女教師、藤村大河は上機嫌だった。
何故なら最近はとみにごはんがうまい。弟分である衛宮士郎の作る食事はいつも上等なのだが、ちょっと前に衛宮家の一員となったセイバーという女子が来た頃から、士郎の技術は格段に向上した。女の子のためであれ、料理を頑張るのはいいことである。何故ならそのセイバーさんは、士郎は元より二十代半ばで剣道五段の腕を誇る大河さえも超越した戦闘力の持ち主なので、単純な強さではなく他の部分で彼女にアピールしようと思ったのだろう。
まして、食事が美味しくなればほぼ毎日衛宮家の食卓の参加している大河もオイシイ目を見ることができるのだ。歓迎こそすれ非難する必要がどこにあるだろう。
そりゃあ、当初は突然現れた「衛宮切嗣の知人を名乗る金髪碧眼の美少女」に少々錯乱してしまった大河だが、その実力を認め、そしてその可愛さを知った今となっては、冬木市において敵のいない大河の良きライバルになっている。
本日も丹精こめて作られた料理を堪能し、夕食と共にしている桜を家に送ろうと玄関に向かっていた。
と、彼女の目にあるものが映る。
桜は先に玄関に行っているし、そんなに待たせる訳にもいかないのだが、興味を持ってしまったならそれを解消しないことには納得いかない性格の藤村大河、ここは好奇心の赴くままに目的を果たすべくその物体に接近する。
それに足を掛ける直前、真横にある鏡で自分の体躯を確認する。いつもと変わらぬ清廉潔白かつ収斂されたラインを目の当たりにして、自分でもため息が出る。恐ろしい。傾城の美女の転生先ではないかと自分の出生を疑ってしまいかねないほどだ。
ぎしぃ、と軋む鉄の音を聞きながら、左右に激しく触れる数字を追っていく。不安はない。恐怖もない。あるのは興味だけ。見た目が一切変わっていないと自覚しているのだから、こんな単純なアラビア数字に惑わされる必要などないのだ。
だから、これは確認作業に過ぎない。あれだけ食べても、自分のスタイルを維持しているのだという確信を得るために最低限必要な行為であり――。
「 ッ!」
――まさかこんな、悲劇を知るためではなかったはずだ。
悲鳴を上げる直前に舌を噛んだから、悲鳴は自分の中で抑えられたはず。みすみす醜態を晒すわけにはいかない。自分で仕出かしたことの責任は自分で取らねばならない。大人として、人間として、女としてそれは越えなければならない絶対の義務であった。
それにしても、まさか。
大河はもう一度鏡を見て、そういえばちょっと膨らんだ感のある頬に、鏡を通して触れてみた。
「……太ってる……」
それは、絶望的な宣告だった。
ハングリー・ハングリー
恐れていたことが現実となり、もうこうなったら行動を起こすしかないと藤村大河は考えた。もっと早めに動いていれば良かったとは考えないのが人生を楽しく生きるためのコツである。
まず、朝食後に道場で精神統一しているっぽいセイバーに話を聞くことにする。
――思えば、おかしかったのだ。大河に匹敵する量を摂取していながら、出会った頃のような細身を維持し続けているなど、もはや人ならざる身の所業である。
本当はまさにその通りではあるのだが、大河はそれを知る由もないのでセイバーの洗練された肉体を素直に賞賛し、何らかの教鞭を得られればこれ幸いと思っているのだった。
「――はぁ。ダイエット、ですか」
お互いに正座した状態で――大河に至っては何故か必要もないのに袴を羽織って――、大河とセイバーは話し合う。尤も、大河が一方的に悩みを打ち明ける構図ではあるのだが。
真剣そのものの眼差しに、セイバーも内心困惑している。まさか自分はサーヴァントといって人間ではないのです、生身ではないがゆえに膨張することもまたあり得ないのです、と言い聞かせる訳にもいかない。
ひとまずは、大河の言葉に耳を傾けるより他はないだろう。
「そうなのよ。最近おかしいとは思ってたんだけどね、太ってるとは思わなかったわ……。もしかして地球の重力が増したのかなあとも考えたけど、測りようがないし」
「そうですね」
とりあえず同調する。そんなわけありませんとは言わない。
