あなたの夢を叶えましょう
幸せな時間、と呼んでいいものかどうか微妙なところだが、俺は放課後の空き教室でことみとつっこんだりつっこまれたりしていた。
――はい。真っ先にえろいこと考えた人は手を挙げて。
何のことはない。俺とことみにとっては当たり前になってしまった日常のひとつが繰り広げられているだけだ。
それは、漫才。ボケとツッコミが織り成す化学反応は、倦怠期に陥った熟年夫婦のやるせなささえ分解する。
だが、俺とことみのそれが夫婦漫才と呼べるかどうかは、戸籍と技術の面でかなりの問題があった。
具体例を挙げてみよう。
それはもう、とてつもなく絶妙な掛け合いが毎日演じられている。
「いやー、最近は暑いですねー」
「ほんまですねー」
「今がこんなに暑いんだったら、冬はどのくらい暑くなるんでしょーかー?」
「そうですねー」
「……違うだろ」
「……あ、『あつはなつい』じゃなくて『なつはあつい』やないけー」
「そっちじゃないし」
「なんでやねん」
「遅いし」
「もうキミとはやってられまへんわー」
「それ、どっちかっていうと俺の台詞だからさ」
「……いじめっこ?」
「違う違う」
絶妙というか微妙な感じだった。
……なんでか知らんが、放課後にことみのツッコミを指導するのが俺の日課になっていた。それもこれも杏の奴が妙な入れ知恵をするからである。まあ、俺が初めに夫婦漫才うんぬんとか口走ったのも問題だったのだが。
その杏は、どことなくやる気なさげに俺らを眺めている。パイプ椅子に腰掛けて両腕と両足を組み、顎に手を添えたりしてるあたり大物プロデューサーに見えなくもない。
「……何かしらねー」
自分に言い聞かせるようにぽつりと呟く。
「あんたたちに足りないものって、一体何なのかしら……」
「おまえがそこまで思い悩む必要もないけどな」
俺の貴重な進言は綺麗に無視して、杏が思いついたように顔を上げる。
「……決めたわ」
「何を」
俺たちの去就だろうか。その予想は当たらずとも遠からじだったのだが、あんまり嬉しくない。
「これ以上ことみのツッコミを鍛えても今より伸びるとは思えない……。それよりも、ことみにはもっと相応しい芸風があるはずよ」
「いや、初めから芸人じゃないし」
「なんでやねん」
「芸人なのかよっ!」
手の甲がことみの肩を襲撃する。まさに瞬殺。
……今のツッコミはかなり秀逸だと思うが。あるいはシュールか。
しかし、杏は嘲笑を浮かべるだけだった。いつの間にか掛けていた縁なしメガネの位置を直す。
……ごめん、メガネの意味が全くわからん。
「まさか、今のツッコミで世界が獲れるとでも……?」
なかなか手厳しい。というか、世界に輸出するつもりだったのか。
「甘い、甘すぎるわ。そんなことで、世界を笑いの渦に巻き込むことは出来ないのよ……」
言って、この世の終わりみたいな意気消沈っぷりで唇を噛む。
……杏、おまえは一体何になりたいんだ。
「そういう訳で、ことみには世界に通じる笑いを目指してもらいたいのよ」
「うん。がんばる」
決意を新たにすることみ。おまえもなのか。
「言葉じゃなく、苛めじゃなく、全てに共通する笑いの根本とは……」
ぐ、と右手を握り締める。その拳が小刻みに震えているところを見ると、ことみに掛けている情熱が並々ならぬものであることは容易に感じ取れた。
同時に、おまえは確か保母さんを目指してたんじゃなかったんかい、とか思ったりする。
そんな俺の現実的な老婆心を知る由もない杏は、メガネをずらしてまで笑いの根源とやらを口にした。
「それは――」
ぐっ、ともう一度拳に力を込める。
「――熱湯風呂よ」
杏の燃えるような眼差しに、ちょっと引く。
……ことみ、ここはわかってるよな。
訴えかけるような俺の視線に気付き、ことみは慌てて手をぽんっと叩く。
「な……なるほどなの」
「納得すんのかよっ!」
俺がつっこんでしまった。
天然さんは扱いづらくてタイヘンだなあ、と本気で思いました。
