夏目風子





 頭の上をカラスが鳴きながら飛んでいく、そんな帰り道。
 俺は、極めて特殊な光景を目の当たりにした。
 そいつにすれば日常的な生活だとしても、世間一般に見ればかなり面白い。
 視界の奥にあるのは一人の少女。傍目には高校生のような制服を着た中学生か、あるいは背伸びした服装をしている小学校高学年と評されることは想像に難くない、そんな伊吹風子。
 150センチという身長が高いか低いかは、男の俺にはよく分からない。しかし、風子の子どもっぽさは背の高さうんぬんではなく全身から放出される幼女オーラによって形成されているのだ。
 ……ごめん。幼女オーラのところ撤回な。
 一応、俺と春原と渚、そして風子は親友の契りを交わした仲だ。ヒトデも貰ったことだし。
 その風子は、自分より頭みっつ分くらい大きな自動販売機を前にして、何やら物憂げに俯いている。
 学校のそれと比べれば緩やかな坂道の中腹に、その自販機は備えられていた。しかし、地面が傾斜しているからといって自販機まで傾ける訳にはいかないので、自販機の片側はコンクリートで水増ししてある。
 すなわち、風子のようにちっちゃい人間にはすこぶる不評なのであった。
「ふぅ――」
 思わず声を掛けようとして、俺は遠目から風子の行動を観察することに決めた。
 なんつーか、面白そうだから。
 ……よいしょ、と小さい手を伸ばす。その手には一枚の紙片が握られていた。
 びたん、と紙幣を挿入口に叩き付ける。挿入口が風子の目線より高く設定してあるので、どうしても上手いこと挿入できないらしい。びたっ、びたっという振動が遠く聞こえてくる。
 何回かその行為が繰り返された後、風子は腕組みをして考え込む。
 と、数秒もしないうちに風子は若干低く腰を屈め――。
「たぁっ!」
 と言わんばかりに跳躍した。
 ――考えたな。ジャンプしている間は挿入口が風子の目の高さより下になる。だからその隙にお札を揃えてフタを開けてゆっくりと入れれば――。
 その前に。
 すちゃっ、と地面に降り立ち、差し出した手が販売機の壁を虚しく叩く。
「…………ッ!」
 痛いらしい。右手を押さえてしゃがみこんで呻いている。ここで助けに行かない俺も俺だが、まあ不良だし。
 というか、さっきの手法で本当に成功すると思ってたところが何とも微笑ましい。あいつは人体浮遊でも習得していたのか。
 激しく突いた指に息を吹きかけ、目の端に涙を溜めながら、風子は再び自販機に立ち向かう。ところで小銭持ってないのかあいつ。まあ、持ってないからこそ意地になってるんだろうけど。
 学校の帰りにジュースでも飲もうと財布を見たら千円札一枚きり。このまま諦めて家に帰るのはなんか癪だ、という心情は痛いほど理解できる。俺の場合は春原から借りるので問題ないにしても、あいつはまだ友達が少ないだろうから、そういう手段にも訴えられない。
 …………仕方ねえなあ。
 居たたまれない気持ちになって、俺は懐から何故かヒトデの彫刻を取り出す風子のもとへ近付いていく。
 だからと言って、金を貸すことはまず有り得ないが。
「よぅ」
「――おっ、かざきさんです」
「変なところで区切るなよ。で、おまえはおまえで何やってんだ。ジャンプしたり小さくなったりして、Mリオのものまねか?」
「違いますっ、Lイージです」
 どっちでもよかった。
「……じゃなくて、挿入口に手が届かなくて困ってたんだろ。素直に言えよ、水臭いな」
「風子、そんなにカルキ臭くないです」
「たとえだ、たとえ」
 むぅ、と口を尖らせる風子を宥める。手のひらを見れば、握り締めた夏目漱石がぐしゃぐしゃになっていた。
「ほれ、貸してみろ。入れてやるから」
「えっちです!」
 そこに過剰反応するおまえの方がえろいぞ。
 ……とは言わないでおく。きっと真っ赤になるから。
「叫ぶなっ。頼まれたってそんなことしねえ――でッ!」
 何を勘違いしたか、手持ちのリトルヒトデで弁慶の泣き所を一撃する。脛だよ脛、人間のからだでいちばん筋肉が少ない箇所ですよ、まったく。
 あぁ――――痛い。
「……ッ、お、おまえ……」
「レディーにそんな物言いは失礼極まりないです! 最悪です!」
 じゃあ、変なことされたいのかよ……と言う気力もなく、しゃがみこんだままアスファルトの暗闇を凝視する。近場でぴょんぴょん跳ねる音が聞こえることから、俺の手も借りずに夏目漱石挿入計画を完遂する心積もりとみた。
 そんなので永遠に喉を潤すことなど出来ないのは分かっているのに、何度でも、何度でも。
「…………ぅ、ぐぁっ!?」
 と、暗がりの視界が一瞬だけ赤く染まり、途端に呼吸が苦しくなる。そして同時に、背骨の上に硬いスニーカーのような圧力が――ってこいつはぁっ!