「ね。セイバーちゃんは何か思い当たるフシとかある? わたしが、その……太っちゃった理由」
「原因ですか。――あくまで仮定でしかありませんが、それでも良ければお教えいたします」
「うん。遠慮なくお願い」
どこまでも真面目な大河の瞳に、セイバーの顔色が変わる。どんなに些細なことであれ、真剣に自分と向き合っている人を蔑ろにすることは出来ない。
王として民を守ってきた頃を思い出し、セイバーは大河に強く優しく語り掛ける。
「では、遠慮なく。
――まず、大河は自分の足で学校に行かなくなりましたね」
「……うん。そうかもしんない。なんつっても便利だからね、バイク」
右手をくいくいっと動かし、原チャリに跨っている時のことを想像する。
その満足そうな顔を見て、セイバーは聞こえないようにため息をもらす。
「利便さに甘えてしまうのもわかりますが、面倒なことにもそれはそれで意味があるのです。この場合、定期的な運動を放棄してしまったことが挙げられます。それだけでも、皮下脂肪が前月比で1%上昇するには事足りるでしょう」
「う……。セイバーちゃん、わりときつい言い方するね」
「大河は痩せたいのでしょう?」
「そうだけど……」
大河の目が泳ぐ。肉のついてきた自分の身体と、自堕落な生活を望む心とが鬩ぎ合っていた。
原チャリ登校は利点が多く、すぐにやめることは出来そうにない。しかしこのまま肥大していくのなら大河に未来はない。胃と腸の大きさに限界がある以上、いくら食べても現状維持という極楽浄土のステータスを希望するのは傲慢というものである。
大河は、過去の自分を振り払うように強く顔を上げる。
さんきゅーマイバイク、そしてぐっばいマイ脂肪。
「……わかったわ。セイバーちゃん、わたしを女にして!」
「いえ、その言い方は多大な誤解を招きかねないのですが……。前者の意味でなら、善処しましょう」
「うん。わたしもセイバーちゃんを信じてるから」
大河がセイバーの手をなかば強引に掴み取る。実は足が痺れていたのを誤魔化したんだろう、とセイバーは勘付いたが口には出さなかった。
「では、二つ目に参りましょう。
正直に申し上げて、大河の栄養摂取量は常人の平均値を大きく上回っています。私が世話になっている時期から考えても、これは病的です。シロウの話ではそれ以前から暴飲暴食を重ねていたと聞きます。これでは、過食症と診断されてもおかしくはなかったでしょう」
ひどっ、と大河は泣いて逃げ出したくなったが、そこは女の度胸でぐっと耐える。
「世の中には胃の許容量が大きく腸も大きな人がいるようですし、一概には判断できませんが。こうして体重が目に見えて加算されている以上、そのような特殊な事例は除外できます。ならば対策も立てられる」
「そ、それは?」
「単純に、食事量を減らせば良いだけの話です。誰にでも出来ます」
と、衛宮家で最も栄養摂取量の多い女性が言い放った。
論理的だが、説得力なんてあったもんじゃなかった。
「でも、セイバーちゃんだってたくさん食べてるじゃない」
「私はいいのです」
「もしかして、セイバーちゃんってばその特殊なケースの人?」
「……正確ではありませんが、そういうことにしておきましょう。それに、私の場合は日々の鍛錬を欠かしておりませんし、条件は同じでも大河とは事情が違います」
「んー。……でもなんか、逃げてる気がするなあ」
「そのようなことは一切ありません」
力強く、そして余所余所しくセイバーは逃げ口上を述べた。それとなく大河の目を見ないようにしていることを、当の大河はいち早く察していた。
おそらく、セイバーには確信があるのだろう。自分はどうあっても太らない事情が、あるいは太れない事情があって、それはそこらを見渡しても自分ぐらいしか該当しない稀有な事例であると。
「……けど、士郎ってばおいしいものばっかり出すんだもの。仕方ないじゃんねー」
「それについては同意します。が、全体的な量を減らすことが出来ないとは言わせませんよ」