朋也はツッコミ向きよねーというありがたくもない評価を頂いた俺と、杏の最終ツッコミ判定試験(熱湯風呂に対するツッコミが間に合わなかったところ)で不合格の烙印を押されてしまったことみは、杏の言われるがままに中庭の噴水地点へと連行された。
そこにあったのは、テレビで見たまんまの透明かつ巨大な、ご丁寧に階段まで付いている水槽だった。ほのかに湯気が立ち昇っているところを見ると、水温はかなり高いところを推移しているらしい。
ことみは水槽から目を離せない。俺だって似たようなもんだが、それでもこのトリックを仕掛けた人物に話を聞かないことには始まらないだろう。
「……なあ。藤林でいうところの、杏」
「なに? 岡崎でいうところの、朋也」
「なぜここにこんなものがある……」
というか、熱湯風呂のくだりはことみのツッコミを誘うためのフリというやつではなかったのか。
放課後でそんなに人がいないとはいえ、生徒会や教師に黙ってよくここまでセッティングしたもんだ。いや、もしかしたら生徒会に内通者がいるのかもしれない。暇人め。
「これね、うちの生物部が近年まれに見る巨大生物を飼育してた頃の名残よ。どうせ誰も使わないんだし、ちょっと借りてきたの」
「……一応聞いておくが、その生き物は」
「運が良ければもうすぐ国会議事堂に巣をはると思うわ」
飼うなよ生物部。
しかももうすぐ変態するって、かなりでかい状態まで育ててたってことかよ……。エサはどうしてたんだよ……。
つーか、俺もそこまで反応してるんじゃねえよ……。
なんか知らんが、ことみまでパニックを起こしてるし……。
「大変なの……。ニューヨークから松井を連れ戻さないと!」
「いや、そっちのゴジラじゃないし、むしろその映画じゃゴジラは敵キャラだったような……」
「至急、メッツのGMに連絡を」
「って稼頭央の方かよっ!」
「よくわかったわね……」
杏は素直に感心している。
ちなみに、ニューヨークヤンキースの方が松井秀喜(通称『ゴジラ』)で、ニューヨークメッツの方が松井稼頭央(通称『リトル松井』)なのだ。
……それにしても、俺が野球に詳しくなかったからどうすんだ。コアなネタには、往々にして理解されるかどうかの危険が付きまとうというのに。そこんとこ、ことみもまだまだ甘いよなあ。
……いや、芸人じゃないんだから詰めが甘くても全然構わないんだが。そのぶん俺がフォローするしさ。
「とにかく、そっちの路線はやめた方がいいかも」
「残念、なの」
肩を落として項垂れることみ。呼べたら呼んでたのか。
もっともそうに言ってるから勘違いしそうだが、そもそもネタの一環である。ことみはネタなのか本気なのか若干あいまいだが。
「それじゃ、私のバイオリンで幼虫を宥めてあげるの」
「よけい巨大化しそうだが……」
「ついに放射能汚染を超えたわね」
ささいな冗談が肥大化して収拾がつかなくなる、それもことみの天然放射線。
それはそれで恐ろしいことこの上ないのだが、当面の疑問は氷解せずにまだ残っている。
「あれ、本気で熱湯なのか?」
当然と言いたげに、わざわざ無い胸を張る杏。世間ではナイチチと認定されているそうだが、僕はそう思わないよと訴えていた春原は真昼の月になった。
ちなみに縁なしメガネはまだ装着している。おまえが掛けても猫かぶってるようにしか見えないんだけどな。
「本気も本気よ。テレビなんかじゃ素人を考慮して水温をわざと下げてたみたいだけど、それってヤラセだからね。あたしはそんなこと許さない」
「何を根拠に……。許さないって言っても、どうすることもできんだろ」
「毎週苦情のハガキ送ってたから、たぶん大丈夫よ」
それは嫌がらせだ。
会話に入ってこないことみに目をやると、気付かぬうちに例の水槽へと近付いていた。瞳を輝かせて、すげえ興味を示している。
しかし、こいつは知っているのだろうか。この熱湯風呂こそが、数々の伝説を生んだその裏で幾多の夢を打ち砕いてきた地獄の試練だということを……!
