夏色リアル
夏と言えば、思い出す。
暑い。
蝉。
みーんみーん。
じじじじじじじじ。
つくつくほーし、つくつくほーし。
ひぐらしー、ひぐらしー。
……じゃなくて、かなかなかなかな……。だったかな。……かな? かな。かなかな。
馬鹿にしてんのか。
「……ち、全然気が紛れないわ……」
自室にて、大の字。
片隅には虎猫、そいつが太陽光線を全て吸い取ってくれれば楽なんだけど、そうなると今度はそいつから物凄い量の紫外線が放出されそうなので、ちょっぴりご勘弁願いたかった。
じりじり、暑い夏。試練の夏。
受験生たちは適当に頑張っていることだろう。あたしもそれなりに頑張っちゃいるが、認められてんだかないんだか正直微妙ではある。
夏期休暇ということも相まって、男子寮の連中もぼちぼち実家に帰省したりしている。
だが、部活に忙しい輩はそもそも帰る気なんぞないだろうし、帰るのもめんどい、やってられるか、というあたしみたいな性分の人間も結構いるらしい。
例えば。
例えば……。
……例えるの、やだなあ。
「美佐枝さーんっ!」
激しく扉が叩かれる。
声色から、何処の誰が騒音をもたらしているか理解出来てしまうので、ダンボールで作った耳栓を装着する。こんなの作るのに時間を割いてるから、幸せになれんのだろうなあ……。しみじみ、思う。
「み、み、美佐枝ちゃーん! 聞こえないのーっ!?」
ちゃん付けはやめれ。
「参ったなあ、聞こえないのかな……。美佐枝ちゃ――!」
「うるせえぞ馬鹿ッ! いっぺん三途の川渡らんと分からねえのかぁ!」
「ひ、ひぃぃぃぃッ! た、た、助けて! 美佐枝ちゃーん!」
意地でも助けまい。
「こいつ、何を恐ろしいこと口走ってやがるっ!」
「やべぇ、いま鳥肌立ったぞ!」
何が恐ろしいんだろうか。
……いや、あたしも鳥肌立ったけどね。
とりあえず、その場は金髪っぽい何者かが引きずられていく音と共に、静寂を取り戻す。
だからといって茹だるような熱気が冷めることはないが、つまらない雑音に頭が熱くなることもなくなった訳だ。善きかな善きかな。
耳栓を取り外し、束の間の平穏に浸り尽くす。
若干、汗が混じってじとじとしてる平穏だけど。
「しっかし、どーしたもんかね……」
暑いときには動かない方が良いとは言うが、何もしないのは暇で暇でしょうがない。通常時より仕事量が少ないとはいえ、身体がだるいまんまだと疲労度は大して変わらないのだ。
傾きかける太陽から逃げるように、身体をずいっと奥にずらす。こうなると、もうベッドの上で不貞寝していた方が早いのだが、それはそれで暑苦しい。だが、床の上は多少なりともごつごつしており、寝る体勢としてはかなりよろしくない。
困った。
「……ねえ。猫ってさ、涼しい場所を知ってるとかよく聞くけど……」
独り言が多いのは寂しい証拠、などと旧友は言っていた。
何だか聞きかじりの情報ばっかで、ちゃんとした経験値じゃないのがちょっと不安。
でもまあ、仕方ないと言えば、仕方ないかも。
選んだのはあたしだし。
「ここよりも涼しい場所、どっか知らない?」
夕食の準備や掃除洗濯等があるから、そう遠出は出来ないけど。
猫につられて、旅に出るのも悪くはない、か。
人間の男にゃあ、そうロクなのはいないし。
本当に。
「……おっ」
窓枠の下に蹲っていた猫が、あたしの言葉に反応してか重い腰を上げる。
あたしは若干の期待を抱き、猫の動向を見守る。そいつは思わせぶりな足取りであたしの脇を通り過ぎ、部屋を縦断したかと思うと、窓の近くに居たときとほぼ同じ体勢――尻尾を身体に巻きつけて、全体的に丸くなる感じ――で、ドアの前に座り込んでしまった。
何のことはない。
ただ、日の当たる場所から、日陰になっている場所へと移動しただけの話。
いつも通り、気紛れに。猫の本分に従って。
「はぁ……。そうそう、上手くはいかないか」
溜息と共に、身体を起こす。突き刺すような光が、目蓋を掠める。
所詮、待っていては何も始まらないのだ。人任せじゃあ、どうもこうもない。大した結果を得られない。具体例に挙げるのは癪だけど、春原みたいに前に出ていかないといけないってことかしら。
本当、今更だけど。
「洗濯、洗濯、と……」
