ぎこちない

 

 

 

 抱き締めたとき、心臓の音は聞こえなかった。
 肌と肌が触れ合って、手をどこに回せばいいか迷った。肩の上から、脇の下から、それとも腰から背中に回せばいいのだろうか。あちこち彷徨った手のひらは、結局、彼女の肩甲骨に触れていた。
 温かさと柔らかさと、ほんの少しの女の匂いを感じながら、これからどうすればいいのか悩んだ。
 ずっと抱き合っていても、それはそれで構わないのだけれど、彼女は一体どう思っているのだろう。彼女の肩に顎を預けて、お互いの顔が見えないものだから、余計なことを考える。でも、耳元に聞こえるかすかな息遣いが、眠りに就こうとする子どもの吐息に聞こえて、ああ、この子はこんなにも気を抜いているんだと、変に安心した。
 薄暗い部屋の中で、裸に近い格好になって、何をすればいいのかわかっているくせに、先に進むことを躊躇っている。臆病者だった。けれども、初めてなのだから、これくらいの猶予は見てほしい。高鳴っている心臓の鼓動は、彼女に届いているのだろうか。それとも、少しばかり荒くなっている私の息遣いが、失笑を誘うくらいに彼女を和ませているのか。だとしたら、それも悪くない。そう思った。
 不意に、私の背中に回っていた彼女の手が、私の肩を押す。
「ちょっと、興奮しすぎ」
 叱咤するように、ほんの少し、身体を引き離す。でも、仕方ない。好きな人と、こんなに近くで触れ合っているのだ。興奮するなという方が無理である。彼女は、所在無げに泳いでいる私の目を見て、くすくすと笑っていた。
「まあ、しょうがないよね。初めてなんだもんね」
「まあ、うん」
 反応に困った。小馬鹿にされているような、諭されているような、不思議な感覚を抱く。しょうがないなあ、と年上ぶった年下の彼女が、いつも以上に可愛く見えた。
 間近にある異性の存在は、私が男であることを強く意識させた。同時に、彼女と私がこんなにも違う存在なのだと、絶望にも似た衝撃を与えてくれた。弾力のある、なめらかなほっぺた。瑞々しい唇。きつく抱き締めたら折れそうな肩、ちょっとだけ張り出た肩甲骨と、見せるのが恥ずかしいと言っていたお腹。
 その全てに触れたいと思う。
 そうして、そうやって、自分と彼女の違いを知って。こんなにも違う彼女に触れ合うことができる、至上の喜びに浸りたかった。
 私は言う。
「キスしたい」
「いいよ」
 彼女は言った。
 慣れないまま、キスをする。
 臆病に、優しく、ぎこちなく、唇と唇を合わせる。強く押しつけて、強いかなと思って勢いを殺す。そうすると、彼女の方から強く押し付けてくる。いつの間にか彼女の手は私の頭を抱えていて、引きずりこむように私の唇を捕らえていた。
 潤いを感じる。水気が濃い。
 唇を()む。水漏れの音がする。顎の舌に唾が滴り、粘膜を貪り合う。なんとなく、汚れているなあ、と思う。それも、彼女がいるなら悪くなかった。嬉しかった。
 口が塞がっているから、必然、鼻息が荒くなる。お互いの呼吸が鼻に触れ、湿り気を帯びる。喉の奥から、くぐもった低い声が聞こえるたび、彼女が興奮していることを知る。
「……は、ぁ……」
 唇が離れ、とろんとした瞳が私の視界に現れる。
「……どう、気持ちよかった?」
 恥ずかしかったけれど、小さく頷く。
 よくできましたとばかりに、彼女は私の髪の毛を撫でる。ぼさぼさで、ろくに揃えたこともない髪の毛でも、彼女の手のひらなら綺麗に整えてくれるような気がした。髪の流れる方向に頭を撫でられていると、物心もついていない子どもの頃のように、心がきゅうと縮こまる。何もかも委ねてしまいたくなる。甘えてみたくなる。
 でも、今はもう子どもじゃない。
 だから、私も彼女を抱き締めよう。抱き締めなければ。
「ん……」
 少し強引に、彼女を抱き締める。
 そのやり方はよくわからなくて、まだまだぎこちない。相変わらず手のひらは居場所を探してもたついているし、肩は接していてもお腹は逃げるように離れている。温かくて、柔らかい彼女の肌をがむしゃらに求める私は、彼女の目にはどういうふうに映っているのだろう。わからない。わからなくてもいいと思う。
「……もう」
 困ったように、ため息を吐く。
 彼女が「いいよ」と受け入れてくれるのなら、私は安心して彼女に触れていられる。
 それが、無性に嬉しかった。
「あったかいね」
 そう言って、彼女が私の髪を撫でた。

 

 

 

 