ぶっちゃけ、俺はぽろりを期待する。
がんばれ。
「……なんかヘンなこと考えてない?」
「ぎくり」
「口で言うし」
「しかしまあ、ことみがやりたいって言うんなら俺に止める権利はないしなあ」
「朋也くん、鼻の下が伸びてるの」
鋭すぎる指摘だった。
俺自身、鼻の下伸ばしの世界新記録を更新した感触があるくらいだ。
「だけど、流石に火傷するレベルはまずいだろ」
自分の背丈と同じぐらいある水槽の前に立ち、その外面に触れる。ほのかな温もりこそ感じるが、いろいろと加工されているせいか実際の水温は把握しがたい。
かといって、階段に上って水面に手を付けようとすれば……。
杏の方を振り返る。彼女の態度はさっきと変化がないように見えるが、いつ俺を陥れようかと腹の底で企んでいることは疑いのない事実だ。間違っても、奴に背を向けるようなことがあってはならないのである。
そんな訳なので。
「……来ねえかな、春原」
「おぉーい、岡崎ぃぃぃ――っ!!」
……バカ、カットイン。
そして、勇者降臨。
「なぁにしてんだよぉぉぉ――っ!」
いつもの10割増しで近寄りがたかった。
もしかして、杏とことみがいる影響だろうか。女と縁がない春原が女性フェロモンを察知すると、理想と現実が共鳴しあって時空の歪みを生んでしまうとか。
「すげえなおまえ……」
「何がだよ?」
「恥ずかしげもなく大声出してるところ」
杏が冷たく言い放つ。
ことみは春原の姿を、密林の奥深くにしか存在しない珍妙なクモを見るような目でまじまじと観察している。懐からメモ帳を取り出しそうな勢いである。
と、春原がことみを視界に捉える。
「ん……? その子、たしか……」
目をこすり、ことみの顔を凝視する。そういや、一応面識だけはあるんだっけか。ここらでちゃんと紹介するのもいいかも知れない。
「そうだ。チャンスをピンチに変える女、座礁したツッコミ機雷こと一ノ瀬ことみだ」
「……だれ?」
当のことみが問いかけてきた。この異名はちょっと気に入らないとみえる。
「それじゃあ、新進気鋭の超音波アーティスト・一ノ瀬ことみで」
「それはいいわねっ」
杏が同意する。意味もなく、俺たちはハイタッチした。
「良くないの……」
ことみは泣きそうだった。
俺が優しく宥めている間に、春原は巨大な水槽をまじまじと眺めていた。普段は生徒たちで賑わう中庭にこんな場違いなケースがあれば、誰だって不審に思うだろう。
「これ、テレビでやってたやつだよね」
「そうだ。そこで、おまえに頼みがある」
「……なにさ。とてつもなく嫌な予感がするけど」
「おまえの芸人の資質を問うために、今からこの熱湯に入ってもらいたい」
「嫌だよっ!」
全力で否定された。
しかし俺も必死に食い下がる。
「そんなこと言わずにさ。ここで入れば春原陽平の株が一気に上がるぜ?」
「……本当に?」
「ああ。一銭ぐらい」
「安っ!」
「でも100回やれば10円になるし」
「一回で死ぬよっ!」
「おまえも芸人になりたいんだろ? 熱湯風呂はリアクション芸人の登竜門じゃないか」
「上島の竜ちゃんが良い例なの」
「なりたくないよっ! ていうか、僕にはリアクション芸人の道しか残されてないのかっ!?」
「何をわかりきったことを……」
「身の程を知りなさいよね」
「取り柄があるのは良いことなの」
ことみのフォローも絶妙だった。
だが、これでも春原は『なんでやねん』を体現したような表情で佇んでいる。
「ちょっとさ……。きみ、初対面なのに随分な言いようだよねえ」
戦力差を考えて、俺と杏ではなく人畜無害そうなことみに詰め寄る。杏が割って入ろうとするも、一歩遅い。
「一ノ瀬って、いつも学年トップなんだよなぁ。だから僕みたいな下の人間はヨゴレの芸人になれ、と」
「??」
「そして、僕とのユニットを解消した岡崎とコンビを組むつもりなんだなっ!」
くわっ! と目を見開く春原。ユニットってなんだ。
「違うの。そういう意味ではなくて」
異様な春原に対し、ぶんぶんと思い切り首を振ることみ。
「適材適所という言葉に従えば、あなたは運命の導くままに熱湯風呂へと入水するべきであり」
説明が宗教勧誘くさかった。
「だからさ、僕の性格知らないでしょ」
「朋也くんの話を聞いた限りでは、それ以外の道はすべからく閉ざされていると言っても過言ではないと」
「おまえのせいかよっ!」
「おまえのせいだろ」
「あなたのせいなの?」
「あんたのせいね」
「違うよっ!」
なすりつけ失敗。ここはことみにならって論理的にいこう。
「だっておまえがヨゴレ芸人としか思えない行動を取るもんだから仕方ないじゃん」
「そういう星のもとに生まれたと考えれば、あるいは救いがあるかもしれないの」
「ヨゴレ芸人でよかったじゃない。これでヘタレ芸人とかだったら親に顔向けできないしー」
「そんな行動してないよ! あとそういう星ってどんな星だよ!? それにヘタレ芸人って意味わかんないよ!
