その日、わたしは小さいテーブルの前にちょこんと座っていた。
隣りには、お母さんとお父さんが居る。
お母さんはいつもみたいに優しく笑っていて、お父さんはいつもより声が大きくて元気だけど、ちょっと恥ずかしそうな顔をしていた。その理由は、その頃のわたしにはよく分からなかった。
今日のごはんは、赤飯だった。
つまり、そういう日なのだと気付いたのは、何年も後になってのこと。
あなたに会えてよかった
気分がわるい、というのはよくあることで、だけどそのことでお母さんやお父さんを心配させたくなかった。
二人とも、今までよりは家に居てくれる時間が増えたけれど、それでもまだ安心できなかった。……なんて矛盾だろう、安らぎたいから私の側に居てほしいと願うのに、側に居てくれてさえも不安で仕方ないのだから。
その頃のわたしは、自分がどうしようもなく弱いと感じていた。
今でも、そう思っているのは変わらないけれど。
具合がわるいのを押し殺して、家に帰ってきてからトイレに閉じこもった。
しばらくして、わたしは痛みと異変に気付くことになる。
まず痛みが先に来て、これが特別なことだと意識出来はしなかった。痛くて、苦しくて、悲しくて、世界に自分ひとりだけ取り残された気がして、ただただ不安だった。
「どうしたの?」
すすり泣いていたトイレの扉を叩いたのは、お母さん。
その声にほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、おかしくなってしまったわたしを見られたらいけないと、不器用に取り繕う。なんでもない、と慌てて口にするわたしに、お母さんは優しく言った。
「……痛いの?」
その言葉があまりに柔らかすぎるから、わたしは思わず、うん、と口にしてしまった。
お母さんは、今度はさほど感情のこもっていない声で、そう、と呟いた。
何をしていいか分からず、かといって部屋でじっとしているのは怖い。
居場所が見付からないまま、わたしはいつの間にか台所に立っていた。そこで、夕食の準備をしているお母さんの姿を見た。
綺麗だな、と子どもながらに思ったのを覚えている。いつか、お母さんみたいな人になれるなんて、考えもしなかった。
心の声が聞こえた訳ではないだろうに、お母さんは不意にわたしの方へ振り返った。あっ、という声が漏れたのは、わたしの顔がとても見れたものじゃなかったからだろう。
「あら、夕ごはんにつられて来たの?」
「……うん」
本当は違うのだけど、本当のことを言えないわたしは小さく頷くしか術を持たなかった。炊飯器からは、美味しそうな香りが漂ってくる。いつもとは違う、特別な香り。
今日は何かの記念日だろうか。ふとカレンダーを見ても、今日の日付は真っ黒だった。
「お母さん」
声を上げると鈍い痛みが走ったけれど、黙りこくっているのは何故か嫌だった。昨日と同じようにお母さんと話をしなきゃ。そう思っても、いつも話してることって何だったっけ、と頭の中がぐるぐる回って、うまい切り出しが見付けられない。
「どうしたの?」
目線はまな板の上の豆腐に向けたまま、お母さんは言う。
いつもと変わらないはずなのに、その姿がやけに遠い気がした。自分に言い聞かせる、気のせいだと。
別に、自分が変になったから、お母さんの背中が遠くなった訳じゃないんだと。
「今日って、何か特別な日だった?」
とりあえず、言いたいことと知りたいことはそれぐらいだった。
わたしは、言葉を口に出した次の瞬間から、また次の質問を探していた。会話を途切れさせたらいけない、そうしたら自分はまた一人になる。
訳もなくそんな焦りと戦っている時に、その答えは不意に返ってきた。
「そうね」
肯定も否定もせずに、お母さんは包丁をまな板に置く。
そして顔だけをわたしの方に向けて、とても優しい微笑みを浮かべた。
「わたしも上手く言えないけど、今日はきっと特別な日よ」
母親の笑みをたたえて、お母さんは言った。
その夜のごはんは赤飯だった。
お母さんから夕食が赤飯ということを聞いて、お父さんはやけに驚いている様子だった。たまにわたしの顔を見て何か言おうとするのだけど、結局何も喋らない。結局、食事中のお父さんは元気に独り言を呟いているだけで、わたしに直接話しかけることはなかった。
でも、ただ一言、ごはんの前に「心配しなくてもいい……んじゃねえか」と言ってくれたから、わたしは寂しくなかった。