 乱れたシーツの中に埋もれている私の頬を、年上の彼女は人差し指でおっかなびっくりに突いた。
 払いのけようともせず、寝転んだまま彼女を見上げると、どこか申し訳なさそうに指を離す。目線を外して、気恥ずかしそうに頬を染める彼女は、本当に可愛いと思う。
 安物のベッドに腰掛けて、ぎしぎしと軋ませることもなく静かに部屋の壁を見つめている。わずかに反った背中に、綺麗に伸びた黒髪が流れている。ぼさぼさ髪の私とはまるで違う、美しい髪に触れるたびに、些細なことだけれども私は彼女と繋がっている実感を得る。
 今は、寂しそうにベージュの壁を眺めている彼女を、私もまた穏やかに見つめている。
「ねえ」
 話しかける。少しびくっとした彼女は、おどおどした様子でこちらを見る。
 私はゆっくりと身体を起こし、カーテン越しに差し込む昼間の太陽に目を細める。休日だからといって、真昼間から何をやっているのだろう。時間がないから、あまり会えないから、せめて会える時くらいは好きな人の肌に触れていたいと願うことそのものは、決して間違っていない感情だとは思うのだけど。
 初めての時のことを、たまに思い出す。
 初々しく、愛する人の抱き締め方について考えていた頃のことを。
「こっち、向いて」
「……やだ。見えるし」
「見たいから、見せて」
 我がままを言う。下唇を噛み、羞恥に頬を染める彼女は、これまたゆっくりとこちらに身体を向ける。ベッドに正座するように乗り、突き出た胸を私の視界からずらして。何回も、それこそ数え切れないくらいに抱き締めた彼女でも、なかなか慣れてくれない。
 けれど、それも悪くない。
 だから私は、何度でも彼女を抱き締めたいと思える。
「うん。かわいい」
「……へんたい」
「なんで」
 不満そうに言うと、彼女は無言のまま私の胸をぐーで叩いた。本気じゃないだろうけど、そこそこ響いた。
 その後、自分の裸体が私の前に曝されていることに気付いた彼女は、慌てて身体を逸らそうとする。だけど、私はその隙を逃さなかった。
「ぎゅう」
「あっ」
 彼女を正面に振り向かせて、脇の上からぎゅっと手を回して、ぎゅっと抱き締める。しまった、と口惜しそうに俯く彼女の唇に、すかさず自分のそれを重ねる。
 驚いたような彼女の顔が、強くまぶたの裏に残った。
「ん……」
 唇から、彼女の中まで潜りこむ。求める。
 赤く膨らんだ唇を舐め、舌の先を口の中に滑りこませる。その先にある彼女の舌を絡め取ろうと、必死に逃げ惑う彼女の舌と鬼ごっこをする。
 抱き締めながら、彼女の心臓の音を聞こうとする。けれども、その鼓動が自分ものなのか、彼女のものなのか、その境目を見極めることはできなかった。彼女が興奮していることだけは、鼻先に感じる鼻息から感じることはできるけれど。
 ぴちゃぴちゃと淫らな水音は響き続け、脳を溶かすような舐め合いと、心を撫でるような肌と肌の触れ合いに溺れる。腰に回した手は、こしょこしょと動き彼女の敏感なところをくすぐり、もう片方の手は、彼女の首筋に触れてより強く彼女の唇を押しつけようとする。お腹はぺたんとくっついている。彼女は逃れようと試みる。私はそれを捕まえる。嫌々ながら、彼女は従う。
 そんな触れ合いが、私と彼女の繋がりだった。
「……は、あぁ……」
 唇が離れ、とろんとした瞳が視界に映る。
 恥ずかしいところを見られたと察した彼女は、目を逸らそうとして、それでも逸らし切れなくて、私の目をおずおずと見る。
 また、キスがしたくなった。
 でも、今は。
「うん。やっぱり可愛い」
「うぅ……」
 低く、唸り声をあげる彼女を慰めるように、私は彼女の頭を撫でた。一瞬、びくっと身体を震わせた彼女だったが、その所作は彼女が喜んでいる証拠だ。幼い頃、髪を撫でられたり手を繋いだりといった経験が少なかったから、他人に触れられると拒絶反応にも似た動きをしてしまうらしい。
 私もそうだったから、よくわかる。
 だから、彼女は頭を撫でられるのが好きだ。
「どう、気持ちいい?」
「……卑怯者」
「なんで」
「……きもちいい」
 これでいいんでしょ、と恥ずかしそうに俯く。
 私は満足して、髪の毛の愛撫を再開する。彼女は、本当に気持ちよさそうな吐息をこぼした。
 たまに、私も頭を撫でてほしいと思うことがある。
 けれど、今はもう子どもじゃないから、彼女の髪を撫でていたい。
 そうして、いつか、あの頃の私がしたようなぎこちなさで。
 彼女が私の頭を撫でてくれる日を、そっと祈りながら。
「ん……」
「可愛い」
「うるさいなあ……」
 私は、彼女の髪を撫でている。

 

 

 

 

 



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2008年3月3日 藤村流

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