「お……俺を踏み台にするなっ!」
「だいじょうぶです。風子、岡崎さんの背中を越えていきますっ」
「その俺が大丈夫じゃないと……って、痛い痛い痛いっ! おまぇっ、脊髄って損傷するとかなりまずい……!」
「あぁっ、揺らさないでください! 挿入口が逃げてしまいますっ」
「逃げるわっ!」
 ふんぬっ、とロボットばりの起動で背筋を伸ばす。
「あぁぁぅ!」
 風子はあえなく俺の背中からすってんころりん、おむすびのように数メートルほど転がって行った。
 反対側の側溝あたりで、ぽてくりと風子がうつ伏せに倒れている。俺は背中についた足跡を払いながら復活の時を待つ。
 ……ほどなくして、縮んだバネが弾けるような勢いで風子が飛び起き、その瞳の炎をたぎらせながら歩み寄ってくる。
「最悪です!」
「そりゃ踏まれたら誰でも怒るだろ」
「岡崎さんのせいで、またかふぇおれを買いそびれてしまいました」
「……なに、おまえカフェオレなんか飲むのか」
 意外だったが、風子のどことなく誇らしげな顔を見るに、それ目的であることは間違いないようだ。
 けど、なんとなく言えてなかった気もするが。
「風子。おまえもう一度カフェオレって言ってみろ」
「かふぇおぅれ、ですか?」
「無理すんなよ」
 俺は言い方のことを指していたのだが、風子は自販機のことを指していると思ったらしい。
 むっ、と口をへの字に曲げて、その手に掴んだ夏目漱石を俺の前に掲げる。
「大丈夫ですっ。岡崎さんが踏み台になってさえくれれば、風子はこれを入れることができますっ。さあ、四つんばいになってください岡崎さん。何も恥ずかしいことはありません、ここには誰もいませんから」
 激しく誤解されそうな文章だった。
 話の前後関係を知らなければ、風子女王様がどこからともなくご光臨していたことは想像に難くない。
「……おまえさ、本当にあれだな。アホの子だな」
「違いますっ!」
 風子が微妙にぶち切れたところで、俺は風子にもう一度手を差し伸べる。
 もう、無理しなくていいじゃないか。誰かの手を借りても別に責められることじゃない。
 というか、こんなに真剣になる話題でもないし。
 カラスの親子も向こうのお空でアホーとか言ってるぞ。
「だから、入れてやるって言ってんだろ? いいかげん素直になれって」
「すっ……すごいえっちですっ! AV男優くらい開き直りましたっ!」
 それを知るおまえの方が何倍もえろいと――。
「堂々巡りしてる暇はない。……っと、しょうがねえな」
「何がしょーがないでしょうか――ぁ――っ」
 俺は貞操の危険を訴える風子の背後に回り、その腹をぐわしっと掴んで浮き上がらせた。
 意外に重くてびっくりしたが、それを言うとかなりどうしようもない事態に陥るので自重。
 当の風子は、年甲斐もなくたかいたかいされている自分の状況が理解できないのか、しばし拿捕された子猫のようにぽかーんとしていた。
 が、気付いたら気付いたで見事に赤面するのだった。
 怒ると思っていたので、少し意外。
「お……岡崎さんっ。おっ、おろしてくれると、風子はとても恥ずかしくなくなります」
「ほれ、さっさと金を入れるがいい。思う存分、カフェオレを買って買って買いまくればいいじゃないか」
「うぅぅ……。風子、子どもじゃないんです」
「ここで開き直れれば、またひとつ大人への階段を昇ることが出来るぞ」
「……でも、それは岡崎さんと同じ道を歩んでしまう危険があります」
 鋭い。
「つーか、早く入れろ」
「し……仕方ありませんっ。さようなら、夏目漱石さん――」
 片方の手で蓋を開け、もう一方の手に込められた千円の紙幣を、ぐっと挿入口の奥深くへと捻じ込む風子。自動販売機は、それに反応してずびびびびーと一枚の紙きれを自らの深部にまで招き入れる。
 そして――。
「あっ」
