしくな。変なことしたら軽く引っぱたいてもいいから』
また、声の向こうからにゃーにゃーと黄色い声が飛んでくる。
それを聞いて、自然と顔が綻ぶ。剥がれ落ちてしまった笑みの形が、また作れるようになっていた。
プロデューサーからの電話が切れると、またぞろ寂しさが押し寄せてきた。玄関の明かりは薄暗く、家の前を通る車も少ないから、この世界にたったひとり、取り残されてしまった気持ちにもなる。
だけど、間もなく騒々しい彼らがやってくる。それまでは、たったひとりでも、ここに立っていようと思った。親がまだ度々家に帰っていた頃は、駐車場に明かりが点くのが楽しみだった。冬の日も玄関で待っていたから、親に叱られたりもしたけれど、帰りを待って、ふたりを出迎えるのが嬉しかったのだ。
その気持ちを味わいたくて、智絵里は玄関に佇んでいた。
程無くして、聞き覚えのあるワゴンの排気音が聞こえてくる。事務所から直接来たにしては短い時間だったけれど、余計なことは考えないでおく。
駐車場の明かりが点いた。
少し浮き足立った調子で、子どもの頃の気持ちに帰って、智絵里は駐車場までの短い道を駆けて行った。
SS
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2012年6月11日 藤村流
THE IDOLM@STER
シンデレラガールズ
二次創作小説