鯉に恋する5秒前

 

 

 

 公園の遊歩道、その途中にある池には立派な鯉が棲んでいる。
 俺はぼんやりとそいつらにエサをやりながら、愛するものたちの来訪を待ち焦がれている。百円のエサ袋を手にした俺に向けて、一所懸命口をぱくぱくさせるこいつらのように。別にそんなにがっついては無いがな。
 …………。
 ごめん嘘。
「そーれ」


 ぱらぱら。


 水面に、と言うより曇った空に向けて崩れせんべいみたいなものを放る。全然正体が分からん。こんなのをエサにしてるからこんなに巨大化したんじゃないかと思う。一昔前の人面魚騒動も、きっと鹿せんべいとかそれっぽいものを与え続けたせいに違いないぞ。全く、モラルハザードもここまで来ると政府の毅然とした対応が求められるな。今ちょっと格好良いこと言った。
 ……あれ、人面魚って四国じゃなかったっけ。知らんが。
 まあいいや。
「ほーら」
 ちょっと気分がノって来た俺は、朱墨の塗りたくられた古めかしい橋の上から、無駄に点描なんぞを散りばめながら、綺麗な弧を描くようにエサを放る。若干見当外れな着水したせんべいカスを、一心不乱に粗食する鯉鯉鯉。……ふ、所詮は淡水魚よのう。たかがせんべいに命を懸けるとは、浅ましいったらありゃしない。何となくルイ16世になった気分だぜ。「パンがなかったらせんべいを食べればいいじゃない」。おお、綺麗にはまっている。というか杏が言いそうな台詞だなそれ。
 ……あ、その前にルイ16世じゃなかったっけか。いや知らんけど。
 まあいいや。
「あはははー」
 アホ毛でも生やしそうな勢いで回転しつつ、池のみならず地表をもせんべい塗れにしていく俺。馬鹿だな。春原のことは言えんなあ全く。まあ好きでやってるからいいのだが。
 もっとダメじゃん。
「……この魚類め! 俺の前にひれ伏すがいい!」
 俺の中で何かが音を立てて切れ、次の瞬間にはホワイトソックスの投手もかくやという速度の剛速エサを水面に叩き込む!
 おおっ、鯉の野郎どもが物の見事に慌てふためいてやがる。ふふふ、人間様を馬鹿にしやがるからだ、これに懲りたら人の前で口をぱくぱくさせるのは控えることだな!


