優しい歌は歌えない
小さな歌声が、僕の向かっている方から聞こえてくる。
僕がただの素人だったら、素直に拍手でも送ってやったかもしれない。だけど、声の主がどんな人物かを知っている今は、そいつにプラスの感情を抱くことは出来そうにない。
足音をひとつ鳴らすごとに大きくなる声に、耳を塞ぎたくもなる。
合唱部が演劇部と交互に活動することが決まって、渚ちゃんが演劇部の部長になり、もうちょっとで始まる創立祭に向けて頑張っている。合唱部との確執なんて、初めから無かったように。
渚ちゃんはそう思える。岡崎も、渚ちゃんが言うことなら納得する。
だけど、僕はそうじゃない。
3on3部で伝説的な勝利を勝ち取って、それが合唱部にも伝わって、演劇部のことを考えるようになった。本当にそう思うけれど、だからといってあいつらが考えを改めたかどうかは分からない。
――ハンデを盾にしているのなら意味がない。それを、何とも思っていないのなら。
僕は結局、耳を塞ぐことか出来ないまま部室の前に辿り着いた。
その理由が何かも分からず、小さくなった歌声を遮るように扉を開けていた。
「……あ」
振り返る女の子の顔は、見たことがあるうちのひとつだけだった。
仁科……下は忘れた。
とにかく、そいつ。合唱部を結成した奴だ。
仁科が驚いたのは、何も突然扉が開いたからじゃない。部活には普通、顧問が付いていないといけないのだ。ただ、授業が終わって部活の準備を終えるまでの時間は、休憩時間みたいなもので好きに活動している。バスケ部も、サッカー部も、合唱部だって例外じゃない。
だから、そいつが大声で歌っているのが顧問にばれると厄介なんだろう。でも、あのじいさんなら耳が遠くて聞こえないかもしれないけど。
僕は、来るはずのない客に動揺しまくっていた。一応、努めて冷静に話しかける。
「やあ、仁科……だっけ」
「はい。そうです、けど」
CDは空白を流し続け、ついには次の曲を迎えようとしている。
僕は後ろ手に扉を閉める。何をする訳じゃない、ただ話を聞くだけだ。扉を閉めたのは、なんとなくそうした方が良いと思ったからだ。
不安がっている仁科は、傍目にはどこが怪我してるのか分からない。むしろ、大人しくはあるけれど活発そうな雰囲気がある。でも、こいつの手は強く物を握れない。昔の事故で、握力を失っている。
そうして、夢も失った。
僕と同じ――なんて、言うつもりはないけど。
少なくとも、仁科はもう一度やり直そうとしている。渚ちゃんだってそう。
だから、いつまでも同じ場所に留まってる奴が、前に行こうとしてる奴の邪魔をするのは気が引けるんだけど。
今回は例外だ。
「歌、結構うまいじゃん。まあ、ボンバヘッには適わないけどね」
そこいらにある椅子を引っ張り出して、所在なげにしている仁科から少し離れたところに座る。
仁科は、流れ始めた英語の歌を止めることもなく、ただ黙って僕のことを観察している。
「それは、どうもありがとうございます」
お世辞のつもりなのに、素直に礼を言われた。あっちも似たようなものなんだろうけど。
「ところでさ、この前のバスケ部との試合、ちゃんと見た?」
「ちゃんと、は見てないです。友達から話を聞いて……」
「それで、演劇部と一緒にやろうって決めた?」
「…………」
仁科は答えなかった。僕から目を逸らしたのが、答えの代わりになっていれば楽なんだけど。
別に文句を言うつもりはない、ただ気付いているかどうか試しているんだ。
「……ごめんなさい」
何故か、仁科は頭を下げた。
それはおかしい。謝る必要があるのだとすれば、杉坂の方だ。それに、あいつは一応僕たちに謝った。それを許したかどうかはともかく、その件はそれで済んだんだ。
「杉坂さんは関係ないんです。あれは、私が――」
「自分でやった、なんて言うなよ。そういうの好きじゃないんだ」