後から考えると、この対応の仕方が本当に正しかったのか疑問に思うことがあるけど、その時のわたしは嬉しかったから、きっとお父さんのやり方は間違っていなかったんだろう。
だから、わたしはとても幸せだった。
赤飯の味は、あまり覚えていない。もう十年以上も前の話だし、痛みもけして弱くはなかったから、味にまで気を向けることは出来なかった。
その代わり、この日にあったことをわたしは忘れていない。きっとこれからも忘れないだろう。
騒々しいような、それでいて穏やかな夕食が過ぎ去った後、片付けをしている最中にお母さんがこんなことを言い出した。
「ねぇ、渚。赤ちゃんがどうして生まれるか、知ってる?」
遠くで――とはいっても、お父さんが寛いでいる居間とのわずかな距離だが――、激しく咳き込むような音が響いた。わたしは、二つ重ねた茶碗を持ったまま立ち尽くしている。その理由は、お母さんの質問の意図が分からなかったからだ。
「うん、えぇと……ごめんなさい、よく分からない」
「謝らなくてもいいのよ、知らないことはこれから覚えればいいだけなんだし」
それに、今日はいい機会だしね、とお母さんは微笑んだ。
今度は、少し意地悪な笑顔だった。
お父さんの声は聞こえない。たとえ止めてもお母さんは話すと思ったが、お父さんが止めないのはやっぱり恥ずかしいからなのか。でも、どうして恥ずかしいんだろう。
茶碗を片付け、手ぶらになったわたしの目線に合わせて、お母さんは腰を屈めた。近くで見るお母さんの顔には、ほんの少しだけど小さなシワがあった。たったそれだけのことなのに、とてもショックだったのを覚えている。
「赤ちゃんはね、女の人から生まれるの。それはとても痛いことだけど、赤ちゃんを見たら全部忘れてしまうくらいに、嬉しくなるの。
不思議よね、痛くて苦しくて、泣いてしまうような辛いことでも、たったひとりの小さな赤ちゃんに会うだけで笑っていられるんだもの。わたしも小さな小さな渚に会って、本当に嬉しい気持ちになったのよ」
そう言って、お母さんはわたしの手を取った。今はまだ小さなわたしの手に、お母さんの大きくて温かい手のひらが被さる。
いつか、わたしもお母さんのような人になれるだろうか。
自信はなかったし、根拠なんてどこにもなかった。
でも、それでもいつかはお母さんのようになりたいと、強い人になりたいと願っていた。
そして、今もまだ小さくて弱いわたしの手のひらは――。
「渚は、今日からその赤ちゃんを産むための長い長い準備の時間に入ったの。……怖かった?」
頷く。嘘はつけないと思った。
お父さんが何も言わないのは、言いたくても言えないからだとようやく気付いた。
お母さんだって、わたしと同じ経験をしているのに、わたしの気持ちを代弁するのじゃなくて、あくまで自分の気持ちを語っている。
「わたしには、渚の痛みは分からないけど」
ぎゅ、と手のひらを握る力が増し、お母さんの身体がわたしの身体を覆う。
肩と肩とを寄せ合って、頬にお母さんの温もりを感じ、どこからともなく心臓の鼓動が聞こえてくる。
「わたしは、渚に会うことが出来て、ほんとうに嬉しかったのよ」
また、お母さんは耳元で囁いた。
その時の顔は見えなかったけれど、わたしは手のひらに力を込めた。
わたしがここにいることを伝えられるように、強く、強く。
生きていることを分かってもらえるように、小さくても、手のひらを強く握り返した。
その後で、ありがとう、という声がわたしの耳元に届いた。
そして、当たり前のようにお父さんもわたしとお母さんを抱き締めに来た。
ずっと入るタイミングを見計らっていたんだろう、その手には汗がにじんでいた。
こうして抱き締め合えることの幸せを思い知るのは、実はもう少し時間が経ってからのことだった。
その頃より前の小さなわたしはただ必死で、温もりを手に入れてからのわたしはそれに満足していたから、冷静にその幸せを眺めることは出来なかった。
でも、その頃のわたしは、幸せだったことに気付かないほど、満たされていたのだろうと思う。
始まりはそこから。
わたしの人生は延々と続いていて、終わることなどないようで。
あるのはただ特別な始まりだけで、終わりですらも、あるいはひとつの始まりなのかもしれない。
……と、分不相応な感傷を抱いてしまうのには、ひとつの原因がある。
「ねぇ、汐ちゃん。子どもって、どうして生まれると思う?」