ていうかつっこみどころ多すぎるだろ!」
多数決で潰れかかっていた。俺と杏はともかく、ことみは真剣に助言しているつもりなので悪しからず。
「く……くそっ! わかったよ、それならやってやろうじゃないか!」
今のやり取りのどこでスイッチが入ったのか不明だが、春原は俄然やる気になっていた。ここで勇気ある潜水(30秒)を見事完遂し、みっともないいじられキャラの汚名返上という考えなのだろう。
たぶん無理だが。
「見てろよ、一世一代のリアクション芸ってやつを思い知らせてやるからなっ! そうすれば将来は安定なんだろ!?」
「すげえ不安定だ」
「年齢を重ねると身体が限界を訴えてくるの」
「子どもも苛められるしねー」
「ぐあぁーっ! みんなして画鋲踏んで靴の底に違和感感じてろーっ!」
微妙に嫌な捨て台詞だった。
一足飛びで駆け上がり、途中で制服を脱いでいきながら、何の躊躇いもなく飛び込む春原。脱ぐなよ。
とにかく、その勇姿しかと目に焼き付けたぞ。フィルムに収めればほぼ永久的に焼き付けられたのだが、準備が出来ていなかったのは残念だ。
たとえ、報われることがないとしても。俺たちは、春原という英雄がいたことを決して忘れない。
――ぎ。
「ぎぎ」
「どうしたの?」
「いや、なんとなく」
――ぎゃあああああぁぁぁぁぁ……っ!!
煉獄の最深部から鳴動してくるかのような絶叫も、水中なので音は響いてこないのであった。残念。
がぽがぽとお湯をかき分け、どうにかこうにか水槽の縁に手を掛ける。
「ぷはぁっ! ぎぃえええええぇぇぇぇぇ……」
どっかの惑星からやってきた宇宙生物(仮にエックスと呼ぶ)を彷彿とさせる悲鳴を上げて地面に転げ落ちる。そのままうまい具合に噴水の壁に激突し、恥骨をぶつけてもんどり打っていた。つくづくヨゴレた笑いの神に愛された男である。
トランクス一丁という見るも無残な格好でもだえ苦しむ春原。ことみと杏は既に撤退している。
「……あ、あ、あつ……つっ!」
「落ち着け春原! プールが開放されてるからそこで熱を冷ますんだ!」
「おぅ……!」
奴の目に血の涙が見えたのは錯覚ではないだろう。地を駆け、水を撒きちらし、湯気を上げながら春原はオアシスへと疾走する。プールに飛び込むよりも水道を使った方が早いということには気付かないらしい。
「まあ、今は女子水泳部が貸し切ってるけどな」
「あんたも悪どいわね……」
止めなかったおまえも同罪だ。
「……で、どうするの?」
杏の目がことみを捉える。その瞳が訴えかけるのは、ことみがこれから生きる道。
今までどおり掘り出されることのない伝説のツッコミ師として鍛えられていくか、一転して女ピン芸人の道を歩むか、それとも超音波破壊兵器と化したバイオリンを抱えて戦場を行く女コマンドーになるか。
……俺としては、ふつーに生きていてほしい。
「今の惨劇を見て、それでも自分の芸風を変えられる自信はある?」
だから芸人じゃないってー。
「……それは」
おまえはまずそこを否定しような。
「やってみなくちゃ、始まらないの」
なぜか、その目に迷いはなかった。あるのは、輝かしい未来に辿り着くための一歩を踏み出した、挑戦者の眼差し。
そんな尊い意思を目の前にして、俺は一体どんな言葉を掛けられるというのだろう――。
「いやいやいや」
俺まで雰囲気に呑まれてどうする。
手をぱたぱたと振って、杏とことみの間に介入する。途端、二人を包んでいた独特の緊張感が霧散する。ある意味、ひと一人の人生さえ左右しかねないとんでもない結界であった。
「死ぬって。あれはマジ死ぬ。春原だから死ななかったものの、春原じゃないことみはもう一網打尽だ。やめといた方がいい。というかやめろ。つーかおまえらどうしてそんな真剣なんだ……?」
それが一番の謎だった。
しかし、俺の叫びは届かない。もう心を決めてしまった彼女たちに、俺の自己中心的な祈りは通じない。
夢に向かって駆け出した背中を追うためには、俺の足は遅すぎた。
「……ごめんね、朋也くん」
とても悲しそうに、大事なものを大事とわかっているのに、それをあえて突き放すような手付きで、ことみは俺の身体を押した。
あと少し早ければ、もっと早くにことみに出会って、至高のツッコミを伝授していれば。
もしかして、こんな道を選ばずにすんだかもしれないのに――。
……って、俺もことみを芸人にさせたいみたいじゃねえかよっ!