自分のことを棚に上げ、あくまで強気に攻めるセイバー。大河も自分から助力を頼み込んだ手前、あまり邪険には扱えない。
しかし、逆転無罪が不可能な訳でもない。伊達に二十年以上年齢を重ねていないというのだ。
「じゃあさ、セイバーちゃんもごはんの量を減らしてよ」
「……なぜ」
心底不思議そうにセイバーが問う。そんな彼女を嘲笑いながら大河は説明する。
「だって、誰にでも出来るんでしょー? 言いだしっぺの人が出来ないのはヘンだもんねー」
子どもですかあなたは、と言いかけて、実年齢は私の方が上ではないですか、ここは落ち着いて……と自分自身を傷付けるように慰めて、平静を装いながらもどうにか返答してみせる。
「私は適正体重を維持していますから」
「その身長で50キロオーバーじゃん」
ぐさり、とセイバーの胸に赤くて長い槍が深々と突き刺さった。
概算で、身長マイナス110が平均体重とみなされている。セイバーの身長、154センチ。
あるいは、スタイルが桜クラスであれば何も恥じることなど無かったのだが――。如何せん、セイバーはどこまでもセイバーであった。
知られてはならないことを簡単に看破され、セイバーはしばし言葉を失う。隙を見付けたと見るや、大河は一気呵成にセイバーの牙城を攻略する。もはやダイエットのことなど完全に忘却の彼方へ放り投げてしまっていた。
「鍛錬で己を磨くのもいいけど、マッチョになりすぎるのも問題あるわよねえ」
「……いいんです、私の使命はシロウを守ることですからっ」
「本当にそれでいいの? セイバーちゃん、ずっと士郎の盾で満足なの?」
「盾ではなくて、剣です」
剣であることを強調し、セイバーは言った。
大河は前々から不思議に思っていた。セイバーに色恋沙汰に関する話を振ると、必ずと言っていいほど士郎を引き合いに出す。それが惚気であれば、おねえちゃんの立場として複雑な気持ちではあるが大河も納得はいくのに、セイバーは男女の関係を主従関係に置き換えてしまっている。それも信頼がなせる業ではあるのだろうが、大河はどうしても納得いかなかった。
一人の女性として士郎と向き合うことから逃げている気がする。
尤も、それは大河にも言えることだったのだが、それは棚に上げておいた。
「それでも、よ。剣でも鞘でも、太すぎたり大きすぎたりしたらかえって重荷になっちゃうでしょ? そうならないように、バランスよくお互いを支えあっていくのが大切だとおねえちゃんは思うんだけどなー」
首を傾け、可愛さをアピールする。その仕草はもっと若い人間がやるべきではあるのだろうが、この女性にやらせるとある程度は許容出来てしまうので不思議なものだ。
しかしそれに惑わされず、セイバーは自己を保ちながら必死に弁明する。
「それと食事とは、全くもって何の関係もありません。議論のすりかえです」
「そんなこと言って、自分はいっぱい食べようとするー」
「私は食べたくてたくさん食べているのではありません! 私は、必要ないと言ったのですが、シロウが食べるようにと命じたから――」
「んー、絶食プレイ?」
「違いますっ!」
顔を真っ赤にして反論していた。
「じゃあ、飽食プレイとか」
「なんですか、それは……」
一気に力が抜けた。思わず背筋も悪くなる。
セイバーは絶食プレイの意味もよくわかっていなかったのだが、深く追求すると開くべきできない境地を開拓してしまう虞があるため、無粋な好奇心を静かに押し潰す。
「……話を逸らさないでください。私のことより大河の体重を減らすことが先決です」
「道場の底が抜けるかも……」
「抜けません」
すっぱりと切り捨てるも、大河はしつこく食い下がる。
「庭から虫の声が聞こえると思ったら、実は自分のおなかの音だったり…………きゃー!」
「怪談でもないです。どちらかといえば、それは大河の方に当てはまるのでは」
「む……。手厳しいですな」
「事実を述べたまでです」
「わたしも事実を言ったまでだけど」
そうですか、と返したきりセイバーは黙ってしまう。瞳を閉じて、もはや語ることはないと心さえ断絶する。こと体重に関しては、彼女は放任主義を貫くのだ。
