さくら    Invisible Perfect Cherry Blossom





 坂の下には桜がある。
 もう私とは殆ど関係のない施設の入り口で、その美しさと儚さに見惚れて足を止めてしまう。
「……さくら」
 よく、綺麗な桜の下には死体が埋まっているというが、それを実際に確かめた人間はどれくらいいるのだろう。人間の肉はそれほど養分になるのか、あるいは血を啜って大きく花開いたからこんなにも赤いというのか。
 ならば、タコやイカの死骸を大量に埋めたら桜の花は青くなるのか。貝でもいい。その場合は数万年後に貝塚になっちゃうけど。
 また、ナマコを埋めたら透明な桜が咲くんだろうか。見てみたい。是非とも見てみたい。
 しかしながら、私はあんまりナマコが好きでない。骨も血液もない軟体生物、しかも踏んだら内臓がべちょりと飛び出して、うわぁとか思ってるうちに本体は体内で内臓を生成し始めるのだ。物凄い生物である。心臓も肺もないし。ターミネーターか。
 ……話が逸れた。
 そんなことを知った後となると、あまり積極的に彼らを捕獲してみようとは思わない。透明な桜にも興味がないではないが、やはり生理的な嫌悪が先に立つ。食べると血液の浄化作用があるらしいが、なかなか箸が進まない。彼らに罪はないのだが。
 無念。本当に無念である。
 ……でも、諦めるのはまだ早いかもしれない、と星型の某物体を抱いて坂を駆けのぼる女の子の背中を見て思い立った。
「ちょっと」
 はたはたと揺れる髪が、小さな呼びかけで不意に停止する。
 纏った制服が大きく見えるのは、その女の子があまりに小さすぎるせいだろうか。彼女の保護者がサイズを合わせようとするのを、自分は大人だからと必死に拒む姿が容易に想像できる。
「何か御用ですかっ。見たところ、おねぇさんは学校の人ではない感じです」
「そう。むかし、この学校に通ってたことがあるの」
「そうですか。俗に言う、OBという方ですねっ」
 それだと私が女装趣味の男性ということになってしまうのだが、本人はそれで正しいと思っているみたいだから訂正はしないでおこう。
「もしかして、おねぇさんもこのヒトデの魅力に取り憑かれた人間のひとりなのではっ!」
「……? いや、さくら――」
「言わずもがなです! 何も言わずに、このヒトデを貰ってやってください! おねぇさんは学校の人ではないのでヒトデ演劇部に入ることできませんが、ヒトデを持っているだけで本厄から逃れられること請け合いです!」
「あぅ、ありがとう……なの」
 なかば押し付けられる形で、そのヒトデを受け取る。やはり私の見立ては正しかったようだ。
 あまり人の話を聞いてくれない子らしい。まあ、笑顔が可愛くて元気なのはいいことである。
 とはいえ、いつまでも坂の下でほんのりしている訳にはいかない。私も私で用事があるし、早いところ用件を済ませてしまおう。
「ところで」
「あっ、申し遅れましたが風子は風子と言います。以後お見知りおきです」
 そりゃそうだ。
 あと、微妙に言葉遣いが偉そうなのだが、なんとなく許せてしまう微笑ましさがある。得な少女だ。
「ですが、周りの人からはふぅちゃんを呼ばれることも多々あります」
「うん。私はことみ。ひらがなみっつで――」
「ことみちゃんですねっ」
 弾けるような笑顔で答える。――正解。一種、動物的なまでの勘の鋭さ。前世は猫かイタチだったのではないだろうかと思う。あとはヒトデとか。
