篠塚家の生活 1.メロドラマ

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 ドラマのような恋がしたい、と祐子は言った。
 妹が無茶を言うのはいつものことである。あまり気にしないことにする。
「人の話をー」
「はいはい、適当にパン咥えて走り出したり、痴漢と間違えて関係ない人を捕まえたり、容疑者に恋したりすればいいだろ」
「なにそのアホ設定。膿んでるのは頭だけにしてよ」
 祐子にしては難しい言葉を使う。俺は少年ジャンプをめくる手を止め、対面に腰掛ける妹を一瞥する。
 妹だけあってよく似ている。そういうものだ、気持ち悪い。
「はいはい、膿んでる膿んでる」
「……自覚があるのは良いことだけど、そんなに卑下しなくても。気持ち悪い」
「さいですか」
 考え方もよく似ている。奇妙なものだ。
 何となく話をはぐらかされていることに気付いたのか、祐子は慌てて本題に戻る。ジャンプもコーラも取り上げられてしまった。非常に喉が渇く。
「で、その気持ちの悪い兄に恋愛のいろはを聞いてどうするつもりだ。退化する気か」
「しないよバカ。そうじゃなくて、私はこれでも彼氏がいる訳じゃない? 祐介と違って」
「そうだな。俺に彼氏がいたら、貴様は今頃世間に顔向けできない生き方をせねばなるまい」
「へいへい、その節はどうもありがとうございました」
 心のこもっていない礼を述べられた。
 特に謝礼が欲しかったのでもないため、コタツに両手を突っ込みながら妹に問う。
「彼氏ってーと、あれか。あの売れない芸人みたいな冷凍マグロをほうふつとさせる濁った眼の」
「そうよ」
 言い切った。
 実に男らしい女である。他人事ながら、その冷凍マグロには同情を禁じ得ない。
 コタツの中でごそごそと足を動かしながら、妹は気持ち悪そうに顔をしかめる。さっきから何か脛やくるぶしにごつごつ当たると思ったら、さほど愛してもいない妹のおみ足だったらしい。狭い家というのはこれだから困る。
「そのマグロ君がね、どうにも淡白でいけないんだわ。手は繋がないわ肩は触らないわ、荷物は持たないわキスはしないわで」
「そりゃ、近付いたら感染するからじゃねえのか」
「祐介じゃないんだから」
 酷い言われようであるが、かくいう俺もどこから菌をもらっているか分からない。
 恋人らしき存在はいないけれど、気を付けるに越したことはない。さしあたっては、献血を控えることから始めよう。
「分からんな。それのどこが不満なんだ。自分からくっつけばいいんじゃないのか、なあ保菌者」
「黙れ童貞」
「貴様は今踏み込んではならない領域を侵した」
 だからといって、何をするでもないのが俺の偉いところである。
 祐子が眠っている時に鼻をつまんだりする程度だ。部屋の鍵など瑣末な問題である。
「言っとくけど、今度私の部屋に入ってきたら法的措置も辞さない構えだからね」
「安心しろ。証拠は残さん」
「今のもちゃんと録音してあるから」
 抜け目のない妹である。よくよく観察すれば、本棚と花瓶の隙間に何か光るものが見える。
 というか、社会的に抹殺されるのは俺だとしても、今の会話を公開されて恥をかくのは祐子の方なんじゃないかと思う。
「まあ、クールなのは冷凍だから仕方ないよな。天日で解凍しろ」
「もういいかげん、サバ科の大形回遊魚からは脱却しようよ」
「お前が言い出したことだろう」
「あんただよバカ」
 はぐらかされた。
 それはともかく、踵で膝の皿の下を狙うのはやめて頂きたい痛いし。顔は笑っているから余計不気味である、と思っていることが顔に出てまた十字靭帯を蹴撃される俺の愚かさよ。
「サバは、光り物だろう」
「そうだね」
「だが、本マグロは光り物とは呼ばれない」
「そうだね」
「それが何だって言うんだ!」
「知らないわよ!」
 ごもっとも。
 ところで俺たちは何の話をしていたのだろう。誰か教えて欲しい。