言いかけた言葉が止まり、気持ち悪い沈黙が続く。
自分でも冷たい言い方だなと思ったが、いまさらそれを改めることはしなかった。どうせ嫌われているのなら、悪役に徹した方が楽と言えば楽だ。
「本当なら、杉坂に言った方がいいんだろうけどね。スタートラインが同じなら、フライングした方が負けってこと。自分ひとりがハンデ背負ってるからとか、可哀想だからとか、冗談じゃない」
不意に、膝の前で組んだ手に力が入る。
――そんなもの、背負ってない奴なんてどこにもいない。
幸せそうに笑っている渚ちゃんも、いつも僕とちんたらぽんたら馬鹿ばっかりやってる岡崎も、岡崎目当てで僕に絡んでくる杏も、こんな僕を兄に持っている妹の芽衣だって、なんか重いものを必ず抱えてる。
だから、自分を可哀想だとか、誰かの同情を引こうなんて思ってる奴は――。
「…………やめた」
言いかけて、急に、気持ちがしぼんでいった。
これを言って何になる。僕は、何のためにこんなことをしてる。
渚ちゃんは何とも思ってないし、演劇部はちゃんと立ち上がった。だったら、僕が余計なことをして話をこじれさせるのは良くない。ていうか最悪だ。
でも、言わずにはいられなかった。どうしても、僕の口から。
それはきっと、ハンデを盾にされて苛立っていた自分が、なんとなく可哀想だなんて思ったからじゃないか。
――気付いた途端、なんかもうどうでも良くなった。
組んだ指を解いて、首をだらんと後ろに下げる。なんか、無駄に疲れた。
「あ、あの」
きょとんとした顔で、仁科が立ち尽くしている。てっきり厳しい言葉が来るものだと思い込んでいたのか、強張っていた身体が溶けて水分が流れ出したみたいな。
「ん……、なに?」
「私、聞きました。杉坂さんから、あの話」
「それって、脅迫状のこと?」
「……はい。バスケの試合が行われる前に、杉坂さんの口から」
くっ、と胸に手を重ねる。何の意味があるかは知らないけど、とりあえず落ち着くんだろう。
「そんなことになってるなんて、知らなかったんです。でも、杉坂さんを責められませんでした。私のためにやったことだから、どうしても……。
ごめんなさい、やっぱり謝らなきゃいけません」
「なんでだよ……。僕が悪者みたいじゃないか」
「でも、春原さんが来なければ、ずっとうやむやにしていたかも知れません。大事なことを、臆病なせいでずっと言わずに過ごしていたかも知れないんです。だから、ごめんなさい」
深く、深く頭を下げる。
その姿を見ても、何の感慨も沸かない。満足なんてしないし、悲しくも嬉しくもない。
面白くもないし、つまらない。茶番とか、それ以前の問題だった。
「……あのさ、あんまりごめんごめんばっかり言ってると、誠意がこもってない感じがしてちょっとカンに障るよ」
「あ、あっ、すみませ――」
「やめろって。つまんないからさ、そういうの」
上げた頭を再び下げようとした仁科を、疲れた声で引き止める。
こんなのは、お互いに面白くない。つまらないから、やめた方がいい。とても単純で分かりやすい。
でも、みんながみんなそんな風に生きられやしない。僕はそうでも、他人はそう生きてくれない。
「君さ、なんとなく似てるね。渚ちゃんに」
「え……」
「僕みたいなのに必死に謝れるのは、渚ちゃんかあんたくらいだよ。うん」
「そ、そうですか」
少し言いよどむ仁科。照れているのか嫌なのか、目線を合わせてくれないからよく分からない。
「それじゃ、決めてたんだ。演劇部と一緒にやっていくのは」
「はい。幸村先生に頼んだのは一緒ですから」
「まあ、本当は上級生である僕たちが優先されるべきなんだろうけど……」
「……そう、ですね」
「それこそ、いまさらだしね」
椅子の背もたれに体重を掛け、両腕を思い切り伸ばす。長時間座っていた訳でもないのに、やたらと疲れてしまった。