「え……?」
かたん、と汐ちゃんが運んでいたお皿が見事にカーペットの上を転がった。ころころ、ころころ、辺りに散乱したキャベツの自己主張がやけに激しい。
その原因とはつまり、そういうことなのだ。
小学4年生で初めてを迎えるのが早いか遅いかはよく分からないが、大体わたしと同じくらい。汐ちゃんも、トイレの中にずっと篭もっていた。
小さくて可愛い汐ちゃんも、時が経つにつれて成長していく。その証としての、大人の始まり。
「あぁー、何やってるんだよ汐ー」
どことなく棒読みっぽい口調で、朋也くんが布巾片手にキャベツを拾いにかかる。汐ちゃんの足元に転がったお皿も受け取り、手早くちゃっちゃと緑色をかき集めている。
意識してのものかは知らないが、こっちに背中を向けてぶつぶつとこっちの話し声が聞こえないようにしている。どことなく恥ずかしいそうに見えるのは、間違いじゃないと思う。
汐ちゃんは、どうして良いか分からずに佇んでいる。こっちはいきなりの質問で完全に固まってしまったようだ。
……さて、これからどう進めたらいいんでしょう。出だしから失敗したような気もするけど。
「あ、いえ、別におしべとめしべがどうのこうの、とか逐一説明する訳じゃないので、安心してくださいね」
「う、うん……。それは、分かってる」
わたしも汐ちゃんも、なんだか挙動不審だった。朋也くんも背中で溜息を吐いているような感じだし。
なかなか、お母さんのように上手くはいかない。
やっぱり、わたしの手のひらはまだ小さいんだろう。
――でも。
「汐ちゃんは、痛くて、苦しくて、泣きたいくらい辛いことがあっても、笑っていることが出来ますか?」
少し質問を変えてみる。
初めから、お母さんのように上手くやろうとは思っていない。
「……それは、ちょっと無理かもしれない」
「はい、口で言うのは簡単ですけど、なかなか難しいことです。頑張りたくても頑張れない、ていうのはよくあります」
朋也くんはキャベツを拾い続けている。でも、同じ場所に屈みこんだまま一歩も動こうとはしない。
本当は何か言ってあげたいのだろうけど、何も言おうとはしない。朋也くんの背中と、あの頃のお父さんの背中が不意に重なって見えた。
「わたしもそうでした。何度も何度も、無理だって思いました。でも、たった一度だけ」
今から十年前、わたしはそれを経験した。
死んでしまいそうに辛くて、苦しくて、泣いてしまったわたしだけれど、朋也くんが生まれたばかりの汐ちゃんを見せてくれた時、いつかお母さんが言ってくれたように、わたしは言葉を失った。
本当に、こんなことがあるんだと初めて知ったのだ。
あまりに嬉しくて、言葉にできないことがあるということを。
「あ……」
優しく、その小さな手に触れる。
不安なのだろうか、それとも怖いのだろうか。わたしには汐ちゃんの痛みや不安を受け持つことは出来ないけれど、理解したいという想いは間違っていないと思いたい。
「汐ちゃんに会えた時は、どんなに辛くても、苦しくても、その痛みを乗り越えることができました」
そして、今もまだ小さくて弱いわたしの手のひらは、一人の小さな女性を強く握り締めている。
記念すべき始まりの日に、側に居てあげられるように。
「わたしは、汐ちゃんに会えて、ほんとうに良かったと思ってるんですよ」
握り返してくる手の力は弱いけれど、その小さな温もりと感触は確かに伝わってくる。
汐ちゃんは、さっきまでの困った顔から少しだけ穏やかな表情になっていた。でも、まだ自分の中で消化しきれていないものがあるのだろう。
でも、焦る必要はない。
文字通り、汐ちゃんの人生はまだ始まったばかりなんだから。
「……うん」
小さく笑った後、汐ちゃんの力が少し強くなった気がした。
始まりはここから。
少しずつ、いろんなものが変わっていくけれど、その代わりに始まるものがある。
汐ちゃんも、いろんな始まりを経験して大人になる。わたしが辿った道や、わたしが歩かなかった道も歩いていく。
わたしたちに出来るのは、汐ちゃんの手を握って、温かいごはんを作ってあげることくらい。きっと、それだけで充分なんだろう。
だからとりあえず、赤飯の作り方をお母さんに訊いて来なきゃいけないなぁ、と思った。
−幕−
・くらなど祭り2−7「始まり」投稿作品。
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