「こと――」
焦って手を伸ばすも、杏が俺の介入を許さない。指が食い込むくらい強く肩を掴まれる。
「――っ、杏……!」
「あんたは黙って見てなさい。あの子はもう走り出した。あんたひとりが独占していい存在じゃないし、あたしの手からも離れてしまったわ。……あのとき、あたしの問いかけに頷いた瞬間から」
「飛び立つの早いな」
「そんな訳で、ことみの根性がどれぐらいあるか試してみましょう」
「それが目的かい」
「ちなみに、あの子があんたのことをどれぐらい好きかという試練でもあるからね」
ちなむな、そんなもの。
「ったく……!」
「きゃっ!」
渾身の力を持って杏の手を振り解く。悪いとは思うが、こっちにも譲れないものがあるのだ。
俺が好きと言った、俺を好きと言ってくれた人をみすみすヘンな道に進ませることだけは、どうしても出来ない。
杏が何をさせたいのかも今ならわかる。あいつはことみの根性を試すといったが、本当は俺の甲斐性を計るつもりなのだ。ここでことみを止めないような男なら、元より先はないと。
――なら、乗ってやろう。
「ことみぃっ!」
一気に階段を駆け上がり、何やら覚悟を決めていることみに向かって叫ぶ。
「……だめ、朋也く――」
またもや拒絶しようとすることみの手をかいくぐり、俺はその手を引き寄せていた。ぐるりとお互いの位置が逆転する。
「――ぁ――」
すれ違った時に見た彼女の顔は、驚きよりも嬉しさの方が大きかったような気がする。それはあくまで俺の主観でしかないし、俺は俺でこれから何が起きるかを受け止めなければならないから、正確なことは何一つとしてわからない。
位置が変われば、俺自身が止まらない限り水槽に落ちることになる。しかし慣性の力は思った以上に強く、このままなるようにしかならないというのが俺の結論だった。
「――――っ、――――!」
ことみが何か叫んでいる。その声は俺に届かない。でもまあ、いいや。
聞こえないのは隔たりがあるからじゃない。想いが強すぎるからなんだ、と現実逃避ぎみに考える。
――だからさ、ことみ。
俺が言いたかったのはこういうことだ。
どちらかが、そんな辛い顔をするくらいなら。
別にこんなこと、しなくてもいいんだって――。
言いたかったけど、最後のツッコミは間に合わなかったな……。
……つーか、俺と春原って同レベルの笑いの神に愛されてんのな……。
刹那の感傷を抱いた時には、俺は熱湯と呼ぶべくして炊かれた風呂の中に飛び込んでいた。
「ぐあああああぁぁぁぁぁっ! あっ、あつ! あつっ!」
「落ち着いて朋也! プールが開放されてるからそこで熱を冷ますのよ!」
「おぅ! ってそれ俺がやったー!」
「ちっ」
「『ちっ』てなんだー! つーか熱い! あつ!」
「朋也くん、これを被って!」
「あぁ! ってこれ熱湯風呂のお湯だから熱湯じゃん!」
「……あんたたちテンポいいわね。やっぱり漫才で推してくべきかしら……」
「おねがいします」
「後でやれぇーっ!」
今日も世界に笑いが満ちる。こんな世界もありかもしれない。
だとしても。
――芸人にはならんでおこう。
と、俺は固く心に誓った。
−幕−
・第二期CLANNADSS祭り第2回、テーマ「お風呂」への投稿作品二作目。
完全ギャグになってるか微妙な出来。
SS
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