後輩相手に緊張するのは渚ちゃんぐらいのもんだと思ってたけど、案外そうでもないらしい。
そりゃそうか。説教なんて慣れないことしようとすれば、身体だって緊張する。
「スターラインは同じって、僕が言ったことだし。つまんないことに拘ってたら、女の子に嫌われそうだし」
「……ありがとう、ございます……」
「それもやめよ。僕、別に何もしてないしさ」
決めたのは、渚ちゃんであり、仁科だ。決定権なんて初めから僕は持ち合わせていない。
僕が今日ここに来たのは、ただ自分が納得したかったからだ。それも、自分勝手な理由で。
だから、感謝とか謝罪とか、そんなものはいらない。
「あ……あの」
もうそろそろ帰ろうかと天井を仰いだ僕に、仁科が控えめに問いかけてくる。僕が物憂げにそっちを向くと、仁科は流しっぱなしだったCDを一旦停止して、何やら操作していた。
で、その準備が一通り終わると、ひとつ深呼吸して僕に言った。
「良ければ、歌を聴いて行ってくださいませんか?」
「……誰の?」
「私の、です。あ、勿論オリジナルではないですけど」
と、CDを見て付け加える。それは分かっている。でも分からないことはもっとある。
「で、なんで僕なの? 杉坂でも幸村のじいさんでもいいじゃん」
「いえ、出来れば春原さんに聴いてほしいんです。
私が、歌を歌ってもいいのかどうか」
「そんなの、好きにすれば――」
言いかけて、その意味に気付いた。
――あぁ、そういうことか。
要するに、これは仁科なりの謝り方なんだ。頭を下げるのはやめろって僕が言ったから、他の方法を考えた。
それが歌を歌うこと。合唱部なら歌が上手くて当たり前だろうけど、仁科はもともと楽器の奏者だった。ずぶの素人ではないにしろ、昔から訓練してた奴に比べれば技術は劣るだろう。
それでも僕に聴いてくれって言ったのは、杉坂があんなことをさせてしまうくらい、仁科が歌を好きなのかどうか。
ハンデなんて関係なく、スタートラインはみんな同じ。
情熱に違いなんてないけど、あるかないかくらいは僕にも分かる。何にも情熱がない僕だから、それがよく分かる。
いちど夢を諦めても、もういちど別の道から高みに上ろうとする。
その資格が、フライングしてしまった仁科にあるのかどうか、僕は判定しなければならないらしい。
……まったく、面倒くさい……。
でも、不思議とつまらないとは思わなかったのは、最初に聞こえていた歌を覚えていたからかもしれないし――。
廊下で耳を塞がなかったのは、仁科がそれを許さないくらい本気で頑張っていたからなんだろうし。
「――いいですか?」
「別に、どっちでもいいよ」
と、気だるく返事をしたすぐ後に、仁科の唇はゆっくりと動き始めた。
強く、優しく、ワレモノを扱うような手付きで僕の肩を押す奴がいる。
その時の僕は、自分がどこにいるのか、何をしているのかが全く分からない状況に追い込まれていた。視界は閉ざされ、聞こえてくる音も不思議と曖昧で、さっきからふわふわと浮かんでいるような感じが収まらない。
まあ、簡単に言えば――。
「……春原さん、起きてくださいっ」
「ん……ふぁぁ、あ……?」
欠伸をして、背筋を大きく伸ばす。根性のないまぶたを無理やり開ければ、そこに何とも言えない顔をした仁科を見ることが出来る。
――つまり、僕は寝ちゃった訳だ。仁科が歌っている間に、ついうとうとと。
というか、口の中がごわごわしてるし、目やにもたまってる感じがするし、僕って爆睡してたのかな。
「ぁふ……ん、ごめんごめん。あんまり退屈なもんだから、眠くなっちゃって」
「はあ……」
呆れていいのか怒っていいのか、仁科も反応に困っている。壁に掛かっている時計から判断すると、眠っていたのは五分か十分か、そのあたりのようだ。
「すみません、今時の歌ってよくわからなくて」