 くしゃくしゃになった夏目さんを、ぺっ、とばかりに吐き出した。
 挙句に、
『もう一度、伸ばしてお入れください』
 と、電光板の文字案内まで返される。気が利いてるのかお節介なんだか。
 どうも検知器のお気に召さなかったらしい。まあ、それだけシワついてたら当然か。
「ふ、風子。早いとこシワを戻して、目的のブツを買い漁れっ」
「はいっ。ところで、岡崎さんはどうしてそんなに辛そうなんですか」
「…………それを俺に言えと、じゃなくて早く!」
 何か言いたそうだったが、風子はとりあえず紙幣のシワを伸ばしてネクストチャレンジ。
 で。
 ――ずびびびび。
 ――ぺっ。
『もう一度、伸ばしてお入れください』
 ――ずびびびびびび。
 ――ぺっ。
『もう一度、伸ばしてお入れ』
 ――ずびび。――ぺっ。
『もう一度、のば』
 ――ずび。ぺっ。
『もう一度』
 ――ず、ぺ。
『もういち』
『も』
『も』
「だあぁぁぁぁぁっ!」
 切れた。
 なんていうか、世界のバカ野郎。
 もういっかい創世記からやり直して、もっと融通の利く自販機を開発しやがれ。
 こちとら風子を支えてくだけで、いろんな意味で限界なんだよ……!
「ダメだっ!」
「あぅ!」
 浮遊から急激に降下することによって発生するGを受け、風子が思わず呻きをあげる。呻きたいのはこっちの方だが。マジで二の腕がぷるぷる言ってやがる……。
 明日と言わずに、明後日も怖い。
「なんですか岡崎さん! 自分で支えると決めたからには、きちんと責任を取ってくださいっ!」
「……結婚しよう」
「そういう意味じゃありません! ふざけないでください!」
 マジで照れ怒る風子。新鮮だ。思わず冷蔵庫に放り込みたくなる。
 と、それはともかく。
「おまえ、どんだけ失敗してるんだよ……」
「風子、努力しました」
「それが必ずしも報われるとは限らんが。実際、受け付けられんかったし」
「無念……です」
 右手に夏目を握り締めた風子は、もはや価値を失った紙幣に愕然と肩を落としている。
 結局のところ、金なんてそんなもの。元をただせば紙切れに過ぎない。過剰な期待を寄せると損をする。
 一方で、金では買えないものがあるとか何とか、むかし誰が言っていたような気もするがそのへんは忘れた。
「仕方ないか……」
 もう押し問答するのには辟易した。
 金欠なのは昔からだが、手持ちがゼロという程ではない。初めから風子に貸さなかったのは、金の糸目は縁の切れ目、あんまり人間関係に金の話を持ち込ませたくなかったからで。
 とはいえ、金があることに大した意味もない訳で。
「そういや、喉も渇いたか……」
 なんとはなしに呟いて、財布に入ってあった旧千円札を忌々しい挿入口に突っ込む。
「あっ」
「これだな」
 流石に同じものを二つ買うと露骨すぎるから、糖分および乳分がかなり入っているカフェオレだけを選択する。
 鉄と鉄とが摩擦しあうやかましい音が過ぎ去った後、これまた鬱陶しいプラスチックのカバーを開けて手をつっこむ。全体的に神経を逆撫でしてくれる自販機だった。
 で、拾い上げたのはカフェオレ。
「……おまえ、これ飲むか?」
「あぁ……。岡崎さんがいつになく善人気取りですっ」
「気取ってねえよ」
 実は正解だったから、認めるのも否定するのも照れくさい。
 まあ、これ以外に術は無かったと俺は考える。
「しかし、くれると言われたら貰ってしまうのが江戸っ子ですので、素直にいただくことにします」
「江戸ってガラじゃねえだろ……。あぁ、それとな」
「んぐ、ぅん…………はい?」
 ありがたみもなく速攻で飲み始める風子に、俺は返却口から取り出したお釣りを突き出す。
「これやるから、千円をよこせ」
「ぷ……プチ人さらいですっ!」
「まあ、間違っちゃいないけどな……」
「しかも風子の汗が染み付いた激レアグッズをコレクションしようとしてますっ!」