聞く耳持たぬ地蔵と化したセイバーの様相を目の前にして、大河は体育座りをしたまま悲しく首を垂れる。
ここぞというときに、セイバーはやはり一人の女であった。たかが身体の重量で心を閉ざしてしまいかねないほどに。
確かに、体重がいくらであっても生きる分には問題ないし、愛してくれる人はきっといるだろう。本当に体重だけを見て好き嫌いを判断する人間はそうそういない。大河も、セイバーもそれは理解している。わかっているのだ。
――でも。だけど。
駄目なのだ。頭では理解できても心が受け入れてくれないのだ。眼下に並べられたのが無機質な数字であったとしても、それが指し示す意味を鼻で笑い飛ばすことなど出来はしない。それらの前では、いかに身体を鍛えていようと、いかに精神を高めていようと、己の無力さを痛感せざるを得ない。
だから、大河は沈黙が支配する空間全てに浸透させるように、万感の思いを込めて呟いた。
「……真実は、いつも過酷だね」
遠くから、はい、という声が聞こえた気がした。
大河が本当の目的を思い出すのは、それからしばらく経ってのことである。
翌日。
いつもように衛宮士郎は食卓に朝食を並べ、後輩の間桐桜と共に家族の団欒を楽しんでいた。その席に、いつも居るはずの大河とセイバーの姿はない。家が離れている大河は何か事情があったのだろうとは思うが、同じ家に居候しているセイバーが現れないのは気に掛かる。
士郎は、食事時になってもやって来ないセイバーを道場まで呼びに行ったのだが、
「来ないでくださいシロウ。底が抜けます」
と一蹴された。その突き放すような口調に違和感を覚えるが、それ以上にセイバーの目が真剣だったので何も言うことが出来なかった。
今もセイバーは道場で己を磨いている。自分はこうして箸でさんまを突付いている。その違いに少しだけ士郎は自己嫌悪に陥りそうになる。
「……どうしましたか? 先輩」
「ん……。あ、いや……なんでもない。ちょっとセイバーのことが気になって」
「そんなに、気になりますか?」
箸を止めて、士郎に瞳を合わせる桜。純粋そうな眼差しに捉えられて、しばし言葉を失う士郎。
「……まあ、気にならないと言えば嘘になるかな。だって、今まで朝食を欠かしたことなんて無かったし」
「……そう、ですね。何か深い理由があるんですよ、きっと。セイバーさんのことですから。
もしかしたら、藤村先生も同じような理由かも知れませんし」
「ん? 藤ねえは違うだろ。セイバーみたいに落ち着いてもないし、単に寝過ごしたんだと思う。それにしたって、朝飯に遅れるほど豪快な寝坊は珍しいけど」
「そう、かもしれないですね」
何か、含みがある笑みをこぼす。しかし、視線を外していた士郎はその小悪魔にも等しい笑顔に気付かない。直視していたとしても、察知できたかどうか。
桜は確信していた。
――あの人たちは、ダイエットしている。
だが、危機が目前に迫って来てようやく準備に取り掛かるようでは、まだまだ自覚が足りない。
女性たるもの、常日頃から危機意識を抱いていることが肝要である。身を引き締め、問題が生じれば傷が浅い段階で早めに処置する。それがいざというときのアドバンテージを生むことになる。
そして、その時が今だ。邪魔する人がいない状態で、二人きり。
奇しくも彼女の想い人は別の女性に気を取られているらしいが、それはこの際考えないことにする。
桜は、さんまの骨を綺麗に弾きながら、
「先輩のごはん、いつもおいしいです」
「ああ、ありがとう。でも、突然どうしたんだ?」
「いえ、特に何もないですけど。素直にそう思ったんです」
「ん、それは嬉しい、けど。ちょっと照れるな。いつもやってることだから」
気恥ずかしそうに笑いながら、士郎は白飯をかきこんだ。
それを見て、桜はとても幸せそうに微笑んだ。
本当に、幸せそうに。
−幕−
・誰が主役なんでしょ。
でも、桜がオイシイところを持ってったのは確か。
邪悪とか裏があるとか言わない。
SS
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