 ばしゃばしゃばしゃしゃしゃ……


 そんな、熱き猛る思いを胸に秘めつつ、未だに口をぱくぱくさせる無数の真鯉どもに高らかと宣言する。エサはもう空だった。
「……飽きた」
「何してるんですか……?」
 背後から声。
「――二塁牽制!」
 しかし球は無くなっていた。無念、牽制悪送球か……。
 投球動作のまま、がっくりと肩を落とす俺。ちなみに年俸は安いぞ。巨人の二軍選手より。
「岡崎さん……。ついに、頭が……」
「いや、そういう訳じゃないですから、いやほんとハンカチを目に当てるのはやめてください」
 こっちが泣きそうだ。
 まあ、彼女に誤解させるようなことをしてしまった俺の責任なのだが。
 それ以前に、一連の行動を見られたら誰だって可哀想な目を向けるだろう。みんなそうする。俺だってそうする。いやだって暇だったんだから仕方なかんべよ。どこの方言だ。
 ともあれ、早いとこ公子さんの誤解を解かないとな。
「は、はぁ……。私、てっきり岡崎さんが、その……」
「その先は言わないでくだ」
「解雇されたものとばかり……」
 よよよ、と目頭を押さえる公子さん。
 ……あいたた。
 鯉のエサ食った訳でもないのに、お腹が痛いぞ。頭も痛いぞ。
「いえ、あの、俺、こんなでも一応真面目に仕事してますしー」
 俺は、きちんと笑えているだろうか。自信ねえ。
「そ、そうですよね……。すみません、変なこと言っちゃって……」
 ははは、とその場は笑っておいたが、なかなか洒落にならないこと言うなあとは思いました。怖え。俺が内心最も怖れていることをさらりと口にするとは。やっぱり人妻は強いよね。なんか意味違う気もするけど。
「ところで、岡崎さんはここで何を……」
「あ、今日は休みなんですけどね。まあ、恥ずかしい話、嫁と子どもに家を追い出されたというか……」
「あらまあ」
「家を掃除するから、先に外行っててくださいというか」
「まあ」
「それでいて二時間待っても現れる気配すらないというか……」
「あら」
「逃げられた可能性が高いというか……」
 ……。
「沈黙すんのやめてください」
「そ、そうですねっ」
 何その「いつかこうなると思ってました」みたいな目の泳ぎ方。
 俺、それなりに頑張ってたつもりなんだけどなあ。たまにこういうことするけど。
 それがダメなのか。そうなのか。
 ……くっ、オッサンは好きなだけやっているというのに。あ奴に許されて、俺に許されないはずがないではないか。
 まあでも過ちを繰り返すと相談相手が去ってしまうし、ついでに見た感じ警察のようなものを連れて来る可能性が非常に高いため、滅多なことは出来ないまな板の上の鯉的な俺。
 惨め。
 自業自得だがな!
「……ああ笑えない……」
「そ、そうですね」
 そこは同意しないでください。
 優しさが人を傷付ける、そんな時もある。
 まあそれも自以下略。
「公子さんは、ここで何を?」
「あ、いえ。岡崎さんが見えたので、何をしてらっしゃるのかなと思って」
 見れば、余所行きと言うには失礼な話だが少しラフな格好をしている。散歩がてら、知った顔があると言うのでわざわざ足を運んでくれたのだろう。ありがたい話だ。
「見たとおり、鯉にエサをあげています」
「そうですね」
「非常に楽しいです」
「はぁ」
「本当に楽しいです」
「……はぁ」
 ただ、エサが空っぽなのが難点だった。これは即時補給をせねばならない、なぜなら俺のエサを待っている鯉たちが無尽蔵に湧いているのだからな! そうだろ「ばしゃばしゃばしゃしゃしゃ」うるせえ!
「そんな訳で、エサを買って来ます。公子さんはどうしますか?」
「ご遠慮します」
 丁寧にお断りされた。
 程好く可哀想な瞳をされているのが何とも不憫である。俺だよ俺。
 それでも俺の帰りは待ってくれるらしく、橋を離れてからもしばらく鯉の動向を探ったり公園の周りを窺ったりなどしていた。きっと渚や汐の出現を待ち焦がれているのだろう、まあ俺がこんなふうだから仕様がないか。俺だからな。俺じゃあ仕方ないな。
 ……。
「鯉のエサください」
「あんちゃんも大変だねえ」
 同情するならエサをくれ。
 ありがとうございました。
 とぼとぼとその場を去る。同情の視線をあちこちから受ける。だから同情するなら愛をくれと。
「お待たせしました」
「いえ、岡崎さんほど待ってはいませんから」
 本当ですよねっ。
 天然のナイフをありがとう。なんか愛想笑いすんのも疲れて来たよ俺。
「……そーれ」
 覇気に欠けた声で、鯉たちにエサを放る。


 ばしゃしゃしゃしゃ……。


「元気ですね」
「鯉にもてても仕方ないんですけどね」
「そんなことないですよっ」
「エサで釣ってるようなもんですし。援助交際ですよ。鯉に恋をするなんて、笑えない冗談を言っては鯉のご機嫌を窺うせっこい男なんですよーだ……」