「自分でレアとか言うな」
 むーっ、と口をへの字に曲げながらも、どこか悔しそうな表情を見せる。
 若干の睨み合いが続いた後、風子はわりあいあっさりと右手の千円札を俺に突き出した。
「今回だけですからね……」
「水臭いこと言うなよ。いつでも助けてやるぞ」
「有償の友情なんていりませんっ!」
「おっ、語呂が良いな」
「ひとの話を聞いてくださいっ!」
「……わかった、聞くから」
 なんとなく泣きが入りそうだったので、聞きの体勢を整える。つってもすることなんて気を付けするぐらいしか思いつかなかったが。
 風子は差し出した右手を俺の腕に押し付け、俺は風子の左手にお釣りを捻じ込む。
 俺はその手から千円を受け取り、くしゃくしゃになった夏目のシワを伸ばす。このままでは自販機と言わずスーパーでも受け取ってもらえないかもしれないし。
「ん、これで交渉は成立だな」
「……大事にしてください。出来れば額縁に入れて飾っておくと運気UPです」
「断る。使えない金に用はない」
「かっ、金の亡者がいますっ!」
「人聞きの悪い……」
 うろたえながらもカフェオレは手放さない。この場合、意地汚いのはどちらなのだろうか。
 なんとはなしの気まぐれで風子を助けてしまったが、だからといって見返りを求めていた訳でもない。まあ、この千円札が労働の報酬といえばそうなるのかもしれないが、金銭的には損も得もしていない。
 単に、こいつを助けてやりたい以外に何も考えていなかったらしい。
 俺は、凄い勢いでカフェオレをがぶのみする風子に告げる。
「なあ、風子」
「……んく……んっ、なんでしょうか岡崎さん」
「やっぱり、この夏目漱石は額縁に飾っとくわ」
「そうですかっ。それでこそ風子コレクターです」
「いや、別にコレクトしたいほどの魅力はないが……ていうか、収集されて嬉しいのか?」
「――今のは失言でしたっ。撤回してください」
「おまえがしろよ……。でもまあ、大切にはするさ。
 なんせ、おまえから貰った二つ目のプレゼントだからな」
 言って、だいぶシワの取れた千円札をかざす。
 風子は一瞬言葉を失っていたが、すぐにまたいつもの覇気を取り戻す。怒ったような嬉しいような、少し困ったような顔。
「と、当然ですっ。ですが、安心はしないでください。
 今この瞬間から、岡崎さんは全世界の風子コレクターに狙われる存在になりました。いつ寝首をかかれてもいいように、加齢臭にだけは気を付けてください」
「出てねえよ」
 とは言いながら、首周りを撫でてみる。不安だ。
 風子はそんな俺を黙って見上げている。そしてカフェオレに口をつけて、今度は少しゆっくりと飲み始める。
 ……さて、これからどうしようか。
 することもなくなってしまったが、別に何をするでもない。
 しなければならないことを探すほど、あわただしい関係でもないだろうし。
「なあ、それっておいしいのか?」
「努力の味がします」
「答えになってない」
「具体的には、大人の味がします」
「抽象的じゃん……」
 自販機を見ればカフェオレとコーヒーばかりがディスプレイに陳列されている。
 手元にはなけなしの千円、しかしこれは風子に貰ったもの。金には換えられない。
 ただの紙幣なのに、金には換えられないというのもヘンな話だが。
「よし、風子。百二十円貸せ」
「お断りしますっ」
 とても嬉しそうに、やたら意地悪く風子が返答する。
 俺の手の中にいる夏目漱石が、見た目くしゃくしゃな顔で笑っているような気がした。





−幕−







・くらなど祭り2−5「もう一度」投稿作品。



SS
Index

2004年11月29日 藤村流継承者

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