じっとしているより、動いている方が幾分か気は楽だ。
寮母なんていう職業を選んだ動機も、半分はそのためである。
もう半分は、まあ、言わずもがな、という感じ。
硬い床に寝そべっていたせいで、少々腰が辛い。ぎぎぎ、と軋みを上げる腰を伸ばし、背伸びをしながら眠気を放出させていく。
欠伸でその睡眠欲にとどめを刺し、気を引き締めて洗濯場へ。この時期、早めに洗っておかないと洗濯物がタコの酢漬けみたいな状態になってしまう。
ドアノブに手を伸ばし、あたしにつられて巨大な欠伸をしてのける猫に、気楽でいいわねと微笑みかけて。
「美佐枝さん」
不意に、ドアの向こうから呼び掛けられる。
あまりにも突然すぎて、心の準備が出来ていない。
どうしよう――と、心に迷いが生じた一瞬に、ありきたりな言葉が唇から擦り抜けてしまう。
「――誰?」
失礼、かもしれない。
境を越えた先に立っているのが、あたしが期待している人間であれば。
どうして、覚えていてくれなかったんですか、と。
そんなふうに、頬を膨らませてくれたら――。どんなにか、微笑ましいだろう。
「俺、俺だよ。岡崎」
たとえ、叶うはずのない幻だったにしろ。
「――あぁ、そうね。そうだったわね」
ごめんごめんと、開け放たれた扉の向こうに佇む、やさぐれた青年に手を合わせる。
予想通り、岡崎はやや不貞腐れていた。あたしが想像した偶像より少し、いやかなり斜に構えてはいたけれど。
「てっきり、声ぐらいは覚えていてくれると思ったんだけどなぁ。それって、俺の幻想だったのかなー」
「甘いわねぇ。そんなに、事が簡単に運ぶ訳ないでしょ」
……違う。
幻想を抱いていたのは、多分あたしの方。
ほら、こんなに地球が暑いもんだから、頭の中に蜃気楼が浮かんでしまったんだ。
過去に出会ったきりの、都合が良くて、ことあるごとにゆらゆら揺れる幻影を。
あたしが勝手に期待して、勝手に失望しただけの話。
「……美佐枝さん?」
「ん。ああ、いや、なんでもないわ。汗がね、ちょっと目に入って――」
痛い。
それは本当だから、どうか勘ぐらないでほしい。
ん、と何気なく差し出されたハンカチを、何の気なしに受け取る。
こいつは何も聞かない。猫にしたって、何食わぬ顔で自分の首筋を掻いている。
本当、馬鹿だ。
こんなことで動揺するあたしも、下手に踏み込んで来ないくせに、あたしの顔を見に来たりするこいつも、知らん振りして、ただあたしに寄り添っているだけの虎猫も。
本当に。
「……ああ、ごめん。本当、暑くってね……」
「そうだよなあ。こう毎日暑いと、温暖化ってのも馬鹿に出来ないよな」
「こうして会話してる間にも二酸化炭素は排出されてる訳だから、改めて話さなくてもないんじゃない?」
「酷ッ!」
「そういう女なのよ」
「いや、俺の中の美佐枝さんは、もっと優しくて頼りがいのあるナイスガイのはずだ」
「野郎になってんじゃない」
「じゃ、ナイスミドル」
「紳士だけどさ……」
そういう問題じゃないと思う。
春原に似て、岡崎も相変わらず馬鹿をやっているらしい。春原があたしの部屋に訪れるようになったのも、もとをただせばこいつのせいなのだし。
使い終えたハンカチを突き出そうとして、一瞬手がとまる。
一応、こっちで洗っておいた方がいいだろう。多分、ちょっと酸っぱい風味になるとは思うけど。
「どうした?」
「ん、あぁ、やっぱりハンカチはこっちで洗っとくわ。ほら、礼儀は通さないといけないし」
「そっか。そうしてくれるんだったら、そうしてもらった方がいいな」
「おーけー。……で、かくいうあんたはどうしてこんな辺境の地に来たのよ」
自分で言っておきながら、軽くへこんだ。
事実だけどさ。
「美佐枝さんに会いに来た」
「ストレートねえ……。たまには変化球を放ったりしないの?」
「あとは、猫をだしに使うとか、振り込め詐欺の手法を応用するとかしか考えられん」
「後半ちょっと気になるけど……。用が無いんなら、とっとと帰んなさい。五十円あげるから」
「安ッ!」
「じゃあ三十円」
「減ってんじゃん。……じゃなくて、用が無い訳じゃねえよ。八月にさ、花火大会があるだろ」
「あるわねえ」
「一緒に行かないか、と思って」