 ばしゃしゃしゃしゃ……。


 なんでお前らそんなに元気なんだ……。
 少しは疲れろよ……。
「そんなことはありませんっ。きっと、鯉だって岡崎さんの魅力にメロメロなはずです」
「……公子さん」
「あ、はい?」
 腕を胸の前で組んでいる公子さんは、不思議そうに小首を傾げている。
 早苗さんほどではないにせよ、この人も大概童顔だよなあ。
「今、公子さんが風子のお姉さんなんだって初めて実感しました」
「……はあ、それはどうもありがとうございます」
 頭を下げられてしまった。
 俺は公子さんにエサをあげる。
「あの、これは」
「鯉のエサです」
 それは知ってます、と言おうとして口を噤む公子さんがちょっと可愛いと思う。別にこれは浮気ではない。仔犬や仔猫、あるいはぬいぐるみが愛らしいと思うのと同義であり、ひいては渚がだんご大家族を愛でるのと似た感情なのである。うむ。
 戸惑いながらも、公子さんはエサを受け取る。
「あの……」
「彼らにエサをやってください」
「あ、でも」
「いいんです。彼らも、俺よりは公子さんのような綺麗な人にエサをねだりたいでしょうから」
「……いいんですか?」
 俺は、しっかりと頷いた。
 まあ、百円だし。
 公子さんと話せて、若干傷付きながらも暇は潰せたのだから、これくらいの感謝の意は表すべきだろう。うん。だからこれは浮気ではない。
 袋からせんべいかすのような丸い物体を掴み、ひとつひとつをひょいひょいと気前良く投げ込む公子さん。俺は彼女と鯉とばしゃばしゃ揺れる水面の様子を見比べながら、やっぱり小動物と戯れている(かどうかは不明だが)公子さんは活き活きしてるなあ、と風子に絡む公子さんを思い浮かべてみるのだった。
「あ、元気すぎというか、きゃっ! 水しぶきが凄いですね、ほんとに……」
 微笑ましい。
 あまりに微笑ましくて、橋の向こうにいる渚と汐の存在も忘れて顔を綻ばせていた始末だ。
「……」
「……」
「ぱぱー」
「あ、渚ちゃん」


 ぱしゃばしゃばしゃしゃしゃ。
 とさっ。


 凍り付いた渚の手からエサが落ちる。
 あ、買ってたのね。
「……朋也くん」
「渚。愛してる」
 誤魔化した。
 なかなかの開き直りっぷりに、我ながら惚れてしまいそうだ。
 トリガーを引いた公子さんは、本人にその自覚がないせいかぷるぷる震える渚を見てぽかんとしている。汐も似たようなものであるが、こっちは多少なりとも事情を察しているようで。
「ぱぱー、うわきものー」
 無邪気に言うしな。
 きっと意味分かってないに違いない。そう思いたい。
「汐。男ってのはな、恋をすると馬鹿になるんだぜ」
 アンニュイに笑ってみた。
 ところでアンニュイってどういう意味だろう。
「と……。朋也くんは……」
 やばい、渚が限界ぎりぎりだ。瞳に涙が溜まっている。
 俺も慌てて駆け寄るが、あとちょっと遅かったらしい。
「ちょ、なぎ」


「わたしより鯉の方が好きだったんですねーーーーーー!!」


 そっちかよ!
 ほれ見ろ公子さんも唖然としてるじゃないか!
 俺たちに背中を見せて駆け出そうとした瞬間、自分の間違いに気付いたのか、涙を拭いながら改めてこっちを向いた。
「いや、セットし直すくらい冷静なら話し合いの余地とか」


「朋也くんは鯉より伊吹先生の方が好きだったんですねーーーーーー!!」


 違えよ! じゃなくてそうなんだけど、ああ訂正が面倒くせえ!
 今度は渚も訂正せずに駆け出したので、俺も根性を入れて思い切り走り出す。
「すんません公子さん、汐お願いします!」
「あ、ちょっと――」
「ぱぱがんばってー」
 おう、ぱぱは頑張るぞ汐ー!
 とか言ってるうちに、渚の背中は米粒みたいになってしまったっていうか速えよおまえの一族!
 ああ、自分で言ったことだけど、恋をすると馬鹿になるって本当だったんだな……。
 ……え、元から馬鹿だったんじゃないかって?
 ははははははは。
 ……。

 


 ちなみに、渚は別の場所で鯉にエサやってました。
 鯉のエサ、二千円くらい払わされました。
 おまえの方こそ、俺より鯉の方が好きなんじゃないかと小一時間以下略。

 

 

 



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2005年10月23日 藤村流

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