 それもこれも、誰か冷凍マグロがとか感染者がとか言うから悪いのだ。誰だそんなこと言った奴は。
「はぁ……。祐介と話してると、自分がバカになった気がするわ」
「お前もバカだからこれ以上はバカにならんぞ」
「はいはい、バカは少し黙っててね」
 黙らされた。
 ついでに可哀想な目で見られた。妹から受ける類の眼差しではないな、と自分でも思う。
 自業自得だが。
「話を戻すと、私の彼氏のことね。別に浮気してるってんじゃなさそうだけど、あんまりいちゃいちゃしてくれない。それはなぜかってこと。分かった?」
「流石の俺も、数分前の話を忘れるほど脳が膿んでいる訳じゃないぞ」
「あ、耳から小脳が漏れてるわよ」
「マジか!」
「信じるなよ」
 迂闊にも、耳の穴に小指を突っ込んで栓をしてしまった。ノリが良すぎるのも考え物である。下手すると、馬鹿の真性だという烙印を押されてしまいかねない。
 もう遅いかも知れんが、まあ別にいいか。
「しかし、浮気してるんじゃないってことは、もうお前のことが大嫌いなんだろうな」
「まだ付き合って一ヶ月だよ」
「お前は、鉄の熱伝導率の高さを知らないからそんなことが言えるんだ」
「鉄は関係ない」
「まあ、人間ってのは飽きっぽい生き物だから仕方ないんじゃね?」
「なんでいきなりフランクになった」
 それは誰にも分からない。
「で、ドラマのような恋がしたいという台詞に戻る訳だな」
「うん、なんでこんなに遠回りしてるんだか分からないけど……」
「俺と会話してるからじゃね?」
「だろうね」
 理解が早くて助かる。
 兄は悲しい。
「ドラマを模倣するなら、試しに死んでみたらどうだ」
「命は大事に」
「確かに、最終回一歩手前のネタではある」
「恋人の兄が死んでもいいよね」
「なに、マグロ君の兄弟が死んでしまうのか。それは香典を持って行かなければならんな。二千円くらいでいいか?」
「生命保険掛けてるんだから、もっと奮発しようよ」
 まるで、俺が不慮の事故で死に至るのを予期しているかのような言い草である。
 妹は恐ろしい。えげつない方法をも辞さないところが特に。
「後は、勤めている会社が潰れるとか」
「まだ勤めてないよ」
「バイト先でもいいし、大学でもいい」
「世も末だね」
「全くだ」
 何の解決にもなっていないが、最後に兄妹の意見がひとつにまとまったから良しとしよう。
 ドラマのような恋愛とは、かくも難しいものか。俺らが困難にしている気もするが、元から難しいに決まっている。
「最後の手段としては、もう別れろ」
「んで、幼なじみとよりを戻すの?」
「よく分かったな」
「でも、幼なじみなんて都合の良い存在はおりませんけど」
「じゃあ俺か」
「冗談は膿んでから言った方が長生きできるよ」
「だから始めから膿んでいると言っている」
「はいはい、腐りかけのバナナバナナ」
 酷い言われようだった。
 悔しいので、妹の脛を蹴り返す。
 数倍にて返された。少年ジャンプの角は異様に痛いものであるというのが、今回の教訓である。
 加えて、結局祐子の恋人はマグロなのか鉄なのか、全く理解できない新生物だということだ。
「お前も、いつマグロと知り合うような機会を得たんだ?」
「捌くよバカ」
「というかマグロになるのはむしろお前の方なんじゃないかとかぐあぁぁぁ!!」
 手始めに、カッターが視界を掠めたのはとても心臓に悪いと心の底から感じ入る、そんな今日この頃だった。


 マグロのような恋がしたい、と祐子は言った。
 もうそういうことでいいんじゃないかと思う。俺は。

 

 



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2006年1月12日 藤村流

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