「その日は、うちのご先祖様が大挙として押し寄せてくるから……」
「怖ッ!」
「冗談よ冗談。帰って来てたのは三年前までの話」
「なーんだ。って頻繁に来てんじゃねえか!」
三年前に何があったんだろう。あたしも知りたい。
というか、岡崎のリアクションが過剰だ。しかもノリつっこみだし。
変な映画でも見たんだろうか。あるいは、春原の近くに居過ぎて周波数が狂ったのかもしれない。お気の毒に。
まあ、それはともかく。
妙な体勢で固まっている岡崎と、人間には到底取れない妙な体勢で寝転がっている虎猫とを見比べて、果たしてどちらを優先すべきか考える。
動くか、留まるか。
動かなければ何も始まらないそうだが、動いたところで停止している何かが動いてくれるとは限らない。最悪、とまっていた何かを見殺しにしてしまう可能性だってある。
さて、あたしはどちらを選ぶべきなんだろう。
答えなど、初めから決まっているようなものだけど、改めて考えてみるのも悪くない。
決して良くはないが、絶対に悪いという訳でもないのだ。
回りくどいけど、それが真実だと思う。
うん。
「気が向いたらね」
「……ん?」
「気が向いたら、行ってあげないこともないかもしれなくもないわ」
「そんなに嫌なんかい」
「嫌って訳じゃないわよ。ただ――」
「ただ?」
「――暑いなあ、って。そう思うのよ」
はぁ、と岡崎は首を傾げる。
夏は暑い。鬱陶しい。汗がべたべたする。気持ち悪い。
でも西瓜は美味しいし、海水浴も楽しいだろう。休みは心に潤いを与え、祭りは一時の安らぎをもたらすかもしれない。
それらを全部ひっくるめて、夏なのだ。
人生も、そんなものかもしれない。
なんちゃって。
「はぁ、もう……。恥ずかしいったらありゃしない」
「いきなりなんだよ。別に、上半身裸って訳でもないだろう。見たいが」
殴った。
我ながら、綺麗な鉄山扉が決まったものだと思う。分かりやすくいうと、物凄い体当たりである。
でも、いまいち読み方が分かんないのよねコレ。
「超痛え!」
「はいはい、それじゃあまた今度ねー」
廊下の壁に叩き付けられる岡崎をよそに、扉を閉め切って外との繋がりを断つ。
岡崎は、あれでも一応はあたしの迷惑を考えてくれるらしく、激しくノックしたり部屋を覗いたり盗聴器を仕掛けたりなどはしない。
逆に言えば、春原は過去にやりかけたということだ。あいつの未来が危ぶまれる。
やがて、小刻みな足音が遠ざかっていく。敗戦につき、傷心のまま逃走といったところか。
「……やれやれ」
一体、何に溜息を漏らしているかも分からないまま、疲れた身体をベッドに横たえる。
こうしている間にも、洗濯場の洗い物は徐々に酸化が酷くなっているんだろうが、ちょっとくらいは長引かせてもいいだろう。もともと酸っぱい連中だし。
確か、花火大会は八月の中旬だったろうか。
そのあたりになると、流石に休みを取ることも出来そうだ。まあ、お盆だろうか正月だろうが帰んない奴は帰んないので、休んだ分だけ仕事と洗濯物は溜まるんだろうけど。
二者択一。
いっそのこと、猫に選ばせてみるのもいい。
「ねぇ――」
尋ねようと、上半身を起こしたとき。
その猫は、明らかに何もないであろう部屋の中空を眺め、魅入られたように見入っていた。
無論、ややくすんだ感のある壁紙以外、大したものは存在しない。
……ご先祖様、か。
確かに、涼しくはなるだろうね。
今も、心なしか背中がひんやりしている。
「決めたー」
後ろから、猫の両脇を掬い上げる。さして驚いた様子もなく、あたしの唇に鼻を寄せてくる虎猫。気ままな奴め。少しは仕事でも手伝えってんだ。
そいつを片腕に抱えたまま、あたしはベッドの壁に掛けてあるカレンダーを一枚めくって、真ん中の空欄に一言だけ書き添える。
『お墓参り』
と。
ようやく始まった楽しい夏と、いつまで経っても動き出さない甘酸っぱい恋。
とりあえず夏が終わるまでは、こんなふうにせめぎ合いながら続いていく。
……の、かな?
――かな、かなかな、かなかなかなかなかなかな――
やかましいっ。
−幕−
SS
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