 驚く間もなく、女の子――ふぅちゃんはさっきまで私が見上げていた桜を仰いでいた。
「きれいです……」
「でも、きれいな桜の下には……」
「たくさんのヒトデが……」
 埋まってない。
 そこ、嬉しそうに掘り起こそうとしない。
「そうじゃなくて、誰かの死体が埋まってるかもしれないの。恐ろしい話、とてもとても怖い話」
 ぶわっ、と一瞬にしてふぅちゃんの毛が総毛立つ――ように見えた。実際は後ろのリボンくらいだったのかもしれないけど。
「恐怖ですっ! 風子を驚かせたところで何も出ません! 出るとしたらゆうちょの暗証番号くらいです! 11――!」
 言うし。
 私は突然の独白に耳を塞ぎ、ふぅちゃんの個人情報を保護する。
 手のひらを離した後には、絶叫を終えて疲労困憊するふぅちゃんの姿が。生きることに全力疾走である。
「はぁ、はぁ……。まったく、ことみちゃんにも困ったものです」
「ごめんなさい。でも、実はふぅちゃんに頼みたいことがあって――」
「何ですか。さしもの風子も歩いてアメリカに行くことはできません」
「そういうことじゃなくて……。きれいな桜の下には人の死体が埋まっている。それは桜の根が人間の血を吸っているせい。だとすれば、イカやタコ、貝などの軟体生物を埋めれば桜の花びらは青くなるの?」
「む……。とても興味深い内容ですが、イカは噛み切りにくいのであまり好きではないです」
 自分の好き嫌いの話にもっていってしまった。ふぅちゃんの独創的な思考展開法も充分に興味深い。
「そこで私は思ったの。血液がないナマコを埋葬すれば、その桜は透明な花びらを付けるのでは……?」
「なるほどっ! でもなんでそこに風子が参上してくるのかがいまいち」
「だって、ヒトデもナマコも同じ棘皮動物だもの。ウニ、ヒトデ、ナマコなどがそれに属するんだけど、もともと棘皮動物という名称はechinodermというギリシャ語由来のラテン語を直訳したもので、echinodermとはechinus(ハリネズミ)のようなderma(皮)を持つものという意味があるの。その名が示すように、元来ウニを対象としてつけられた名称なんだけど、ヒトデ、ナマコなど、ウニと類縁関係にあるトゲを持たない動物も棘皮動物に含まれているの」
「なるほど……」
 と、頷いた頭のてっぺんから薄い煙が立ちのぼっている。無理はしない方がいいと思う。
 しかし、ヒトデという単語がそこに含まれていたことに気付き、表情を引き締まらせる。
「よくわかりました。ことみちゃんが風子に目を付けたのも理解できるというものです。本当はさっぱりですが」
 本音が出た。
「お願い……できる?」
「お任せください! ……と、言いたいところですが」
 しゅん、と残念そうに項垂れる。
 やはり、初対面の人間に頼むには少し仰々しい内容だったろうか……。
 私は、咄嗟に自分の希望を取り下げようとする。
「ごめん、難しい内容で……」
「その相談、お引き受けします!」
 腕を突き上げ、自信満々に言い放つ。
 ……どっちなんだろう。
「実を言うと、こういう言い方をしてみたかっただけです」
 誇らしげに胸を張る。……まあ、気持ちは分からないでもないけど。
 兎にも角にも、私とふぅちゃんの『満開の桜の下にはナマコが埋まってるかもしれない』作戦が幕を開けたのだった。





