空の白煙
回り続ける換気扇の渦に、湯気と混じり合って吸い込まれてしまえたなら。
滔々と波打つ湯船の中で、益体もないことを考える。
水滴が垂れる音は、聞き慣れていたせいもあって気にならない。
一方、脳天に落ちて来た雫には顔をしかめる。
浴槽に漂う生暖かい温度と比較して、結露した水滴のなんと冷酷なことか。
「そろそろ、上がるか……」
視界は一面の白濁、確かなものなどひとつもない。
鏡の向こうに、疲れた人間の詰まらない顔が見える。
揺ら揺ら揺らめくその輪郭は、白い煙にぼやけて明確な形を描くこともない。
またひとつ、首筋に雫が立った。脳髄に直接注射されたような不快感、あるいは恍惚感。
自分の身体が白く霞み切ってしまう前に、濡れそぼったセラミックのドアノブを押した。
網戸にへばり付いている羽虫を思い、窓を閉めれば部屋に立ち篭もる紫煙を思う。
結局はどちらを不快に感じるかの違いなのだが、明白な格差がある訳でもなし。
窓を半分程度開け、光源のレベルをひとつ格下げし、二酸化炭素の温床たる煙草を灰皿に押し付ける。
火照った体に熱いものを近付けるのも愚の骨頂ではあるが、趣味は趣味で貫くだけの価値はある。
「明日……は、墓参りか」
浮かれた頭を振り回せば、適当な位置にカレンダーが収まった。
赤く記された丸がやけに可愛らしく、地味な番号表示が余計貧相に見える。
苦笑するだけの余裕もなかったが、ざらつきの目立つようになった畳に寝転ぶ切っ掛けにはなった。
どうせ一人なのだから、布団やタオルを重ねる必要もない。
大切な温もりはまた別のところにあるし、今の自分に必要なのはとりあえず快眠を促すだけの環境だった。
両端が黒くくすんでいる蛍光灯を仰げば、輪郭すら定まらない夏の虫が、螺旋を描くようにくるくると上昇していた。
確かに、それは火ではないが、仮初であるにせよ陽ではあるだろう。
最期に焼け落ちて墜落してしまうところなど、人間とよく似ている。
その頃になって、ようやく自嘲するだけの余裕が生まれていた。
盆は人が少なくなる代わりに幽霊が増える。
結局は人間か人間だったかの違いなのだから、明確に区別するのも面倒臭い。
車の免許は持っているが、生憎と専用の車と駐車場を借りられるだけの余裕がない。
いつかそれが出来ることを夢見ていたら、いつの間にかこんなに老け込んでしまった。
誰かに言わせれば、岡崎朋也は元々厭世的なところがあったと評するだろう。
確かに、そうではあった。未だにそうである自覚もある。
だが、だからといって今更社交的になれるかというと、そんな訳があるはずもなく。
「行くか」
誰にともなく囁き、重い腰を上げる。
テレビの主電源に指を掛ける際、本日は滞りなく晴れると太鼓判を押してくれたが、次の一瞬には跡形もなく消え去ってしまった。
用意するものは、あまりない。
本来なら、今日も特に休みたいとも思っていなかった。必要なものは大抵この部屋にあるし、足りないものもこの部屋にある。
だが、芳野さんや社長の勧めで、今日という日を迎えたのだった。
揉み消した煙草の切れ端からは、まだ灰煙が昇り続けている。
網戸は閉めた、換気扇もガスの元栓も、蛇口は二度と開けないくらい硬く。
それらをいちいち点検し直すほど、神経質でもない。
陽当たりだけは良好な部屋だから、帰って来た頃には涙が出るくらい熱せられていることだろう。
流せる涙は今のうちに流しておいて、無駄に丸く無意味に柔らかい、変な球体のキーホルダーをくるりと回した。
電車に揺られながら数時間。それとも数十分だったろうか、時間の感覚が曖昧になったことを知る。
服装はさほど頓着する必要もなし、けれども蒸し暑い中を薄っぺらいスーツで着飾って歩くだけのモラルはあるつもりだった。
歩き煙草は厳禁、と誰からか命じられたのを覚えている。
同時に飲酒も禁じられたが、当時の自分は簡単にそれを突っぱねた。
そのツケが肝臓に呪詛となって渦巻いている昨今、あまり無理も出来ないなと苦笑する日々。
蝉の喧騒と虫の恩恵、雑草の海を蹴飛ばしながら、そこにある御影石をねめつける。
肩に下げた鞄を下ろし、適当に線香やら供え物やら、下手に熱せられないよう日陰に寝かせておく。
自分もまた大樹の木陰に移り住み、不謹慎とは思いながら煙草の一本を拝借する。
「ふう」
まずは一息。仕事の影響か、やたら早い時間に来てしまった。
近くに暇を潰せる場所などないし、あったにしても煙草は吸えないし読みたい雑誌もない。
ならば、誰かが来るまで放火の疑いが掛けられない程度に喫煙している方がよほど優雅である。
空に雲が掛かり、日差しが和らぐ。スーツに包まった身体が、汗まみれの悲鳴を上げている。
もう少し我慢してくれ、と泣き言を吐き、幹に預けた背中の位置を確かめる。
この熱気にあって、これまた燻っている煙に指を近付けることもない。
だが、それはそれ。煙草は煙草、紫煙は紫煙。死者の煙とは一線を画する、十二分に生きた狼煙だ。
指先に挟んだ熱源から、白煙が高々と昇っていく。
雲にはなれない煙ではあるが、人を誘う程度には派手派手しい旗であるらしい。
そうでなくても、今日が墓参りなのだから当たり前のように人は来るのだが。