「あー、別に気にしなくていいよ。ボンバヘッに叶う歌なんてそうそうないし、たとえあったとしても眠くはなんないだろうから。
……だからさ、僕じゃなくて渚ちゃんとかに聞かせればよかったのに。そうすりゃ別の感想ももらえたのにさ。勿体ない」
「いえ、いいんです。眠ってしまったというのも、それだけ落ち着ける歌だったってことですから」
言って、ほんの少しだけ表情を緩ませる。まだ警戒心は残っているけど、少しは気を抜いてくれたってことか。
でも、これからは話す機会もないだろう。今日は、僕が気持ちを整理するために来ただけだから、他に話すことなんてない。
そう思った後で、またひとつ大口を開けて欠伸をもらす。
――あぁ、そうでもないのか。
「もう終わり? だったらもう帰るけど、僕。これでも忙しい身だからね」
椅子から立ち上がって、思いまぶたを擦りながら仁科に背を向ける。合唱部の奴らもこれから来るだろうし、そこでもめるのも面倒くさい。
「あ、はい。どうもありがとうございました」
「何もしてないけどねぇ」
本音を言い残して、背中越しに感じる仁科の視線から遠ざかる。
とりあえず、心の中にあった魚の骨は取れたからオーケイなんじゃなかろうか。
なんだかんだで、あそこに杉坂がいたら感情的になってたかもしれない。そしたら僕の人生で初めて女の子を叩いていたかもしれない。
……それはよくない。かといって、叩かれるのもよくないけど。たとえば藤林杏とか、杏とか、杏とかに。
間もなく、後ろから小さくCDの音が鳴り響く。その軽快なメロディーに、流暢な英語の歌詞が乗せられていく。
ふらつく足をなんとか前進させて、少しでも遅く部室から離れようとする。本当は、眠気を誘うような歌に耳を傾けるのは交通法規上まずいのかもしれないけど、誰もいないし、用事もないから千鳥足で歩く。
なんて言っているかはよく分からなかった。仁科って英語が上手いんだなとか、やっぱり眠くなるよなぁとか、どうでもいいようなことばかり頭をよぎる。
それはとても優しい歌声だから、優しくも何ともない人間は耳を塞ぐことが出来ない。
夢を追いかける姿は格好いいだろう。挫折を味わっても、そこから這い上がる生き様はいいドラマになるだろう。
――だけど。
大体の人間は諦める。
僕は、廊下の片隅で完全に足を止めてしまった。歌を聴きながらこのまま眠ってしまうかとも思ったけど、風邪をひくと厄介だからなんとかこらえた。
だから――なんだっけ。
……あぁ、そうだった。だからあんなにいい声で歌うんだ、あいつ。
この分じゃ、渚ちゃんもむちゃくちゃいい声で歌うに違いない。うん、今から楽しみが出来た。
僕は黙って歌を聴くことしか出来ないし、大した評価も出来そうにないけど、たまに眠っちゃうけど、別にそれでいいのかもしれない。
もし岡崎や杏のせいで不眠症になったりしたら、仁科の歌を聴きに行くのもいい。そしたら完全に熟睡できるから。でもまあ、仁科にとっちゃあ迷惑なだけかも。後輩だから気にしないけどね。
ちょうど歌が終わったので、僕は再び足を進めた。いい加減、今日のところは寮に帰ってしっかり寝直そう。あれはあれで寝心地は良かったけど、眠った顔を女の子に見られるのはちょっと照れる。まあ、後輩だから、特に気にしない……こともないけど。
「――――――」
僕の背中にはまだ、小さな小さなメロディが届けられている。
優しい歌を歌えない僕は、耳を塞ごうともしないまま、一人っきりの帰り道をゆっくりと急いだ。
−幕−
・珍しい組み合わせで書きたかったくらなど祭り2−5「もういちど」の没作品。
詩的になりすぎた箇所が多く、盛り上げどころもいまいちハッキリしません。
しかし本編で気になっていたところをまとめられて個人的には満足かも、です。
SS
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