 数日後。
 坂の下で落ち合った私とふぅちゃんだったが、ふぅちゃんは宣言通りにナマコを回収してきてくれた。
 ……リュックいっぱいに。
「どうですかっ」
「多いの」
「風子の見立てでは、この坂のぜんぶの桜を透明にするには、これでもまだ足りないくらいではないかと」
 ちなみに、ちゃんとビニールに入れてきてくれた。それでもやはりというか何というか、とても磯臭い。かなり新鮮である。
「でも、全部に植えちゃったら比較が出来ないの。もしこの坂の桜が全部透明だったら、枯れてると思われてしまうから」
「そうですか……。残念です」
 肩を落とすふぅちゃん。意気消沈するのも意気軒昂なのも、見ていて飽きない女の子だ。
「とにかく、早く埋めてしまいましょう。死体遺棄は三年以下の懲役に値するから」
「わかってます。ばれなければいいんですねっ」
「そういうことなの」
 話が分かる子で助かった。実験には犠牲がつきもの、ナマコには悪いが、彼らにはここで桜の肥料になってもらう……!
 自然に頬が緩んでしまうのは、悪役に徹する者の宿命なのだろうか。
 予め用意していたスコップで、桜の根元に穴を掘る。樹齢が長い樹は根っこが太く穴を掘りにくいため 、臨床実験のモルモットに指定したのはまだ幼い稚木。立て看板に『桜』となければ、誰もそれと気付かないくらいに背が低い。
「これで……」
「大丈夫ですね」
 掘った穴に、数匹のナマコをどばどばと流し込む。外観した限りでは、生きているのか死んでいるのか判然としない。もし生き埋めだった場合、殺人罪が適用される可能性も考慮して無期懲役とえーと……。
「なかなか透明にならないです」
 ふぅちゃんの声で我に返り、顔を上げる。
 そこには、自分と同じくらいの高さしかない桜が、それでも元気に薄桃色の花を咲かせていた。
「さすがに、即効性はないと思うの。結果が出るまでは、来年まで待たないと」
「息の長い実験ですね……。学者さんは肺活量が凄いです」
 しきりに感心している。おそらく、息が長く続くから肺活量が多いと連想したのか。相変わらずだ。
 なんとなく言葉を失って、ふぅちゃんと一緒に桜吹雪の中で佇んでみる。
 小さな桜を眺めながら、大きな桜がこぼす花びらに包まれる。風が吹けば散りゆく定めだけれど、咲かすこと自体に意味があるのだから、桜は別に散ることを恐れはしないのだろう。
「きれい、ですね……」
「……うん」
 呆けたような声も、その実もっとも感動を言い表せる言葉に違いない。全てを言葉にすることは不可能だ。全てを知り、全てを理解することなど不可能であるのと同じように。
 ならば、私が追っているものも無意味なのだろうか。棘皮動物のことではなくて、現在の私の根幹をなす衝動の名前。両親が捜し求めていた統一理論も、私には、理解できないのだろうか。
「……お父さん。お母さん……」
 胸が締まる。
 その答えはきっと、最後まで出ないと思う。出なくてもいいとさえ思った。
 今はまだ、そこにしか生きる理由を見出せないでいるから。
「……ことみちゃん、どうしました?」
「あ……」
 心配そうに見上げてくる瞳に、頼りない声を上げてしまう。それもまた、偽ることのない本音の声なのだろう。他人には見せづらい表情も、ふぅちゃんになら許せるような気がした。
 だからといって、積極的に感情を発露できないのが私の弱さ。
 同時に、私を形作る鎧でもある。
「ごめん、ちょっと悲しいことを思い出して……」
「悲しい、こと……?」
「でも、ふぅちゃんは気にしなくてもいいことだから」
 そう言って、再び桜の海に視線を投げる。
 意識さえも吹き散らしてしまうかのような不躾な風の中、不意に、私の手のひらに誰かの指が触れた。
 見なくても分かる。隣りにいるのはひとりしかいないのだ。
 けれども、その分かりきっている人の姿を見ておきたくて、私は首を横に向けた。
「ふぅちゃん……」
「そんな悲しいこと、言わないでください」
「……」
「気にしなくてもいいなんて……。関係ないだなんて、言ってほしくないです」
 繋いだ手に力がこもる。ふぅちゃんは私の眼を見ず、ずっと小さな桜だけを見詰めている。
 そうしなければ、悲しくなってしまうから。
 本当は全く関係のない誰かのために、泣いてしまうかもしれないから。
 それが嫌で、慰めたい人の目を見ないようにする。
「だって、ことみちゃんと風子は同じヒトデを分け合った仲です。ヒトデもナマコもきょくひ動物なんですから、これはもう血縁関係にあると言ってもおかしくはありません」
 力強く宣言する。
 つっこみを入れたいところは多々あるのだが、そうするのも野暮だと思って口を閉ざす。
「優しいね、ふぅちゃんは……」
「人として当たり前のことをしているだけです。むしろ、偉いのはヒトデです。風子とことみちゃんの縁を繋いだのは、他ならぬヒトデの恩恵あってのものです」
 懐から取り出したヒトデを掲げて、恍惚とした表情を浮かべるふぅちゃん。
 彼女の中で、ヒトデは神にも等しい存在らしい。それだけではない気もするが、深入りすると二度と帰って来れなくなりそうな気もする。
「……うん、分かったの」
 しばらく帰って来そうにないふぅちゃんに、私は小さく答える。
 もう、関係ないだなんて言わない。自分より素敵なこの女の子を、悲しませるようなことはしない。
 繋いだ手の強さと、汗が滲んでしまいそうな温もりを感じながら、もう一度この桜並木を見上げられるようにと祈った。
 この世に神様と思しきものはいないと思っていたけど、ここはふぅちゃんにあやかって、星の形をしたヒトデ様に願いを掛けよう。
 願わくば、来年の桜が散り始める頃。
 ひとつだけ咲いた透明な桜の下で、ヒトデを抱えた少女と出会うことが出来ますように――。





−幕−








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2005年4月24日 藤村流

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