携帯の吸殻入れに、吸い始めの煙草を無理やり押し込む。顔を上げると、知った顔がいくつか並んでいた。
墓前に佇み、か細くも段違いになった影が、綺麗に二つ。
「よう」
長らく、という言葉が適切なのかどうか。
会いたかったのは確かだが、この場所で出会う運命も必然もなかったはずだ。
渚も、汐も、悲しげに俯いていた。こちらの声は聞こえているはずなのに、顔を上げようとしない。
「何回忌だったか……。あんまり、数えたくもないな」
苦笑しても、宥めすかす声が掛けられることはない。
喫煙が露見したのかと、胸ポケットを確認する。
紫煙こそ漏れていなかったが、この狼狽によって喫煙の事実は白日の下に晒された。
彼女たちは、何も語ろうとしない。汐もとっくに喋れる年齢であるはずなのに、一言も声を掛けてはくれない。
薄情だな、と思いながら、無理もないか、と結論付ける。
とりあえずは、出会えたことに感謝しよう。
「年に一回ってもなあ。長いんだか短いんだか。何も無いから、何も出来ない。何かしようったって、何も無いからなあ」
煙草を吸おうとしてポケットに指を差し込んでも、何故かその箱を挟むことは出来ず。
不思議に思って指を掲げてたら、そりゃそうだ、こんなに震えていたら掴めるはずもない。
「詰まらないことしか言えなくて、悪いな」
目蓋が落ちかけたのは、日差しが強くなったせい。
木陰の隙間から零れる明かりが、二人の幻影を揺らめかせたせいではない。
渚がいつか褒めてやった服を着ているのも、汐が何となく物憂げな顔をしているのも。
唯一、俺の目に焼き付いている姿だからかもしれない。
辛くなって、掴もうとした煙草の箱は、銘柄が分からないくらいクシャクシャになっていた。
潰れた容器の間から、濁ったタールが容赦のない陽光に浄化される。
折角だから、その煙草を抜いて口に銜える。苦い味が広がり、唐突に泣きたくなった。
「くそ、もっと言いたいことがあるんだがなぁ。いつも、いっつもこうなんだ。肝心な時に、何も言えやしねえ」
生え揃った雑草を、苛立たしげに蹴り飛ばす。何度繰り返したところで、簡単には抜けてくれない。
蝉のざわめきも喧しくなって来た。この再会に、少しは黙ってくれれば良いものを。
何も言えない。大切なこと、伝えたいことは何一つ。
渚なら、汐なら分かってくれる。そう期待することも出来る。
だが、自分たちはそんなに頭の良い人間じゃないんだ。
伝えたいなら、言葉にしなければいけない。繋いだ手は、いつか離れて消えてしまうから。
「馬鹿か」
シダの葉に八つ当たりするのにも飽きて、額から零れる汗が鼻筋を伝って口に滑り落ちる。
しょっぱい。
仲良く手を繋いだ二つの影は、飽きもせず、暴れ回る男の痴態を眺めている。
優しく微笑んでいるように見えるのは、二人がいつもそうしていたからだと思った。
二人とも、最期まで。
思い出し、奥歯の底で最も苦い部分を噛み潰す。むせる。
吐き出したものが地面に散らばって、気が付けば、どこに残骸があるのか分からなくなっていた。
もう、頃合だろう。言葉に迷うのにも飽いた。
「俺は、ちゃんと生きてるから」
ありがとう。少し違う。ごめんな。これじゃあない。心配しないで。いや、してほしい。
会えて嬉しい。それは、確かに。さようなら。は、嫌だ。泣かないで。泣いていない。
泣きそうなのは、こっちの方だ。
昇り続けていた太陽が、大樹の頂点から逸れて西へと下っていく。
焼け爛れた光が、大した意味もない虚勢を溶かそうとしているかのように燦々と。
蜃気楼は、とっくに消えかかっている。
「だからさ」
思わず、手を差し伸べそうになる。
だから一本ずつ楔を刺すように、腕を身体に縫い付けた。
奥歯に染み付いた苦々しい粉末が、今更になって喉の奥底に染み渡る。
戻しそうになった辛苦を一気に飲み下し、岡崎朋也から岡崎渚と岡崎汐に手向けの言葉を。
「ゆっくり、眠っていてくれ」
今の自分に出来る限りの笑みを浮かべて、ささやかな別れを告げた。
太陽は雲に隠れていた。強すぎる閃光が急激に和らいだから、無意識に瞳を閉じる。
いけない、と思った。確信にも似た衝動を抱えながら、目蓋を開ける。
墓碑は墓碑、燈籠は燈籠。そして蜃気楼は元の大気に還元され、そこには何も無かったかのような平穏が広がっていた。
心に空いた静寂とは裏腹に、蝉時雨がいっそう強く耳朶に食い込んでくる。
ああ、今はこれくらいが丁度良い。
もう、身体の震えは収まっている。握り潰した箱の中から、原型を留めていた煙草を一本摘まむ。
ライターは、何処にあるか忘れてしまった。だから、ひとまずは唇で挟んだままにしておこう。
少しばかり時間が経って、早苗さんとオッサンが来た。あの親父も、杏や風子や春原や智代も顔を出してくれた。
どいつもこいつも、口に挟んだ煙草を責め、火が点いていないことを訝しんだ。
他に訊くことはないのかと呆れながら、紫煙を吐き出す要領で溜息を零してみる。
案外、こちらの方が様になっているのではないかと思えるほど、今の自分には相応しい煙だった。
――ああ、これか。
あいつに怒られたんだよ。そんなに煙ばかり吐いてたら、いつか本当に大切なものまで吐き出しちゃいますよ、てな。
SS
Index