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 窓の向こうに、雪の中を歩く猫の姿があった。
 家の中で暖を取っていた女の子は、猫を見付けると顔をぱあっと明るくさせて、小走りに猫のところへ駆け寄っていく。
 朝から降り続いた雪は夜になっても止まず、猫の脚が半分埋まるくらいまで積もっていた。毛の長い白猫は、背中に降りかかる雪を払うこともなく、前に進む。その過程で、自分を熱心に見つめている女の子に気付き、ふと脚を止める。
 にゃあ、と鳴く。
 女の子が猫の背中を撫でると、猫の毛に染み込んだ水気が少しずつ無くなっていく。女の子は微笑み、屈み込んで、可能な限り猫の目線に近付こうとする。
 程無くして、猫の鳴き声に気付いたのか、女の子の母親が窓を開ける。女の子も母親の方を向いて、猫の喉を撫でる。猫も気持ちよさそうに喉を鳴らす。だが母親は、切なげに顔を歪めた。外はいやに冷える。ベランダに置いたサンダルにも雪が積もっている。猫は、女の子の横を通り過ぎて、ベランダの下に潜り込んだ。身体をぶるぶると震わせて、ぬくぬくと暖を取っている人間たちのことなど気にしたふうもなく、首の後ろを掻いて、大きな欠伸をする。
 白髪混じりの母親は、猫を追い払うでも、中に招き入れるでもなく、そっと窓から離れた。家の中から、早く閉めなさいと男が告げる。それでも、その後しばらく窓は開いたままだった。
 女の子は、縁の下に潜り込んだ猫を、ずっと眺めていた。
 やがて、窓が閉まり、女の子はしゃがみ込んだまま部屋の中を窺う。大掃除が終わり、汚れがほとんど無くなった綺麗な窓ガラスに人差し指を当て、曇り始めたガラスに自分の名前を書こうとして、結局何も書けなかった。
 家の中には、壮年の男女が向かい合って座っていた。部屋から漏れる大音量のテレビは、誰かの喋り声のような、物が壊れる音のような、動物の鳴き声のような、あるいはそれら全てが混ざり合ったような、ごちゃごちゃした音を鳴らしていた。
 縁の下の猫が、にゃあ、と鳴いた。毛に降り積もっていた雪は、もう完全に消えて無くなっていた。
 テーブルには、ショートケーキが三個置かれている。女の子は、それを見るや目を輝かせて、部屋の中に飛び込んでいく。けれども先に席に着いていた二人は、いただきますも何も言わず、ただ時折時計を見るばかりで、一向に食べる気配がなかった。
 業を煮やした女の子は、一人で勝手に食べようとしたけれど、やっぱりスプーンを手に取ることはできなかった。
 時計の針が七時を差した。母親が立ち上がり、ケーキの置かれた皿と、スプーンを持って別の部屋に歩いていく。父親はまだ座っている。髪は白髪に染まりきっていて、女性よりもずっと老けて見えた。
 女の子は、母親の後ろに付いていく。完全にケーキに釣られた形だったけれど、間違ってはいなかったので真っ赤になって否定する気にもなれなかった。
 廊下を抜けて、少し歩いた先に、女の子の部屋がある。母親は電気を点け、黄ばんだネームプレートの付いた扉をそっと開けて、女の子の名前を呼ぶ。
 小さな声だった。雪の降る音にさえ掻き消されそうな、すぐそばにいても聞き取れないくらいの、か細く弱い響きだった。
 女の子は、それが自分の名前であることに気付いた。
 忘れていたわけではなかった。ただ、思い出したくないだけだった。
 埃ひとつない勉強机の上に、ケーキが置かれる。その前にスプーンが添えられて、母親は立ったまま手を合わせた。目を瞑り、暖房の効いていない部屋の中に佇み、女の子の名前を口にする。
 女の子はケーキを食べたかったのだけど、スプーンを触ることはできなかったし、母親に頼んで食べさせてもらうこともできなかった。
 それが、ひどく悲しかった。
 低く、重い足音と共に、沈んだ顔をした父親が現れた。彼もまた女の子の名前を呼び、手を合わせて、目を瞑った。まぶたを閉じて、女の子が嬉しそうにケーキを食べていた時のことを思った。
 女の子は、母親と、父親の名前を呼んだ。
 当たり前だけれど、二人が返事をすることはなかった。とても寂しかったけれど。
 女の子は、もう死んでしまったから。
 十年以上も前に、重い病気に罹って、この世界からいなくなってしまった。今日みたいに、雪の降る寒い日だった。特別な日に加えて、女の子の誕生日でもあった。女の子は猫が好きで、病気が治ったら、猫が飼いたいと言っていた。テレビのCMに出ていた、長い毛をした白い猫だ。賢くて、凛としていて、毛が柔らかそうで、背中を撫でから嬉しそうににゃあと鳴いたりして。
 みんな、わかっていた。
 みんな、わかっているのだ。
 女の子は、自分の部屋を抜け出して、縁の下にいる白猫の元に向かう。
 その猫は、自前の毛にくるまって暖を取っており、とても温かそうだった。女の子もそれにあやかって、猫を抱きかかえるように引き寄せる。何かに触れられているような、撫でられているような、不思議な感覚の中で、猫はひときわ大きな欠伸を漏らした。
 雪が積もっていたから、とても静かな夜だった。猫が少し鳴いていたところで、気にしないで眠ってしまえるくらいには、真っ白な雪に包まれていた。
 女の子は、眠りに就いた。目が覚めるかどうかはわからなかった。でも、猫がいるから、寂しくはなかった。母親も、父親も、自分の名前を呼んでいた。自分も、二人の名前を覚えていた。
 だから。
 触れているかどうかすら定かでない猫の隣で、女の子はそっと目を閉じた。



 翌日、足跡だけを残して、白猫は雪に溶けるように姿を消していた。
 ケーキは食べられないまま緩やかに傷んでいった。
 雪はとうに止んでいて、銀世界は太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
 日付は、12月26日になっていた。

 

 

 

 



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2011年12月25日  藤村流




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